- ナノ -

■ 15.足を洗わぬ木曜日C

 郵便受けの中に入れられていたのは、紛れもない悪意だった。
 宛名も差出人も書かれていない無地の茶封筒に、安物のトイカメラで撮ったようなぼやけた写りの写真が数枚。それでも写っているのが誰なのか、何をされたのかは十分にわかる代物だった。
 ホルマジオはそれを見た瞬間、黙ってぐちゃぐちゃに握りつぶした。びりびりに引き裂いてなかったことにしてしまいたかったが、写真の欠片の一部でも姉や弟たちの目に触れさせたくない。強く握りこみすぎて自らの爪が手のひらに刺さっても、ホルマジオはまだその写真を握りつぶさずにはいられなかった。
 確かにビビアーナは、家族のためにその身を捧げた殊勝な乙女だったこともあったのだろう。が、こうして無言で写真を送り付けられたことで、今回はひとかけらの合意もない恐ろしい事件だったのだと、ホルマジオは理解してしまったのだ。

 誰かが明確な悪意を持って、姉を辱めている。そしてそいつの嫌がらせは暴行で終わりではなく、これから始まるのだと。

「どうしたの?」
 
 きっと一目でわかるほど、ホルマジオは呆然としていたのだろう。リビングに戻って写真以外の郵便物を渡すと、ビビアーナは心配そうにこちらをのぞき込んだ。事件からまだ三日も経っていない。彼女はホルマジオがついた嘘通りにすっかり風邪が良くなったように振舞っているが、本当ならば心配されるべきは姉のほうなのだ。素直な弟たちは、姉の顔のあざだって、熱でふらついて転んだためにできたものだ、というのを信じている。幼い彼らは残酷な想像を働かせられるほど、社会のことをよく知らなかった。「……いや、なんでもねぇよ」ホルマジオだって、まさかこれほどまでに人間が残酷だなんて考えもしなかった。

「そう? ならいいけど……」

 ホルマジオが首を振ると、気がかりそうに語尾を濁してビビアーナは黙り込んだ。彼女は彼女で、弟に知らなくていい現実を見せてしまったという罪悪感があるのだろう。とはいえ、どこで他の弟妹たち聞かれてしまうかわからない。何より、どう切り出してよいのかもわからない話題だから、ホルマジオもビビアーナもお互い改まってこの件に触れるようなことはなかった。気丈に振舞う姉を見るのはホルマジオとしてもつらいことではあったが、彼女の努力を感じているからこそ、ホルマジオも何事もなかったみたいに振舞うしかなかった。

「そうだ。俺、今日からダントーニさんのとこで手伝わせてもらえることになったから」
「……無理しないでね」
「大丈夫だって。ただ野菜の入った袋を車に積んだり倉庫に運んだりするだけだしな」

 それが良いか悪いかは別として、イタリアでは児童労働なんて別段珍しくとも何ともなかった。義務教育はあと一年ばかり残っていたけれど、もう一年粘ったところで上等な働き口にありつけるわけでもない。何か夢があって勉強していたわけでもなかったし、姉が気に病むほどホルマジオは学校に対する未練など持ち合わせていなかった。
 大事なのは家族だ。どうせホルマジオ一人の稼ぎでは姉や弟たちみんなを養うことなんてできないだろうが、せめて姉が昼の仕事だけで済むようになればいい。どんなに貧しい生活だとしても、家族がいればささやかな幸せを見つけることくらいできるだろう。
 ホルマジオは無意識のうちにポケットの中に手を突っ込んだ。丸められた固い紙の感触が指先にこつんと触れる。それは、ホルマジオの家族を守りたいという決意をより確かなものにした。

「ビビ姉はなにも心配しなくていいから」

 この写真は絶対に存在していてはいけないのだ。




 イタリアでのカメラ製造が最盛期を示したのは、第二次世界大戦の直後。それまで行われていた軍需産業からの転換であり、一眼レフといえばドイツのエキザクタかイタリアのレクタフレックスかと名の挙がるほど、それはそれは素晴らしい製品を作り上げていた。 
 しかし、その栄華は長くは続かず、一九五〇年代後半には緻密な日本製の一眼レフが市場を席巻する。そこからさらに三十年も経てば、イタリアのカメラ産業がどうなったのかなど言うまでもないだろう。日本がより高性能、高級化の路線に舵を切ったのに対し、わずかに生き残ったイタリアメーカーがとった道は、より単純化された構造の安価な簡易カメラ、あるいはトイカメラを作って販売することであった。


