■ 16.足を洗わぬ木曜日D
「あのねぇ、表の世界じゃあたしはただの人殺し。人殺しの集団に混じって初めて、ようやく
修道女になれるんだよ」
ともすれば開き直りにも聞こえかねないことを口にしたペコリーノは、ホルマジオに向かって肩を竦めて見せた。「それは、そうだけどよ……」普段、こちらがどれだけ彼女の無謀をいじっても、真剣に目指しているのだと言うくせに、どうして急にそんな
まともなことを言い出したのか。
咄嗟に返す言葉が見つからず、ホルマジオの視線は宙をさまよう。
「にゃあん」
「お……」
すると主人の劣勢にでも駆け付けたつもりなのか、不意に現れたホルマジオの猫が二人の間に割って入る。ペコリーノは猫を見るなり、うわあ、と声を上げた。
「びっくりするくらい泥だらけ。元の色がなんだったか忘れるくらいよ」
「
灰色だ。昨晩、外は酷い雨だったんだな。酔っててちっとも気づかなかったぜ」
「雨なら逆にきれいになったでしょうに。おいで。お前のほうが足を洗う必要がありそうね」
おいで、と言いつつ、身を乗り出したのはペコリーノのほうで、捕まえられた猫はふぎゃっと情けない声を出した。そして自分に迫る水桶を認識すると、今度はこの世の終わりのような叫び声をあげ、激しい抵抗を見せた。「ほらほら暴れない」しかしながら引っかかれようが蹴られようが、ペコリーノはあまり気にしていない。それは彼女が優しいからというよりは、“猫を洗う”という目的の前では多少の障害などどうでもよいからに違いなかった。
「おめー、無駄な抵抗はやめたほうがいいぜ? そこの女は人殺しだ。猫なんてその気になりゃああっという間だぜ」
「人殺しに飼われてる猫なんだから、そんな脅しは効かないわよ」
なおも暴れ続ける猫を見ながら、人殺しねぇ、とホルマジオは改めて呟いた。もちろん、自覚はある。罪の意識はとうにないけれど、殺ったか、殺ってないかでいうと、確実に殺っている。
「だが、神はどんな罪でも赦してくれるんだろう? だったらお前だって赦されるはずじゃねぇのか?」
不信心な自分は無理でも、彼女ならば。
そうでなければ、救われない。
ホルマジオの子供じみた言い分に、ペコリーノは猫を洗う手を止めた。もちろん逃げ出さないようにしっかり掴んではいるが、顔をあげてこちらをまっすぐに見つめた。
「そうね、主を信じ、自らの罪を言い表すなら、いかなる罪も赦してくださるそうよ。
要理教育で大罪だとされる殺人も、中絶も、怒りにかられた暴力も、復讐も、強姦だって赦されるってわけ」
「……」
何も初めてキリスト教に触れるわけでもないのだ。教えのうえで、赦されることになっている、というのはもちろんホルマジオだって知っている。だから本当は、それならペコリーノも本物の
修道女としてやり直したって赦されるだろう、と続けるつもりだった。
これはもともとそういう話だった、はずなのに――。
「随分と都合のいい話だな。罪人側の俺が言うのもなんだが、そいつはちと甘すぎるぜ」
たっぷりの私情を挟んで、ホルマジオはつい、結論を曲げてしまった。ペコリーノが彼女の神に赦されて欲しいと思う一方で、ホルマジオは大罪を犯した奴らが無罪放免となるのは認められなかった。
「おまけに被害者側には、赦せと言うんだろう」
赦せるわけがない。姉のことも、ソルベとジェラートのことも。もちろん、自分が踏みにじってきた奴らにだって、ホルマジオは赦しを求めたりしない。自分のような人間は、恨まれて憎まれて、殺されたとしても文句は言えないと思っている。けれども、自分はそれでいいとしても、家族や仲間が苦しめられたのなら黙ってはいられない。「それなんだけどさ、」頭、身体、足、しっぽ。上から順に撫でるように洗いながら、ペコリーノは小さくため息をついた。
「あたしはね、何もすぐに赦さなくたっていいんじゃないかと思ってる。誰かを赦せないのだとしたら、今はまだその時じゃないだけよ」
「……」
