- ナノ -

■ 02.ネアポリスの覚悟

 
このネアポリスの街で、ブローノ・ブチャラティのことを悪く言う奴はいない。老いも若きも困ったことがあれば友人のように気軽に彼の元を訪ね、男も女も彼が通りを歩けば明るく声をかける。

 ――元気かい?調子はどうだい?

 それは回護料をもらっている彼の方が聞くならともかく、住人側から行われる親しみのこもった挨拶なのだから驚きだ。
 しかし、だからだろうか。ベルはいざと言う時には殺さねばならないと理解はしていながらも、初めからこの男に対して良い印象を抱いていた。同じネアポリスを仕切る立場として何度も顔を合わせたこともあるが、その度に毎回、良い意味でギャングらしからぬ男だなと思わされる。
 真面目で、責任感が強く、温厚――。
 けれどもそれはブチャラティの数ある側面のうちの一つなのかもしれない。そうでなければギャングの、下っ端とはいえチームリーダーなんてものは到底務まるはずがないからだ。


 ベルが気を引き締めて待ち合わせ場所のプレビシート広場に向かうと、案の定まだ十分も前だと言うのにブチャラティはそこにいた。こちらに気づくなり小さく片手を上げた彼は、やあ、と小さく挨拶をする。それにつられるようにしてベルもまた片手を上げれば、彼は薄く微笑んだ。

「久しぶりだな、ベル」
「ええ、久しぶり。ブチャラティ。悪かったわね、急な事になって」
「仕方ないさ。オレも君も上の命令には逆らえない。それに、ネアポリスの治安の為なら労は惜しまないつもりだ」

 治安という言葉が警官からではなく、ギャングから出るというのがなんとも皮肉な話だ。だが、過去にこの国の警察に絶望したことのあるベルは、警察よりもギャングの方が問題解決能力においては勝っていると感じている。ブチャラティの言葉に同意するように頷き、

「近頃は特に子供が目立つわね」

 と声を潜めた。何のことを指しているかは、わざわざ口にしなくてもお互いにわかっているはずだった。ブチャラティの表情がさっと陰りを帯び、先程までの明るい声音はどこへやら、やや詰問するような口調に変わる。

「……本当に、このネアポリスの港に密輸されているわけではないんだな?」
「ええ。ルートは海路でも空路でもない。でも、確実に蔓延している。だから私は製造を疑ってるの。このイタリア国内での製造を」
「……それで、ポルポは一体どうするつもりなんだ?あの男は管轄外のことには基本的に手を出さないはずだが」
「そう。管轄"外"のことにはね」

 確かに常習性のある麻薬は莫大な富を産むが、広まりすぎれば犯罪や労働力、生産力の低下に繋がり、経済自体も行き詰まる。そして街や国の経済力が低下すれば、そこからみかじめ料を得ている組織にも、少なからず実害があるはずなのだ。決して表立って口には出せないが、一体ボスは何を考えているのか、というのがベルの正直な思いである。麻薬を売るなら、よその国にだけ流せばいいものを。

 ベルは自分の目の届く範囲の人間が不幸せになるのが嫌だと思うくらいの正義はもち合わせていたが、知りもしない人間のことはどうでもいいと思っていた。酷く利己的なことは自覚しているが、この世界から麻薬が撲滅される日が決して来ることがないと、その短い十七年の人生の中で既に学んでいる。誰かの幸福は必ず誰かの不幸の上に成り立っているのだ。それに耐えられないようなら、ギャングどころか人間すらも向いていないだろう。
 ベルは少しげんなりとした気持ちになると、ポルポはね、とブチャラティに倣って上司を呼び捨てにした。

「ネアポリスがこれ以上悪くならなければそれでいいと思っているのよ。ネアポリスの収益の半分はあの男のものだから。だけど麻薬チームに、ましてやボスに売らないでくれとは言えない。今や麻薬は大事な組織の資金源だからね」
「……ッ、だがッ!」
「だがもしかしもないのよ。私達にできるのはネアポリス内の流通量をなんとかセーブして、最低限子供の手に渡らないようにして、麻薬をせいぜい"副作用の強い高級なお薬"としてぼったくるくらいってわけ。要は混ぜ物をして強制的に用法用量を守ってもらうってことよ」