――カシャリ。

 ホルマジオがダントーニの食品市場で働き始めて、一か月は過ぎた頃だろうか。
 突然、無遠慮にたかれたフラッシュに、ホルマジオは作業の手を止めて振り返る。「ふふふ、ごめんね。つい、撮りたくなっちゃって」そう言って、倉庫の敷地ぎりぎりのところに立っていた女は、てんとう虫のように赤いカメラを掲げて見せた。デザインからして、生真面目な日本人は作らないだろうなと思える代物だった。

「……」

 ホルマジオは写真を撮られたことに対して何かを言うこともなく、ただ黙って女を見つめ返す。歳の頃はちょうど、ビビアーナと同じくらいか少し上だろう。カメラの安っぽさとは反対に、このあたりでは珍しいくらい上等な服を着ていた。だがそれでも同じイタリア人だ。旅行客ならともかくも、現地人がイタリアの日常風景――しかも倉庫にトウモロコシの袋を運んでいるだけだ――を撮って、一体何になるのだろうか。普通であれば変な奴だと思って無視するところだが、ホルマジオは女の瞳に悪意が揺らめくのを感じ取っていた。
 根拠はないが直感が告げている。この女は絶対にビビアーナの件に関わっている。

「お姉さんのそれ、可愛いカメラだね」
「ありがとう。って言っても、彼のお古なんだけどね」
「へぇ、恋人がいるのか……」

 ただの無邪気な少年のふりをして、ホルマジオは会話を続ける。「うちの姉ちゃんにもいるのかな、そういうの」思ったとおり、姉という単語を出すと、女はわかりやすく笑顔を浮かべた。その笑顔はビビアーナの浮かべる優しい笑顔とは違って、酷く歪んだ笑みだった。

「そうね。普通の・・・娘さんだったら、恋人くらいいるんじゃないかしら」
「じゃあ、普通以上に・・・・・美人で優しい姉ちゃんだから、きっとすげーいい男が恋人なんだろうな」
「……釣り合ってるといいわね」

 貼り付けたような笑みを浮かべたまま、女はもう行かなくちゃ、と言った。彼女が去ってしまうのを見届けた後、ホルマジオも元の作業に戻る。
 その日の仕事は、なかなか終わらなかった。特別大量に荷物があったわけでもないはずなのに、運んでも運んでもトウモロコシの袋が減らないのだ。頭の中はさっきの女のことでいっぱいだった。趣味と断じるには安っぽいカメラ。ビビアーナに対する隠し切れない悪意。実はあれから写真は何度も家に届けられていて、毎朝誰よりも早く郵便受けを確認するのがホルマジオの日課になっていた。

(でも、あの女が首謀者だとしても、それとは別にビビ姉に乱暴した男がいるはずなんだ)

 それが、女の言う“恋人”なのだろうか。
 夕日の沈んだ帰り道。考え事をしながら歩いていたホルマジオは、不意に後ろから肩を掴まれ、路地の奥へと引きずり込まれた。

「やぁ、僕ちゃんバンビーノ。偉いねぇ、こんな時間までお仕事かい?」

 背中に固い壁の感触がしたと思えば、三人の男に取り囲まれている。いずれも真っ当な人間には見えなかった。ギャングの中でもうだつの上がらない下っ端か、それ以下のどうしようもないチンピラか。こんな子供相手に金目当てということもないだろうから、相手は誰でもよかったのではなく、ホルマジオに用があるのだろう。

「カメラの女の仲間か?」

 人数差も年齢差もある。暴力を振るわれれば、どう頑張ったってホルマジオに勝ち目はないだろう。それでも向こうから手掛かりがきてくれたのだ。
 怯む様子を見せないホルマジオを見て、男たちは大袈裟に感心して見せた。

