- ナノ -

■ 08.降灰の水曜日A

 一年を通して温暖な気候と豊かな大地に恵まれ、美しい田園風景が広がる南フランスは、大きくプロバンスとコートダジュールの2つに区分される。プロバンスと言えば、ブドウ畑やドーデーの戯曲“アルルの女”の舞台となったような内陸のイメージがあるが、一方のコートダジュールは“紺碧海岸”というその名の意味に相応しい、様々な青を塗り重ねたような海の臨める素晴らしい保養地だ。
 メローネとペコリーノの目的地であるニースは、このコートダジュールの中心的な都市だった。到着した頃にはすっかり夕方で、突き抜けるような青空ではなかったものの、西の空に微かなスカーレットの残映が漂っているのも悪くない。独特のオレンジ色の瓦屋根たちも、夕日を受けてきらめく蒼い地中海にとてもよく調和していた。未だ取り込まれていない洗濯物が風になびくその様ですら、どこか風情を感じられるのだから、マティスやシャガールなどの芸術家がこぞってこの街に移り住んだのも実に頷ける。いつの時間、どこをどう切り取っても、絵になってしまう素晴らしい眺めなのだ。
 
「はぁ、ホント、どうして観光じゃあないのかしら……」

 最初から仕事だとわかっていても、期待する部分があったのだろう。重そうなスーツケースを石畳の上で転がしながら、ペコリーノが心底残念そうにぼやく。極端に荷物の少ないメローネでも、その意見は流石に同感だった。
 ニースは19世紀半ばまでイタリア王国の前身であるサヴォニア公国やサルディーニャ王国に属していたという歴史があるため、街並みの雰囲気は南イタリアとよく似ている。特に旧市街はマスタード色やくすんだピンクの壁など、見慣れた色彩の家々が並んでいたが、それでも非日常を感じてしまうのは長旅だったせいなのだろうか。

「パーティーは明日の夜だから、まずはホステルだな」
「最初の案じゃ、到着したその日に暗殺、そのまま弾丸直帰コースだったのよね。いや、やっぱどう考えても鬼畜すぎるわ……スッゴクお尻が痛い」
「まぁ、仕事の後は長居するものじゃあないからな」

 今回の暗殺対象は、フランスの政治家を親に持つ、いわゆる放蕩息子だった。別に、親の金と権力で道楽しているだけなら命を狙われることなどなかっただろうに、彼は酷い趣味の持ち主らしく、その悪辣な遊びに<パッショーネ>の者を巻き込んだことがボスの怒りを買ってしまったらしい。

「人質、っていうのかな? 被害にあった下っ端共は助けなくていいの?」
「ハハ、ペコリーノは甘いな。今回ボスが怒ったのは、身内が・・・傷つけられたからじゃあないぜ。体面が・・・傷つけられたからさ。恥さらしの方も、しっかり始末するように言われてる」

 リゾットの話を聞いていなかったのか?
 少し呆れてメローネが問えば、もちろん聞いてたわよ、と返ってくる。ペコリーノは先ほどからしきりに自分の尻を撫でさすっているので、相当に痛いらしい。

「依頼の確認をしたんじゃないわ。ほんとにいいのか、って話」
「良い悪いはオレたちの決めることじゃあない。これは忠告だが――」

 メローネの脳裏に浮かんだのは、罰と書かれた紙と、36個もの小包。そこから先のことは思い出したくない。残虐なことには慣れているはずのメンバーたちでさえ絶句させたそれは、いつまでも生々しく記憶に残っていた。

「ボスに逆らおうなんて、思わない方がいいぜ」

 当然、待遇には依然として不満があるし、それはどんどん悪くなる一方だ。ギャングが仲良しクラブではないとしても、ソルベやジェラートの一件は許せることではない。可能なら仇を討ってやりたいとも思う。だが、現状として、何一つボスに辿り着くための手掛かりはなかった。リーダーであるリゾットも――あれは非常に情の厚い男ではあるが――欠片も勝算が無いなか、チーム全員の命を賭けさせるような馬鹿ではない。
 メローネは半ば自分に言い聞かせるような気分で、ペコリーノの目をじっと見た。

「大人しくしていたほうがいい」
「……あんたたちとボスの間に何かあったってのは聞いた。だから皆、あたしを疑うだろうが許してやってくれって」
「そうさ、こっちはそれなりに身構えてたんだぜ。なのに、蓋を開けてみたらイカれた修道女ソレッラだったんだ。拍子抜けした」
「一体……何があったの? リゾットは詳しくは教えてくれなかった」
「……」

 もう終わったことだし、あんたがホントに刺客じゃないなら関係のない話だ――そう突っぱねるのは簡単なことだったし、実際、旅の前だったらメローネはそう言っていたことだろう。
 日が落ちてくると、迷路のように複雑に入り組んだ通りにはあまり光が差さなかった。何も言わないメローネに、彼女がぴたりと足を止める。仕方なく、メローネも立ち止まって、彼女を振り返った。