 奇妙なことにベルをブチャラティチームと関わらせるため、ポルポが作った嘘の口実は彼女自身が密かに思い描いていた計画そのものであった。それは薬量を減らすことによる、中毒、依存症状の軽減。ネアポリスで蔓延している麻薬は主に粉末で、重度の中毒患者こそ静脈注射によって摂取するが、最初は誰しもまず経口摂取から道を踏み外すのだ。経口の段階なら一部を砂糖に変えることで徐々に依存度を減らせるし、組織の都合上、新たな犠牲者はゼロには出来ないものの廃人化することだけは食い止められる。もちろん、効果が薄ければ大金を出して求める人間が減るので収益減少という意味では疑われるかもしれないが、それでも下克上をするよりは余程安全策である。
 そもそも、狭い街における麻薬の収益なんてものは一時的なものなのだ。ある程度行き渡ればそこから大きく伸びることは無いし、同時に人々の生活は荒れ、麻薬以外の収益が下がる。他の街との"アガリ"の差は、時間が解決してくれるのだ。

 ベルはギャングに身を置きながらも、麻薬の蔓延を良しとはしていなかった。この件に関してはブチャラティとシンパシーさえ感じる。しかし女性というのはいくら夢見がちな妄想を口にしようと、一皮むけば恐ろしいまでにリアリストであることが多い。一方で普段は冷静ぶっている男の方が、心のどこかでいつか世界が自分の思い通りになるのだと思っていたりする。結局のところ、女は夢を"見る"だけだが、男は夢を"持つ"のである。そしてその感覚の差がブチャラティの表情をより苦々しいものにしたのだった。

「それでは……麻薬は無くならないだろう。子供に渡らないようにするのも限度がある」
「そもそもこの街から完全に無くすなんてのは、自分がボスにでもならない限り不可能だわ。私は前からずっと流通を抑えることしか考えてなかった。そのために密輸事業に目をつけて志願したのよ。ま、結局未だにルートは不明なままだけれどね」
「……不可能だという君の意見が正しいと認める訳では無いが……そうだな。ポルポが我々に何をさせたいかはおおよそ理解したぜ」

 ブチャラティはそう言うと、不意にどこか遠くの方を見つめるような眼差しになった。
 その視線の先には一体何があるのか。
 ベルはそれが分不相応な夢でなければいいと思う。そうでなければベルは、この男を組織に対する翻意ありとして殺さなければならないからだ。たとえ根っこは同じような志を持っていたとしても、ブチャラティがポルポの暗殺を目論見、ボスの座にまで欲を出せば、彼は間違いなく消される。そして一度ボスに睨まれたネアポリスの街は、今よりももっとずっと酷いことになるだろう。
 絶対にそんなことをさせるわけにはいかないのだ。そのためにこのブチャラティと、新たに入った新入りのジョルノとかいう男を調べなければならない。

「長々と立ち話をして悪かった、オレの仲間の所に案内しよう。フーゴは知っているな? 今じゃあうちのチームは六人にまで増えたんだが」
「多いわね、覚えられるかしら……仲良く、しなきゃいけないのよね」

 ベルがいかにも渋々と言った表情で肩を竦めると、ブチャラティはようやく元のように笑顔を浮かべた。

「君はもう少し人付き合いというものを覚えた方がいいな」
「あなたはともかく、野蛮な男は嫌いなのよ」
「でもきっと、君も気に入るさ」
「気に入る?」
「あぁ、最近、うちのチームに入った男が面白い奴なんだ」

 そう言ったブチャラティの目は、熱に浮かされでもしたかのように生き生きと輝いていた。そのくせ、ネアポリスの空や海のようにどこまでも深く澄んだ青色をしている。

 あぁ、この目は――。

「……そう、楽しみだわ」

 ベルは密かに覚悟を決めた。まだ会ったことも無いジョルノという男を殺すことに躊躇いは感じなかったが、ブチャラティに関してはベルもそれなりに思うところがある。しかしそれでもやはり、ベルにベルの都合というものがあって、覚悟は出来ていると言うしかないのであった。


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