「ただ誰かを赦せない間って、やり場のない怒りを持て余して、無力感や焦りに苛まれて、ひどく苦しいでしょ? だからね、赦しなさいっていうのは命令じゃあなくて、『あなたが誰かを赦して早く苦しみから解放されますように』って、背中を押してくれてる言葉だと思ってる」
隣人だけでなく敵すらも愛せ、と神は言う。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せとも。
イタリアで生まれ、信仰が身近であったホルマジオでも、さすがにそれは綺麗事だとしか思えなかった。幼い子供に倫理を説くのに使う分にはまだしも、実生活にまで持ち込むのはナンセンス。もしも律義に守っていれば、それこそ傷つけられ、搾取され放題の人生だろう。
だが、逆に言えば、
綺麗事だと鼻で笑うくらいには、慈悲や赦しが善いものであるとも認めてしまっているのだ。
「……やっぱり、向いてるんじゃねーの。
修道女」
善いとされることが自分にはどう頑張ってもできそうにないというのは、信仰に関わらず気分の良いものではなかった。まるで赦せない狭量なこちらが悪いみたいではないか、と思ったことすらある。
けれども、ペコリーノの解釈ならば、ほんの少しだけ真面目に耳を傾けてみてもいいかもしれないと思った。
「ふふん、昔から教えをすり抜けるための言い訳だけは上手いのよ、あたし」
「なんつーか、そう言われると向いてない気がしてくるから不思議だな」
「孤児院にいた頃、短気すぎてすぐ手が出るから
憤怒って呼ばれたこともあったわね」
「むしろ大罪側じゃねーか」
「今じゃこのあだ名はギアッチョに与えられるべき!」
泥だらけだった猫は、泥が乾ききるまえだったのが幸いしたのか、水で洗ってやるだけでちゃんと綺麗になった。ほい、とそのままびちゃびちゃの猫を渡されそうになったので、ホルマジオは慌ててタオルを広げる。せっかく主人が水気を拭ってやろうとしているのに、まだ抵抗してくる猫のふてぶてしさには一周回って感心するほどだ。
そうして、ペコリーノは濁った桶の水をひっくり返して流してしまうと、今更のように首を傾げた。
「ていうか、あたし達ってなんでこんな話してるんだっけ? なんで猫洗ってるんだっけ?」
「そりゃあ、時間潰しだろ。カーペットのシミ抜きの間の」
「あ、そうだった! さぁて、首尾はどうかな……」
「おいおい、流石にまだ早えだろ」
一時間は待てと言ったのに、いくらなんでも堪え性がなさすぎる。猫を洗う間、脇にどけてあったカーペットの塩を払おうとするペコリーノを止めようとして、ホルマジオが一瞬気をそらした瞬間。「あっ」猫は器用に身をよじってホルマジオの腕の中から逃げ出すと、とんっとジャンプして洗面台に登った。そして換気の為に少しだけ開けていた小窓の隙間から、するりと外へ逃げ出していった。
「あーー! せっかく洗ったのにッ! なにやってんのよ、馬鹿マジオ!」
「悪ィ。まぁでも、元々猫なんて外でうろうろするもんだからよォ……」
「賠償を要求する!」
「はぁ? これくらい赦せよ」
「いいや、赦さないね。服も濡れたし猫に引っかかれたし、これは確実に賠償!」
「お前なぁ……」
つい先ほどまでは、ベテラン神父顔負けの人格者っぷりだったのに。
今時、小学生でもやらないようなゴネ方をされたものだから、ホルマジオは肩透かしを食らった気分だった。リゾットはときどき彼女を指して悪い
修道女だと言うけれど、
残念な修道女に呼称を改めたほうが良いかもしれない。
「わかったよ、じゃあおめーにだけ、とっておきの内緒話をしてやる」
ホルマジオは結構真面目に言ったつもりなのに、彼女は言ってみろ、というふうに顎をしゃくった。これではなんだか深刻な顔をしているこちらの方が馬鹿みたいだと思ったが、それでも自然と声は潜められる。
「……リゾットにもまだ詳しくは言ってねぇが、俺たちはおそらく、これからボスを裏切ることになる」
「……」