「……オレたちの中に、ボスの過去を調べようとした奴らがいたんだ。一人は自宅のソファで、窒息死した状態で見つかった。もう一人は、生きたまま足のつま先から頭のてっぺんまで輪切りにされた挙句、ホルマリン漬けにされてオレ達のところへ届けられた」
「……」
「チームの間でも、二人はとびきり仲がよかったのさ。窒息死の原因はさるぐつわだった。目の前で親友が切り刻まれるのを見る気分は……一体どれくらい最悪なんだろうな」

 ペコリーノは酷い、なんて月並みな感想は漏らさなかったが、何かを堪えるような、苦い、苦い表情を浮かべて立ち尽くしていた。ソルベもジェラートも紛れもない人殺しで、十分に悪人だ。彼女の理論で言えば、他人に殺されてようやく赦された・・・・ということになるはずだろう。それなのにそんな悲痛な表情をするのが、彼女の真に甘いところだった。だからメローネはもう一度言う。

「わかっただろう? ボスに逆らおうなんて思わない方がいい。少なくとも、ペコリーノにはそうする理由がない」
「あたしは、」
「早いとこホステルに向かわなくてはな。今日はしっかり寝て、明日は夜の仕事までは自由時間だ。そのつもりで大荷物なんだろう?」

 メローネはペコリーノの言葉を遮ると、前を向いて足を進めた。今度こそ立ち止まるつもりはない。彼女もそうと察したのか、それから程なくして、がらがらとスーツケースが石畳を転がる音が聞こえてきた。


 ▼△


 カリーナはわがままで、あまり他人の忠告を聞く女ではなかった。きっと、親の躾が良くなかったのだろう。十代前半で男と駆け落ちしてフランスに渡ってからは、カリーナではなく、フランス名の“カリーヌ”と名乗っていた。駆け落ちした男とあっさり別れて娼婦をやるようになってからも、その名前を気に入って使っていた。息子であるメローネですら、長い間母親の本名を知らなかったくらいだ。

 彼女は職業のことを差し引いても十分に恋多き女で、街のチンピラから政治家まで、常にいろんな男と関係を持っていた。普通ならば娼婦にもランクがあって、裕福な男たちは小汚い女など相手にもしないし、女だってその逆、自分より下の男には寄り付かないものだが、不思議なことにカリーヌは男によく染まる・・・女だった。惨めったらしいチンピラ崩れと付き合っていた時は、彼女自身もそうした低俗な女に見えたし、反対に金持ちの情婦をやっているときは、それなりに品と教養のある女に見える。きっと、自分というものがないのだろう。だから自分の好みというものがなくて、付き合う男のタイプも様々なのだ。大事なのはSEXができるかどうかで、それさえできれば文句なし。色狂いの、どうしようもない女。しかし、それでもまぁ、メローネは産んでくれたことには感謝している。生まれてくることすらできなかった、可哀想な兄弟たちのことを知っているからだ。

「あんたの父さんはね、付き合った男たちのなかで、いっちばん素敵だった。だから、あんただけは産むことにしたのよ」

 母は幾度となくメローネにそう言った。言葉の上だけでなら、素敵なロマンスだ。頭と股の緩い女でも、過去に真剣に愛した人がいる。そしてその男の子供だけは産んだ。その話が彼女の中絶の度に繰り返されなければ、メローネだって少しは嬉しかっただろう。
 フランスでカトリックを信仰しているのは6割程度だ。毎週日曜日にミサへ参加するような敬虔さを基準にすれば、5%にも満たない。決して世間的に褒められたことではなかったが、イタリアよりはずっと中絶もしやすかった。

「なのに、どうしてあんたはあの人の血を受け継いでいながら、そんなふうなのッ! あの人に似ているのは髪の色くらいじゃないッ!」

 ばしん、と平手でぶたれるたびに、ぶった方も痛いというのは本当だろうか、と常々思っていた。父親に似ていない、と責められても、メローネは肝心のその父親を知らない。母は顔写真の一つも持っていなくて、メローネをぶつことはあっても、父親がどんな男なのかは少しも語らなかった。職業も、年も、髪色以外の容姿も、性格も、何も教えてくれないのに、似ていないからというただその理由だけで理不尽にぶたれた。しかし、メローネは別にそれでも構わなかった。子供をぶてるだけ元気があるなら、母さんはまだ良好だ、と。娼婦は性病に罹って衰弱することも多いし、あれだけ中絶を繰り返しているわりには元気で結構じゃないか。
 メローネは別に母親のことは嫌いではなかった。それどころかむしろ、女手ひとつで自分をここまで育て上げた、女性の強さというものを尊敬していた。問題は育て上げるための教育の質、ただそれだけなのだ。

