- ナノ -

■ 14.足を洗わぬ木曜日B

 

 あの頃――ホルマジオがまだ少年だった頃、女性の権利というのは、その女性個人に属するものではなく、女性の家族である父親やその夫のものであった。

「ビビ姉大丈夫?」
「昼ごはんも、食べられそうにない?」

 姉の寝室を出るなり、心配そうに駆け寄ってくる幼い弟妹たち。彼らには一番上の姉――ビビアーナが、疲れから体調を崩してしまったのだとだけ伝えてある。何も知らない弟たちを安心させるように、ホルマジオは身をかがめて彼らと視線を合わせると無理に笑顔を繕った。本当ははらわたが煮えくり返って、いっそ吐き気を催しそうなほどだった。

「なぁに、心配ねェ。昨日の雨に濡れたせいで、熱が出ちまっただけだ」
「お医者さんは?」
「呼ぶほどでもないって。まぁでも、お前らは移るといけないから入るなよ」
「えぇ、でもご飯作ったのに」
「それはオレが後で持っていくよ。な? いい子だから、今はビビ姉を寝かしてやれ」

 いつもは聞き分けのいい弟たちが不満そうなのは、それだけビビアーナに懐いているからだろう。両親は数年前に事故で死んで、それ以来一番上の彼女がほとんど親代わりになって育ててくれている。ホルマジオにとってもビビアーナは姉であり、母親代わりであった。だからこそ、彼女がおぞましい目にあったことは耐えがたかったし、こんなことになるまで姉の苦労に気づかずのうのうと生きてきた自分も許せなかった。

(フツーに考えて、遺産なんて、そんなたくさんあるわけがなかったんだ)

 ホルマジオの生家は、ごく普通の一般家庭だ。たとえ両親が天寿をまっとうしたとしても、有り余るほどの遺産が残せるような、そんな裕福な家だったわけでもない。それなのに、ビビアーナはいつも笑ってお金なら遺産がたくさんあるのよ、というものだから、ホルマジオはすっかりそれを信じ込んでいた。実際、贅沢はできずとも衣食には困らなかったせいで、特に心配をした覚えもない。幼い弟妹たちを育てるのがどれだけ大変なのか、金額としてはこれっぽちも理解していなかったのである。

 ホルマジオがリビングに戻ると、テーブルの上には律儀に帰宅時間を書いたメモが残されていた。締め出されてしまった弟たちはそれでもビビアーナのために何かせずにはいられなかったのだろう。下手くそな字で、外へ花をつみに行ってきます、と書かれていて、それを見たホルマジオはどうしようもなく悲しくなった。花で姉の心が癒せるなら、どんなにいいだろう。薬で、包帯で、姉が元気になってくれたらどんなによかっただろう。
 それでも、今のホルマジオがしてやれるのは、そういう物理的なことだけだった。姉に頼まれたように、桶に水を張り、タオルを持って部屋へと引き返す。「ビビ姉、入るぜ」いつもはお構いなしにずかずかと部屋に入るくせに、ホルマジオは小さな声で断りを入れた。どんな些細なことだとしても、これ以上は姉を傷つけたくなかった。

「……」

 頭から足の先まで、白いシーツにくるまった姉の姿。彼女がそうやって顔を隠しているのは、今の彼女が強がりでも゛笑えない”くらい、ぼろぼろに傷ついているからだろう。ホルマジオはなんと声をかけていいかわからず、部屋の入り口でしばし立ち尽くしていた。
 一人にしてやったほうがいいのだろうか。でも、姉はずっと一人で耐えてきたのだから、もう十分だろう。
 水の入った桶をベッドの足元へ下ろして、ホルマジオは姉の名前を呼ぶ。彼女は「ごめんね……」と泣き声で言った。シーツの隙間から伸ばされた腕には、いくつもの赤紫のあざがあった。酷い力で掴まれたのか、あざはくっきりとした手の形をしていた。

「……謝るのはオレたちのほうだ。もう、もう二度と、こんなことやらなくていい」
「……」
「金なんて要らねェ。オレだって学校なんか行かなくたっていいし、その分働くさ! だから……」

 元気になってほしい。いつもの、笑顔が素敵なビビアーナに戻ってほしい。
 危うく、幼い、残酷な願望を口にしかけて、ホルマジオは黙り込んだ。「だから……心配しないで、休んでくれよ」すべてが元通りになるとは思わない。だが、ホルマジオが彼女の代わりに働けば、姉は不本意にその身体を売らなくて済むだろう。ゆっくり休めば、いつか時間が解決してくれる。完全に癒えることがなくても、痛みは少しずつ和らいでいくものだ。

「……ごめんね」

 ビビアーナはもう一度そう呟くと、ゆっくりと身を起こしてホルマジオの頭を撫でる。その顔はやはり殴られて痛々しかったし、目の周りも真っ赤に泣き腫らしたあとがあったが、ホルマジオと同じマラカイトグリーンの瞳にはわずかに光が宿っていた。それを見たときホルマジオは、なんて強いひとなんだろうと思ったし、同時に心の底から安堵した。

「謝らないでくれよ。オレは……ビビ姉にも幸せになってほしいだけなんだ」

 このとき、ホルマジオは知らなかったのだ。
 本当に姉の心を壊すのは、彼女が身に受けた手ひどい暴行そのものではなかったことを。



△▼


「洗っても、洗っても、取れないの」

 責めるような、絶望するような、どちらともつかない口調で言われて、ホルマジオは思わずどきりとした。
 なかなか戻ってこないと様子を見に来てみれば、大きめの桶に水を張って、浴室で躍起になって何かを擦っていたペコリーノ。なんてことはない。昨日盛大にこぼした緑の酒が、そのままくすんだ黄緑色になってカーペットに大きなシミを作っていた。

