- ナノ -

■ 10.降灰の水曜日C

「Tシャツ1枚だ」

 大きなドラム缶が立ち並ぶガレージは、すえた油と独特な溶剤のにおいに満ちていた。頼りになるのはナトリウムランプのぼんやりとした橙色だけで、全体的に肌寒く、薄暗い。
 ガレージの奥のほうに視線を移せば、大きな作業台とミシンが置かれているのが見えた。ちょっとした工房のようになっているのかもしれない。よく見ればご丁寧に、手作りの看板まで掲げられていた。

 ──E.ゲインのこだわり皮工房
   世界にひとつしかない製品をあなた

 ニコロが<パッショーネ>のフランス支部からここに拉致されてきたばかりの頃だったなら、それを単なる誤植だと思っただろう。工房の主らしいE.ゲインという男は、名前からしてフランス人ではなかったし、くだらない文法上のミスだと思ったに違いない。
 しかしながら今は、それがミスでも趣味の悪い冗談でもなんでもないことを知っている。
 ニコロは天井から逆さまに吊り下げられ、罠にかかった野兎のようにぶるぶると震えるしかなかった。そこにはロープもフックも何も存在しないのに、ニコロは確かに見えないものによって宙づりにされていた。

「……Tシャツ1枚だぞ、クソ。まったくもって信じられねぇ」

 E.ゲインは先ほどから、工房とガレージを行ったり来たりして、ぶつぶつと悪態をついていた。せわしなく歩き回る彼の手には、刀身が薄く、やけに反り返ったナイフが握られている。その先端は丸かった。獲物の皮を引っ掛けて傷つけてしまわないよう、削ぐことに特化した形状だ。

「Tシャツ1枚で450ドル……お前、それ聞いてどう思う?」

 不意に、ぴたりと靴音がやむ。立ち止まったE.ゲインは、まるでたった今その存在を思い出したばかりのようにニコロに向かって話しかけた。ぎらついているのに、どこか虚ろな目だ。
 見つめられると喉の奥がぐっと詰まったような感覚になって、ニコロは小さく喘鳴することしかできない。

「ン〜? ドルじゃあピンとこねぇか? なら、100万リラって言やぁわかるか?」

 E.ゲインはナイフの腹をぺしぺしと自分の手のひらに叩きつけながら、ゆっくりと近づいてきた。何か、何か答えなくては。そう思うのに、身体は金縛りにでもあったかのようにピクリとも動かない。宙づりにされてから、ずっとそうだった。ニコロの身体は瞬きや排せつといった、生理現象まで止めてしまっている。たとえ恐怖心に打ち勝ったとしても、返事などできるはずもなかった。

「なァ〜〜どう思うって聞いてんだよ。高ぇよな? お前もTシャツ1枚で100万リラは高けぇって、そう思うよなッ!?」

 瞬間、目の前が真っ暗になって、暗闇の中に大きな火花が散った。顔面が燃えるように熱い。だらりと何かが鼻から垂れて、眉間を流れていく。じんじんとした痛みが遅れてやってきた頃になって、ニコロはようやく蹴られたのだと理解した。流れきれなかった鼻血が逆流し、せき込むこともできずに溺れそうになる。「おいおい、手間かけさせんなよなぁ」それを見たE.ゲインはまるで赤子の鼻をかんでやるかのように、親指と人差し指でニコロの折れた鼻をつまんだ。

「ま、お前の言いたいことはわかるぜ。GUCCIかなんだか知らねーけどよ、要するにTシャツなんてただの布だろォ? コットンだ。別に特別貴重な素材を使ってるわけでもねェ。あんなモン買うやつどうかしてるぜ……オレはどうしても納得がいかねぇ」

 顔の真ん中で、ぐちゅり、と嫌な水音がした。けれどもおかげでニコロは溺れずに済んだ。
 E.ゲインは血で濡れた自分の指先を見ると、ポケットからハンカチを取り出して拭う。それは一目でわかるほど滑らかな質感をしていて、ハンカチというよりも眼鏡などを拭くクロスのように見えた。

「そこで、だ。オレは値段と釣り合うだけの価値がある、本当に一級品の服を拵えようって考えたワケだ。今着ているやつもお気に入りだし、もちろんこれだってオレが作ったんだぜ? すげえだろ」