 それでも、メローネは一応、小学校エコールまではまともに学校に通っていた。駄目にしてしまったのはその後の中学校コレージュで、ここは1年ちょっとで退学になった。たまたま仲良くなった中に、ちょっとばかしタチの悪い奴がいて、母親似のメローネはよく染まって・・・・しまったのだ。学校を辞めさせられたことはしばらく母親には言わなかったのだが、いつまでも隠し通せるものではない。やがて事が露見して、また母親に言われる。

「どうしてあんたはあの人の血を受け継いでいながら、そんなふうなのッ!」

 小学校エコールのときは受け流せた言葉が、そのときは酷く癇に障った。「あんたの育て方が悪かったんだよッ!」そう言って家を飛び出したメローネは、確かに反抗期だったのだろう。そのまま悪い仲間とつるんで、転がり落ちるようにどんどん悪事に手を染めた。悪に落ちるのに、必ずしも劇的な展開や理由など必要ないのだ。メローネの場合は特にそうで、数年後に麻薬ドラッグの販売に手を出すようになってもなお、自分ではちょっとした“不良”のつもりだった。メローネは反抗期を拗らせてしまっただけで、彼にはまだ甘えがあったのだ。あの母さんが唯一産んだ子供なんだ、という甘えが。

 しかし、カリーヌにとってメローネが特別な息子だったとしても、他の者からすればメローネは少しも特別ではない。麻薬ドラッグはたかだか反抗期の子供が手を出していい物ではなかった。当然その地域を縄張りにしていたギャングに捕まって、語るのも憚られるような酷い目に合って、もう死んだと思った。命が助かったのは、たまたまそのギャング達のファミリーが、クソガキ一人に構っていられるような状況ではなかったからだ。そういう意味では、メローネは<パッショーネ>に救われたことになる。一度死にかけたメローネがわざわざ母親の故郷に一人引き返して、<パッショーネ>の門戸を叩いたのもそういう理由だ。そして彼はそこで、自分の内なる精神エネルギーである、スタンドという存在に出会う。

「お、落ち着けッ……! “ベイビィ・フェイス”! やめろ、早まるんじゃないッ!」

 メローネが発現したスタンドは、初めはただのコンピューターだった。説明書も何もない。だが、誰に教わらなくてもメローネにはその使い方がわかった。知っていた・・・・・と言ったほうがいいのかもしれない。誰に命令されるわけでもなく、メローネは適当な女を母体にして“息子”を作った。母親が子供を堕ろす・・・のではなく、子供が母親を殺す・・のだ。そうして“息子”は顔も知らない父親を捜しに行く。最高の教育さえ施してやれば、できないはずがない。メローネは自分でベイビィ・フェイスを育ててみるまで、自分はきっと良い教育ができるだろう、と思いきっていた。子供が親に何を求めているのか、子供だったメローネにはわかるはずだった。

 ――うるせーぞ、メローネッ、命令ばっかりしやがってッ! 上手く行かねーのはテメーの教え方が悪ィんだろうが! もうテメーの言うことは聞かねーぜッ! 

 画面に表示された文字列に、メローネは一体何度唇を噛んだことだろう。上手くいかない。確かに教え方が悪いのかもしれない。じっくり時間をかけて絵本を読んでやったり、褒めたり、励ましたり、思いつく限りのことは何でもやった。失敗しても強く責めず、一度だって“息子”をぶったりしなかった。メローネは何度も何度も失敗して、ようやくベイビィ・フェイスが使い物になった頃には、最初に配属されたチームで完全に浮いてしまっていた。それもそうだろう。いくらギャングと言えども、仕事でもないのに女を殺して回るメローネは狂人にしか見えない。だから暗殺チームに転属することになる、と聞いた時、メローネは少しほっとした。これでようやく“息子”が認められる。

 実際、いざ入ってみると暗殺チームはとても居心地が良かった。メローネのベイビィ・フェイスは相変わらず暴走することもあったけれども、ここには“息子”が産まれてくる理由が確かにある。父親がいっちばん素敵な奴でなくても、“息子”は“息子”自体の能力を望まれて産まれてくることができる。じゃれるとプロシュートは仲良しクラブではないと言うし、構えばギアッチョも母親面するなと喚くが、“子供”が望まれて産まれる環境というのは、立派な“家庭”と言ってもいいのではないだろうか。
 少なくともメローネはそう思う。だから、今のチームが置かれている状況が歯がゆいし、ソルベとジェラートの件は絶対に忘れない。いつかリゾットがボスを倒そうと言い出すのを待っているし、リゾットならば言うだろうとも信じている。そしてその時がくれば命を賭けたって構わないと思っている。

 人とは違う、自分の世界を持っているように見えて、案外メローネは染まりやすい・・・・・・性質なのだ。

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