ずっとずっと覚悟してきたし望んだことだったけれど、どちらかといえばホルマジオはこれまで周りを諫める役だった。だから、こうして改まって口に出すのは感慨深い。まだ何一つ事態は進んでいないのに、胸のつかえが取れたような気がした。
「だから、その前におめーだけでも、なんとかならねぇかって思ったんだよ。今ならまだ、おめーくらい、ポケットに隠して国外に逃がしてやれる。どうだ? 」
「どうだ、って?」
「いや、だから降りるなら今だぞって」
「内緒話って、もしかしてそれ?」
ペコリーノは裏切りの話を聞いて、驚くわけでも恐れるわけでもなく、真顔のままだった。いや、この真顔はむしろ、怒りすぎている結果かもしれない。セレストブルーの瞳に強い光をたたえて、あんたたちはそればっかり、と言い捨てた。
「メローネも、ボスには逆らうなって。自分たちは裏切る気満々のくせに」
「あいつまで、そんなことを言ったのか……」
どうも染まりやすい奴だから――それこそ、仲間の誰かが言い出したら乗る奴だと思っていたから気をつけていたけれど、知らない間に他人に忠告できるほどには成長していたらしい。
まあそれはさておき、メローネが止めた気持ちはよくわかる。フランスから帰って以来、誰の目からしても二人は打ち解けて見えたが、こちらが思っていたよりも随分腹を割っていたらしかった。
「ねぇ、ホルマジオ、さっきの猫どうなったと思う?」
「……は?」
「せっかくあたしが洗ったあの猫よ。まだきれいでいると思う?」
「いや……」
不意に話題が変わって、ホルマジオは面食らった。が、不意打ちだからこそ、つい真面目に考えてしまう。
実際に、外がどの程度ぬかるんでいるかは知らなかった。だが、来た時の猫の様子からして、また元通りの泥まみれになってしまっている可能性は高いだろう。
ホルマジオが言葉に詰まると、ペコリーノはどこか勝ち誇ったようにすっきりとした笑みを浮かべた。
「ほら! 足なんて洗ったってね、すぐに汚れるのよ。だから無駄」
「……そのくせ、おめーは詫び寄こせって要求したじゃねーか」
「そりゃあ、ここぞとばかりに貰えるもんは貰うわよ。まぁ、期待外れだったけどね」
「じゃあ、何が知りたかったんだよ?」
余計な詮索は好まない。人生良いことばかりなら話すのも楽しいかもしれないが、現実には隠したいことのほうが多すぎる。
そう思っていたのに、ホルマジオは彼女を促してしまった。この
残念な修道女に気遣いや遠慮なんて期待しても意味ないだろうに。
「そうね、たとえばさっき出てきたホルマジオのお姉さんのこととか」
「……美人で優しくて、家族思いの自慢の姉だよ」
「それからそれから?」
「おめーが大人しく逃げることを選んでたら、会えたろうにな」
「え!?」
ホルマジオの家族は、イタリアには誰もいない。
近所中に醜聞が回って、元の場所に住み続けることが難しかったし、世間から離れて少しでも心穏やかに暮らせるように、とっくの昔に姉は国外の修道院に逃がした。その後、ホルマジオがこっちの道に来た時点で、弟や妹たちにもイタリアを離れるように言い、みな縁を切っている。家族を脅しや見せしめに使うのは、
ギャングでは常套手段らしいから。だから、普段は家族がいるなんて話もしない。
「なによそれ。だったら、あんたこそ逃げれば?」
「駄目だ、お前らだって一応、
家族みてえなモンじゃねーか」
「うええ、きも」
ペコリーノはわざとらしく眉をしかめて舌を出したが、どう見たって嬉しそうなのが透けている。そうか、こいつは孤児院出身だったな、とホルマジオは心の中で思った。
「ホルマジオがそんなこと言うなんて。プロシュートが聞いたらなんて言うか」
「そりゃあ、おめー、あれだろ」
「「仲良しクラブじゃねーぞ」」
声が揃って、思わず二人とも吹き出す。
そうやってくだらないことで腹をかかえて笑っていると、幸せなんて探せばどこにでもあるものなのかもしれないと思えた。
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