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■ 11.恩知らずのトゥッティ・フルッティ

 
 プラトリアーナ・ベルナルディーニは母一人子一人の、ネアポリスの貧民街にはごくありふれた家庭に生まれ育った。父親の顔は知らない。母親はベルを生んだ後も様々な男を代わる代わる家に連れ込んでいるような女だったので、もしかすると母自身もベルの父親が誰であるのかはっきりとはわかっていなかったのかもしれない。
 だがこの母親はそういう放蕩さを持ちながらも、決してベルにとって酷い母親ではなかった。なんの伝手も技能もない貧しい母子家庭がなんとか食っていくことができたのも、母を愛した男達が援助してくれたおかげだ。もちろんそういう良い男達だけでなく、中には暴力を振るおうとしたりまだ年端のいかないベルに性的な視線を向ける者もいたりしたが、母はそのような男とはさっさと手を切り、絶対にベルが蹂躙されることを良しとしなかったのである。

 ベルは自分の母親が好きだった。義務教育とはいえ学校にも通わせてもらったし、ちゃんとした父親がいなくても、時には空腹を抱えて眠る日があっても、十分に幸せな生活だったと言える。このまま何事もなければ、母親の愛を受けて育ったベルはきっと普通の娘としての人生を歩み、普通の男に恋をして、ごく普通の家庭を持っていたことだろう。
 
 しかしそうした穏やかな未来が壊れてしまったのは、ある時母親が白くさらさらとした粉末を常用し始めたからだった。
 
 母はベルにその粉末を摂取していることを知られると、それが“砂糖”であると偽った。お菓子を買うのは勿体ないでしょう。疲れた時には甘いものがきくのよ。そう言って、でもベルには決して与えようとはしなかった。きっと母自身も身体によくないものであるとはわかっていて、それでもやめられなかったのだろう。
 
 やがて経口摂取するだけだったそれが、より強力で即時的な快楽を求めて注射に代わる。静脈に“砂糖水”を入れて無事なわけがないのだから、粉末の正体が“砂糖”であるはずがなかった。どれほどベルが砂糖であってくれ・・・・・・・・と強く願っても、ただの子供には麻薬を砂糖に変えてしまえる力などなく、どんどん壊れていく母親を救う術もなかったのである。


 ところで、麻薬中毒者の最期とはどのようなものか知っているだろうか。
 オーバードーズによる意識低下や心臓、脳神経の損傷、呼吸困難。もしくは幻覚や抑うつ症状による自殺というのもあるだろう。だが、ベルの母親はそうやって過剰摂取して死ねるほど、潤沢に麻薬を買えるだけの金を持っていなかった。どんどんと肌や髪の艶を失い、禁断症状に苦しむ女を見て、さすがにこれまで良くしていてくれた男たちも愛想を尽かしてしまっていたのだ。

 結局、ベルの母親を殺したのは麻薬そのものではなく、麻薬の売人だった。金がない母はそれでもなんとか薬を手に入れようと売人に追いすがり、そして殺された。
 売人のほうも必死だったから、もしかすると事故だったのかもしれない。ただベルは知っていた。その男が元は母親の恋人の一人で、母親を言葉巧みにだまして薬を飲ませた張本人であると。

「ッ、お母さんッ!」

 それはベルが十一歳になってしばらくのことだった。既に学校に行っていると偽ってスリや詐欺行為によって家計を支えていた彼女は、自分の家から血相を変えて飛び出していく男を目撃し、そして帰宅してすぐ母親が殺されたことを知ったのだった。

 ベルが駆け寄ったときには母親の息はなく、だからこそベルは医者ではなく警察に向かった。母親を殺した犯人はわかっている。麻薬と、それを勧めたあの男さえいなければ、こんな不幸は起こらなかった。自分が盗みという罪を堂々と犯しているにも関わらず、ベルは事もあろうか司法の裁きを望んでしまったのだ。警察が、法律が、自分を助けてくれる、守ってくれると。自分の罪は生きるために仕方がなかったけれども、母の死はそうじゃあないからと。