 くるり、とその場で一回転したE.ゲインは、光沢のあるジャケットとパンツを得意そうに見せびらかした。牛革とも、合皮とも違う、独特の深みのある色合い。「薄い皮だからな、何層にも重ねて縫うんだ」ニコロは叫びだしたかった。たとえ無駄だとしても、助けてくれ、と命乞いしたかった。目の前の狂人を──自分の運命を、神を呪う言葉を吐き出したかった。
 E.ゲインが血を拭ったお気に入りのハンカチを、あっさりと床に投げ捨ててしまうまでに。

「でもまぁ、何事にも欠点はある。オレの作品の場合、洗濯機で洗えねぇってこった。いちいち手洗いしなくちゃならねーもんで手間だからよ、その分、洗い替えは多く持っておきたい。わかるだろ?」

 熱を持った顔面にあてがわれた刃物は、身も凍るほど冷たかった。




 ベイビィ・フェイスの父親──切断された指の持ち主は、メローネたちの止まるホステルからそう遠くないところで発見された。
 今はもう使われていない小さな工場は、かつては皮なめしが行われていたのだろう。ニースから西へ30キロも行けば香水の聖地とよばれるグラースがあるが、そこだって元は皮産業で栄えた街だ。革手袋の独特の匂いが肌に残るのを、高貴なご婦人たちは香水で打ち消したのだという。
 生憎、ここの工場は生まれ変わることはできなかったようだが、併設された住み込みの工員のための宿舎も丸ごとそのまま、サディストたちのプレイルームと化しているらしかった。

□1階に侵入できました。1階は物置として使われているようです。家具や衣服がたくさん置いてあるので、紛れています

「いいぞ、お前の父親はどこにいる? まだ生きてるんだろう?」

□はい。ガレージに一番近い角部屋。そこに父さんはいます

 今回の目的はリュシアンを殺すことだけでなく、捕らわれた<パッショーネ>の恥さらしを始末することも含まれる。ベイビィの父親がまだ生きているのなら、そこは監禁部屋と考えるのが妥当だろう。一緒に恥さらしがいる可能性も高い。

 侵入を命じると予想通り、ベイビィからはたくさん人間がいます、と返ってきた。「よし、全員殺すんだ」いちいちどれがパッショーネの構成員か確認している暇はない。そもそもメローネたちは、ファミリーの誰が連れ去られたのかも知らされていない。フランス支部の間抜けが、とだけ。間抜けがどこのどいつだろうと知ったことではない。
 しかし、次に来たベイビィからの通信は、これまでの順調さを裏切る報告だった。

□メローネ、父さんを分解できません。父さんだけでなく、他の人間たちも

「なんだって? そいつはどういうことだ……? 状況を説明しろ、ベイビィ・フェイス」

□父さんは今、天井から逆さまに釣られています。生きてはいますが、裸で、全身真っ赤です。肌色の部分がない。この部屋にいる人間は全員そうです

「肌色の部分がないって、なに? どういうこと?」

 背後から画面をのぞき込んでいたペコリーノが、不思議そうに首を捻る。短絡的にすぐ手の出るタイプの彼女は、じわじわ甚振るような拷問方面になかなか思考がたどり着かないらしい。「皮を剥がれているのかもな」メローネが興味なさそうに答えると、彼女は眉をしかめ、げぇ、と吐く真似をした。

「だが、それでどうして分解できないんだ? 他に何か気づいたことは?」

 メローネは落ち着いてベイビィに様子を尋ねる。不測の事態が起こったときこそ、大人は子供の分も冷静でいなければならない。
 幸いにも、今回のベイビィはとてものんびりとした性格だったようだ。自分の攻撃が通じなくても、特に癇癪を起こした様子はない。

□分解はできませんが、試しにかじってみると抉れました。でも、死にません。喉笛を噛み切ってもまだ生きています

「……それで?」

□父さんはとても美味しいです

「そいつはよかったな!」
「あーーマジでまともな奴がいない」

 後ろでペコリーノが煩いが、子供を認めてやるのはすごく大事なことだ。小さいときに親から認められなかった子供は、どうしても不安定になりやすい。何をやっても自分は駄目なのだと、すっかり自信を無くしてヤケになったり、反対に自分では何もしようとしなくなる。メローネはベイビィをそんな風にはしたくなかった。せっかくの自動操縦型のスタンドなのに、自分で何も考えられない息子にするなんて間違っていると思う。

□メローネ、どうやら隣のガレージに父さんを吊るした男がいるみたいです。様子を見ますか?