「洗濯機にぶち込む前になんとかしたかったんだけど、このザマよ」

 以前、『修道女ソレッラが人前で肌なんか晒せるか』と言っていたのはどうしたと突っ込みたくなるほど、ペコリーノは清々しいくらいに長い裾をまくり上げて白い足を晒していた。おそらく濡れるのを厭ったのだろうが、それにしても恥じらいの欠片もない。むしろホルマジオのほうが目のやり場に困って、身体を半回転させ、開け放たれた浴室のドアにもたれかかった。

「重曹は使ったか?」
「この前、イルーゾォが鏡を磨くときに全部ぶちまけたせいで無かったの」
「はぁ〜しょうがねェなァ。じゃあ塩だ。ちょっと待ってろ」
「塩?」

 疑問符を浮かべて振り返ったペコリーノをそのままに、ホルマジオは一旦キッチンへと戻る。ガラスのポットに入った分では到底足りそうにないので、戸棚の下から箱に入った一キロ入りのものを取り出した。

「塩なんかでほんとに落とせるの?」
「さぁな。少なくとも赤ワインは落とせたぜ。こいつはどうだか知らねぇけどよ」

 ぎゅっとできるだけ水気を絞ったカーペットのシミの上に、かけるというよりはほとんど盛るように塩を被せていく。そのあまりに大胆な方法を見て、ペコリーノは呆気に取られたように瞬きをした。

「へぇ、おばあちゃんの知恵袋アリメイディ デッラ ノンナってわけ?」 
「まぁ正確には姉貴に教えてもらったんだが」

 さらりと答えれば、よほど驚いたらしく、ペコリーノはますます間抜けな顔になる。別に大した情報ではなかったが、ホルマジオが仲間の前で家族の存在を口にしたのは、たぶんこれが初めてだった。

「……姉がいたんだ? てっきり、いるなら弟か妹だと思ってた」
「弟と妹もいたぜ」
「ふーん」

 うまくいけば塩がシミの成分を吸ってくれるので、一時間後ぐらいに掃除機で吸ってしまうだけでいい。そう告げれば、一時間も待つのか、と嫌な顔をされたが、もう塩はたっぷり使ったあとだ。やるだけやってみるしかないと、ペコリーノも腹をくくったらしい。
 その代わりに、時間ができたことだし、と彼女は猫のような瞳を好奇心できらりと輝かせた。

「でも、急にホルマジオが自分のこと話すなんてどうしたの? まさか、壁を感じるって言ったの、気にしたわけ? 案外可愛いところもあるのねぇ」
「ハハ、おめーみてーなのには適当に餌をやっとかねぇと、余計なことまで詮索するだろうと思っただけだよ」
「あらあら、探られて困ることでもあるの?」
「こっちは誰かさんと違って明け透けってわけにはいかねーのさ。処女らしいぞって、メローネが触れ回ってたからシメといてやったぜ。感謝しろ」

 相手が普通の女だったら、気まずい話題だ。が、ホルマジオの予想通り、彼女は普通ではない。それの何が恥ずかしいのか、と言わんばかりに鼻を鳴らした。

「はぁ? 修道女ソレッラなんだから、当たり前でしょ」
「お前のその、意思の強さだけはマジに恐れ入るぜ……」

 ここまでくると意思というよりは、思い込み、と言った方がいいのかもしれない。呆れるくらいに真っすぐで、ドン引きするくらいに強情だ。
 だが、ホルマジオは彼女の強い輝きを放つ瞳が嫌いではなかった。だからこそ、これから先起こることに彼女を巻き込みたくないと思ってしまった。

「なぁ、このまま足を洗う気はねぇのか?」
「え、足なんて汚れてないけど?」

 ペコリーノは白い足を、くるりと内側に向けて確認する。暴力沙汰になることが多いわりには、あざの一つもない綺麗な足だ。姉のことを思い出していたホルマジオはそれを見て、今ならまだ間に合うのではないか、と思ってしまった。

「そうじゃねぇよ。ギャングなんか辞めちまって、ほんとに修道女ソレッラになりゃいいじゃねーか」

 組織を抜けるのだ。長くこの業界に身を置いているホルマジオは、それが口で言うほど簡単ではないことくらいわかっている。
 だが、彼女くらいたくましくて強い女なら、その気になればどこでだってやっていける気がしたのだ。

「イタリアに拘らなきゃ、やっていけるだろうよ。おめーは無茶苦茶な奴だが、その信心深さだけはオレたちが保証してやるぜ」
「何よ突然……」
「別にただの思い付きで言ってるんじゃあねぇ。他の奴らのほだされようを見てりゃ、わりと才能あるんじゃねーかと思ったんだ」

 まだ未確定の段階だから、リゾットには言っていない。が、ホルマジオは秘密裏に、忌々しい首輪を引きちぎるための情報を掴みかけていた。
 この後、もしも本気で事を起こすとなれば、彼女もチームの一員として同じ未来を辿ることになるだろう。行く末はわからないが、分のいい賭けではないことは確か。降りるなら今のうちだった。ホルマジオはそれを裏切りとは思わないし、他のチームのメンバーだってそうだろう。
 けれども、

「あのねぇ、表の世界じゃあたしはただの人殺し。人殺しの集団に混じって初めて、ようやく修道女ソレッラになれるんだよ」

彼女は今までの強気が嘘だったみたいに、皮肉気で、諦観の混じった微笑を口の端に浮かべたのだった。

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