 だが、ベルはすぐに自分の考えがいかに都合よく、夢見がちなものであったかを思い知らされる。

「あぁ〜確かにねェ、自殺とは違うようだけども……そうだねェ〜」
「犯人はわかってるんです! この辺りをよくうろついてる男で、薬を売ってて、」
「なるほどねェ、参考にさせてもらうよ」

 やってきた警官は母親の腕の注射跡を見るなり、すぐにやれやれと言わんばかりの表情になった。捜査自体も酷くおざなりなもので、ベルが犯人を訴えても参考にするというだけでまともに取り合わない。挙句、「君のお母さんも悪かったようだし」と警官が被害者に向けざるべき言葉を堂々と吐いてみせた。

「そ、そんなッ――」

 確かに、麻薬に溺れるのは悪いことだろう。スリをしたのも、観光客を騙くらかして金をせしめたのも悪いことだろう。でも元凶は、麻薬の存在とそれを売った男だ。もし“正義”の手が本当に善人の元にしか差し伸べられないのだとしたら、どうしてベル達母娘が“悪”に落ちる前に救ってくれなかったのか。罪を犯した人間が今更“正義”を求めるのは、あまりに過ぎたる望みだということなのだろうか。

 結局、その後いつまでたっても犯人の男が逮捕されることはなかった。それどころかベルは自分で復讐を果たそうと男の後をつけて、男とあの警官が繋がっていたことを知った。警官はこの周辺で誰が薬を売っているかなんてとっくに知っていて、そのうえで賄賂を受け取り看過していたのである。

 “正義”は施されなかったのではなく、初めから存在しなかった・・・・・・・のだ。

 その事実に気が付いた時、ベルは改めて復讐を誓った。自分のことを“正義”だと言うつもりは決してない。母を失った彼女はそれまでよりも派手に盗みを繰り返し、多くの人間を踏みにじっていたからだ。弱い彼女が復讐のためにかき集められる力など、金くらいしかなかった。男を殺して、あの警官に金を掴ませて笑ってやるのだと、そうすることがこの世界での“正しいやり方”なのだと思った。

 “悪”を倒すのは“正義”なんかじゃあない。
 “悪”を倒すのは“より強い悪”なのだ。

 そうしてそうやって一年近く雌伏の時を過ごしたあと、ベルはとうとう警察よりも“強い悪”である、“ギャング”への片道切符を手にした。情熱を意味する<パッショーネ>という名の組織は、それまでイタリアに蔓延っていたギャング共と違って義賊的な色合いが強く、民衆からも比較的受け入れられていたのだ。
 もちろん、後ほどベルはまたこの“正義”が見せかけに過ぎなかったと知る。最初のイメージは街に浸透するための単なる戦略で、<パッショーネ>も結局のところ麻薬で収益を上げるようになっていた。
 しかしベルがこの組織に対して求めたものは初めから“正義”などではない。“悪”を倒すための“より強い力”。たとえ今はその憎い麻薬を扱う組織に服従するしかなくても、この身を“悪”に染めようとも、力が欲しい。

 そうしてベルのスタンド――トゥッティ・フルッティは、かつての彼女が望んだように触れたものを“砂糖”に変える力を彼女に与えたのだった。





「ブフゥー、ベルか……思っていたより早かったな」

 相変わらずポルポの収監されている牢は、罪人を閉じ込めておくためのものとは到底思えぬほど様々な物資に満ち溢れていた。いや、相変わらずというのもおかしな話か。随分と濃い時間を過ごしたせいで前に訪れたのが遠い昔のように思えるが、ベルがここでジョルノの仕込んだ拳銃で死にかけたのはたった二日前のことなのである。