「おいおい、こりゃあ意外と頭のキレる坊主じゃあないか。あんな倉庫で働いてるのがもったいねぇくれぇだな」
「ほんとだぜ、学校を辞めちまわないで、そのまま普通科高校リチェオに行ってりゃ、ボローニャ大学にでも進んでたんじゃあねぇか?」
「親もおっちんじまってることだしよ、奨学金だって簡単に出たかもしれないぜ? なぁ?」

 家のことが詳しく調べられていることといい、やはりすべては仕組まれたものだったのだろう。男たちは同情するかのようにホルマジオの肩に手を乗せた。こちらが小さいのをいいことに、舐め腐っているのだ。「……お前らが、ビビ姉を襲ったのか?」発した声は震えていたが、それは恐怖のためではなかった。

「おめーらがやったのかって、聞いてんだよッ!」

 一番近くにいた男に、ホルマジオは掴みかかった。胸倉を掴んだつもりだが、体格差もあってほとんどしがみついているに等しい。

「うるせぇな。元はと言えば、てめーの姉貴が悪ィんだろうが」

 米神に一発。手を放してしまったホルマジオは、そのままたたらを踏んだ。体勢を立て直そうとしたところに腹を蹴られて、とうとう地面にみっともなく転がされる。それから間髪入れずに男たちの蹴りが何度も振るわれたが、ホルマジオの怒りは萎えることはなかった。姉の受けた仕打ちに比べれば、骨の一本や二本、どうでもいいことに思えた。

お嬢・・はな、お怒りなんだよ。てめーの姉貴がお嬢・・の男に粉かけやがったから。ま、実際、そっちは商売で、勝手に本気になっちまった男が悪ィんだが……とにかく、お嬢・・はてめーの姉貴が不幸になるのを望んでる。売女に取られたとあっちゃ、プライドだって許さねーんだろう」
「……っ、もう、十分不幸だ、お前らのせいでッ」
「それがなぁ、まだ足りないらしいぜ。ちったあ懲りてるかと思いきや、相変わらずにこにこ笑顔を振りまいてて頭に来たんだそうだ」
「それは……! 」

 ビビアーナは苦しくても無理に笑っているのだ。傷ついていないわけがない。あんなことをされて平気なわけがない。どうしてそれがわからないのか、ホルマジオは悔しくて悔しくて仕方がなかった。鼻からなのか口からなのかわからない血を吐き出し、男たちを睨みつける。しかし、続けて彼らが告げた事実に、今度こそ言葉を失った。

「どうやら家に送った写真はお前がこっそり始末してたみてーだがよ、あれ、実は近所中にばらまかれてんだぜ。知ってたか?」
「……!」
「まぁ、それでもへらへら笑ってられるんだからよ、マジにてめーの姉貴はイカれてんのかもな」

 男たちは言った。恨むならてめーの姉貴を恨めよ、と。本人で駄目なら家族を痛めつけるのが常套手段だから、とホルマジオを殴打した。

「不幸な時は、大人しく飛び切り不幸な顔してりゃあいいんだ」
 
 煽りともとれる内容とは裏腹に、男たちの声には本気の同情が混じっていて、ホルマジオは余計に赦せなかった。たとえ、ただ命令されたのだとしても、こいつらが姉を傷つけたことには変わりないのに。「強姦魔め……」加害者のくせに憐れむな。自分達は強いられただけだからと罪から逃れようとするな。朦朧とする意識の中でホルマジオが吐き捨てると、男たちはより一層の憐れみを滲ませて言った。

「残念だが、今のイタリアの法律じゃあ、売春婦に強姦罪は適用されないんだぜ」



 次にホルマジオが目を覚ました時には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。正確な時間はわからないけれど、これだけ静かだとバールですら開いているのか怪しい。もはやどこが痛むのかわからないほど全身が悲鳴を上げていたが、壁に縋り付いてでも立ち上がれたことからして足は折れていないのだろう。
 途中、何度も何度も倒れこみながら、やっとのことで家に辿り着いたホルマジオは、玄関口でまたもや意識を手放した。その際、物音を聞きつけてこちらにやってきた誰かの、押し殺したような絶望の声が耳に届いた気がした。