「あぁ、そうだな。そうしてくれ」

 その点で言うと、今度のベイビィは教育に成功したらしかった。思わず笑顔になってしまうが、どうやら楽しんでいるのはメローネだけらしい。ふと、さっきまで背後にあった気配が離れたのを感じ、メローネは振り返る。
 ちょうどペコリーノはその手にスタンドを発現させ、部屋から出ていこうとしていた。

「おいおい、どこに行くんだ」
「もういいでしょ? 場所もわかったことだし、あたしが行ったほうが早いわ」
「今、いい感じじゃあないか。ベイビィの邪魔をするなよ」
「いい感じって、チャットだけじゃ全然様子がわかんないのよ。それカメラ機能とかついてないわけ?」
「ベイビィの自主性を尊重してるんだ。常に親の監視の目があるなんて最悪だろ」
「それじゃ参観日もたまにはあるべきね。行ってくる」

 彼女はあっけらかんとそう言うと、聖書のページを躊躇いなく一枚破り取った。

──わたしは裁きのためにこの世に来ました。
  それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです
       【ヨハネの福音書 9章39節】

 彼女がそれを彼女自身の背中に張った途端、その姿はメローネの視界からかき消える。

「あっ、おい」
目を瞑れば見える・・・・・・・・わよ」

 妙なことを言う。
 しかしペコリーノの言ったことは本当で、目を閉じれば本来そこには瞼の裏側しかないはずなのに、彼女の姿だけが暗闇に浮かんで見える。驚いて目を開ければ、そこには誰も見えないというのに。

「じゃあね、お先に」

 聞こえてきた声とともに、ひとりでに開いたドアがぴたりと閉じられる。止める間もなかった。

 メローネは肩を竦めると、画面に視線を戻す。「まったく、ベイビィより聞き分けが悪いんだからな……」一緒に組むことにはなったものの、なにもリゾットからつかず離れずで彼女の面倒を見ろと言われたわけではない。単独行動の結果、仮に彼女が死んだとしてもそのときはそのときだ。残ったメローネが仇をとればそれで終わり。第一、おやの言うことを聞かなかったこどもがひどい目にあったとしても、それは当然の帰結だろう。

 メローネはチームのことを気に入っていたし、一般人の抱く家族ファミーリアに近い感情すら抱いていたが、一方でとても冷めていた。家族は別に永遠でもなんでもない。それくらいのことは十分に理解している。

□メローネ、

「ん? どうした? 何かあったのか?」

□ガレージです。男が、男を釣っている。どちらも写真にあったリュシアンとは違います

 ベイビィからの報告に、メローネは少し考える。

「……なるほど、サドのお仲間ってわけか」

 確かにいくらリュシアンが金持ちの息子だろうと、これだけのプレイを実行するには金だけではなんともならないだろう。同じ趣味の協力者がいたとしても、なんら不思議ではない。

□ナイフを持った男が、釣られている男の表面を削ぎ始めました。あぁ、美味しそう……見てるとお腹が減ってきました……食べてもいいですか?

「待て待て。まずはどうしてさっき分解できなかったのかを調べるんだ。他のものは分解できそうなのか?」

□メローネ、お腹すいた……

「わかったわかった、食べるならさっきの部屋のやつにするんだ。そのナイフの男は怪しい、得体の知れないうちに攻撃するのはよせ」

□わかりました。一度戻ります

 このベイビィはかなり珍しいことに、とても聞き分けがよかった。母体となった女はたまたま嗜好が最悪だっただけで、性格までは悪くなかったのかもしれない。食人俗カニバリズムには様々な理由があるが、愛や好意ゆえに相手を自分の体に取り込みたいタイプもいるからだ。
 けれども、ベイビィが言うことを聞いてくれてほっとしたのも束の間、突然画面に切羽詰まった文字列が表示される。

□痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!

「ど、どうした、ベイビィ・フェイス!?」

□ぐぎぎ……足元からフックが突然……! 吊るされています! 指の一本たりとも動かせないッ!

「そんな、スタンド使いだったのか!?」

□メローネ! あいつが、あいつが近づいてくるッ! どうして!? ぼくは──ぼくはちゃんと、戻ろうとしたのにッ! メローネがそうしろって言ったのにッ、ギ、ギャアァアアア!! 

「……」

 メローネは無言のまま、ベイビィ・フェイスの親機を抱えて立ち上がった。ペコリーノに投げ渡された指の断面は乾き始めていたが、まだ使える血は残っているだろう。

 特別悲しむ必要はない、”息子”はその気になれば何回だって作れるのだ。家族は別に永遠でもなんでもない。
 ちょうど、メローネの母親がそうしていたように──。

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