「ええ、まぁ……相手がどこのどいつかわかっていることですし、密輸の方は今、コリオラノに任せていますから。そんなに時間はかけていられませんよ」
「そうかね、で? 奴の動機はなんだって?」

 ポルポは億劫そうに冷蔵庫に手を伸ばすと、中からワインを取り出した。起き抜けの一杯は血圧に負担をかけるだろうが、そもそも健康を気にするような男ならここまで醜く肥え太ることはないだろう。
 ベルはポルポがこくこくと喉を動かすのを見上げながら、説明の言葉を探していた。

「はい、詳しいことは聞けず終いでしたが“侮辱されたから”だと。ポルポさんの口癖を逆手にとって小賢しい言い訳をする、ただの生意気な子供でした。組織に対する積年の恨みというより、力を手にして万能感に浸っていただけのようですね」

 強化ガラス越しに報告を上げつつ、ベルはジョルノのことを思い浮かべる。
 嫌と言うほど現実ばかり見てきたベルに向かって、“このジョルノ・ジョバァーナには夢がある”と真っすぐに告げてきた黄金色の少年のことを。

 ベルはあの涙目のルカにまつわる復讐劇のあと、彼に尋ねたのだ。
 なぜ“殺したければどうぞ”などと馬鹿なことを言ったのか、言えたのか。

 二度目のロシアンルーレットの時はまだわかる。あのときはベルが弾丸を“砂糖”に変えたから――金属は変換が遅いため、マルチェロに装填を確認させた段階ではまだ弾の形状を維持していたのだ――こめかみに銃口を当てられた段階でさらさらと零れ落ちる粉の感触を悟った彼は、安心して撃てと言うことができただろう。仮にそれに気づかなかったとしても、ミスタがいる手前、ベルがあからさまなにジョルノを殺すようなことはない。そういう確信のもとでなら、あっさりと自分の命を捨てるような発言をしてしまえるのはまだ理解できる。

 しかし、一度目はそうではなかった。他に仲間のいない二人きりで、スタンドを使うための両腕を掴まれて、それで何の策もなく強がったり挑発したりするのはあまりにも愚かである。何か勝算があってやったことなのかと問い詰めると、やがて彼は小さく肩を竦めて、足元に生い茂る木蔦の中から数体の蛇を取り出して見せたのだった。

「……なによ、それ」
「あの“幸運男”を待つ間に、あの糸杉の林にはいくつか罠を張っていたんです。ただ待っているのも暇でしたし、自分の能力で生み出した生命に“不運”が及ばないのは、空港でタクシーに突っ込まれたときにはっきりしましたから。“不運”なら蔦に絡まって降ってきたガラスに串刺しとか、一番ありそうでしょう?」
「待って、あなたの能力は植物を生やす・・・・・・ことじゃあ……」
「それを言うならベル、あなたも炭素を含むもの・・・・・・・
を砂糖に変えられると嘘をついたじゃあないですか。もっともアバッキオのお茶を処理した時点で、アンモニアの窒素も何とかしたはずだと思いましたけど」

 それではあの時、ベルは自分が優位に立っているつもりでいたが、実は危なかったということだろうか。蛇に詳しいわけでもないベルはその毒が一体どれほどのものなのかはわからない。しかし、急所を狙われれば毒に限らず十分に危険だし、複数の蛇に噛みつかれる自分を想像するとぞっとせずにはいられない。

「でも、別にぼくは自分に隠し玉があるからあなたを煽ったわけじゃあない。このアスプクサリヘビの毒性はヨーロッパでは最強と言われるけれど、その致命率はたったの四パーセントなんです。そうだな……ミスタだったら死ぬかもしれませんが、もともとこの蛇を生み出したのは索敵用で。拘束された後も、ぼくはこっそり“タールの男”を探していたんです」