「……よかった、目が覚めたのね」

 幼い頃は怖かった天井の木目が、この時ばかりは心配しているような表情を浮かべていた。ベッドの上のホルマジオは首だけを動かして、安堵に震えた声の主を探す。
 目が合ったビビアーナは、あの事件の日よりもよっぽど不幸な顔をしていた。両の瞳からはらはらと涙を流して、悔しいけれど、あのカメラ女の思惑通りになったということだろう。

「ごめんね、私のせいで、本当にごめんね……」

 泣きながらうわ言のように繰り返し謝る彼女は、ホルマジオがなぜこんな目にあったのかわかってるようだった。勝手に守れたつもりでいた写真の件だって、ビビアーナは知っていたのだから当然だろう。「……ビビ姉のせいじゃ、ねえ」月並みなことしか言えない自分が腹立たしかった。あの時のように、部屋に水桶を運んできていた彼女は、懺悔するみたいにホルマジオのあざの一つ一つを石鹸をつけたタオルで拭った。

「あなたにまでこんなことされるなんて、思わなかった……あぁ、この傷が消えなかったらどうしよう」

 正直言えば、今は触れられるだけでとても痛い。ましてや、あざなんか拭ったって仕方がないものだろう。それでもホルマジオはうめき声を漏らさぬように、姉のしたいようにさせていた。それでほんの少しでも姉の心が軽くなるのなら十分意味があると思った。

「あぁ、どうしましょう! やっぱり消えないわ!」
「ビビ姉、何言って……?」

 けれどもなんだかビビアーナの様子がおかしい。固形石鹸を削らんばかりの勢いでタオルに擦りつけ、無理に泡を立てようとする。そして同じくらいの力で今度はあざを拭おうとしたものだから、ホルマジオは思い切り痛みに眉をしかめた。

「っ! やめろよ、ビビ姉、どうしちまったんだよ?」
「だって、消えないのよ! 洗っても洗っても消えないの!」

 いつも穏やかな姉からは想像できないほど、鬼気迫った声だった。固まってしまったホルマジオの目の前で、姉は自分の袖をまくり上げる。暴行事件は一か月くらい前の事で、殴られたとはいえ、痛めつけるのが主目的ではない彼女のあざはとうに消えているはずだった。実際、そこには以前ホルマジオが見たような紫の手の跡はどこにもなく、代わりに白かった彼女の腕は酷い擦過傷・・・で赤黒く抉れていた。

「ほら見て! いつまで経っても、掴まれた跡が消えないの!」
「な、にを……」

 呆然とするホルマジオの前で、ビビアーナは擦過傷をさらに強くごしごしと擦る。彼女にしか見えない跡を必死になって消そうとして、返って自分を傷つけている。

「やめてくれ! あざなんてねぇよ!」

 何がへらへら笑っている、だ。何が不幸が足りない、だ。
 全身が燃えるように熱い。
 ホルマジオは転がり落ちる様にベッドから出ると、ビビアーナの手から強引にタオルを奪った。男たちの同情めいた言葉が蘇る。

――マジにてめーの姉貴はイカれてんのかもな

「頼む、頼むよ、ビビ姉……しっかりしてくれ……」

 真正面から見つめあったビビアーナの瞳には、きれいな強い光はもう宿っていなかった。小さくなってしまった石鹸握りしめ、彼女はすっかり絶望に染まった声で言う。

「……消えたい、私も、小さくなって消えてしまいたい。私さえいなくなれば、これ以上皆が傷つくこともないのに……」
「……」
 
 もしもこのとき、ビビアーナが復讐を一番に望んだのなら、後々、ホルマジオの精神は何か別の力を形づくっていたのだろうか。
 いずれにせよ、どこまでも家族を想う姉の言葉を聞いて、ホルマジオの中で怒りよりも悲しみが勝ってしまった。犯人たちを痛めつけたい気持ちよりも、このつらい世界から姉を隠してやりたい気持ちのほうが強かったのだ。
 もちろん、当時のホルマジオでは、ただひたすらに姉を抱きしめてやることしかできなかったのだけれど。
 

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