 確かに、下草の生い茂る林の中で地を這う蛇に気づくのは難しいし、蛇の方にはピット器官があるので暗がりであってもあまり関係ない。たとえ即効性の毒はなくとも突然蛇に襲われれば“タール男”も度肝を抜くだろうし、拘束が解けた可能性は高かった。あの状況下でもジョルノはきちんと手を打っていたのである。

「でも、結局のところは皆に助けられましたね。ぼくは今回の件で改めて“仲間”の重要さがわかりましたよ。あの男たちにとっては皮肉かもしれませんが……おっとすみません、質問の答えでしたね」

 ジョルノは苦笑すると、手の中の蛇を再び元のように蔦へと戻して見せた。“植物を生み出す”のではなく、“生命”を与えるスタンド――それはもはや神の領域ではないだろうか。
 秘められた無限の可能性は、目の前の少年が只者ではないと示しているように思われた。

「ベル、ぼくがあなたに“どうぞ”と言ったのは、あなたがぼくを殺さないと確信していたからです――」

「――なぜなら、あなたはぼくの“仲間”になるからだ」

 満を持して告げられた理由は、あまりにも陳腐で下らないものだった。
 それなのに、なぜかベルはジョルノの言葉を笑い飛ばすことができなかった。彼を脅し、その命を取ろうとした時に見たものと同じ意志を持った瞳が、ただまっすぐにこちらを射抜いている。

「あなたは“いい人”だ……あなたの麻薬に対する姿勢に嘘があるようには思えない。空港ではぼくを突き飛ばしてガラスから守ってもくれた」
「あれはッ! まだポルポ暗殺の動機を聞いていなかったからよ!」
「突然未知のスタンド使いに襲われたあの状況で、誰がそこまで考えられますか? 咄嗟に出る行動は本心か、元々の性格を反映している……」
「それでも、私は絶対に“いい人”なんかじゃあない!」

 ”仲間”になるだって?
 そうやって綺麗事に現を抜かせる人間は幸せでいい。自分に向けられた刺客に対し、“いい人”だなんて簡単に断じられる人間は気楽でいい。彼の瞳に宿る強さの正体が“正義”であると悟り、この世に存在するはずのないそれにベルは激しい怒りと恐怖を感じた。

「いい人”は弱いのよ……“いい人”では“悪”を倒すことなんてできないのよッ……!」

 もしここで彼がベルの発言を否定し、“正義は悪を倒すのだ”などとのたまおうものなら、今度こそ殺してやると思った。それはベルのこれまでの生き方を全否定するものだからだ。それだけはさせるわけにはいかない。
 しかし、ジョルノは夢見がちな少年らしくもなく、鷹揚に頷いて見せた。

「その通りです、ベル。ただ“いい人”なだけじゃあ、“悪”は倒せない。ぼくはあなたの、いえ――
ぼくたちのボスを倒してこの街を乗っ取る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・つもりでいる」
「何……ですって……?」
「望まない人に麻薬を流すようなギャングを消し去るには、自らギャングにならなくっちゃあいけないってことさ」

 思わず息を呑んだベルは、たった今告げられた言葉を脳内でこねくり回し、必死に意味を理解しようとしていた。彼がギャングになろうとした動機はわかる。それはベルの思想と基本的には一緒だ。
  
 でも、ボスを倒す? 街を乗っ取る?
 
 <パッショーネ>のボスの素性は全て秘匿されており、少しでも探ろうとした人間は全員惨たらしい方法でこの世から消されていると聞く。この少年は現実を何もわかっていないのだ、だからそんな夢のような話を口に出せるに違いない。
 だが一方で、ベルは自分が誰かにそう言ってほしかったことも痛感していた。自分が不可能だと断じたそれを――夢を見ていいのだと言ってほしかった。“悪”を倒すために“悪”になることは間違いではないのだと。

「ぼくはそのために<パッショーネ>に入団した。ぼくはこの“組織”でのし上がって、ゆくゆくは“ギャング・スター”になります! 
それがぼくの”夢”だ!」

 他の人間が言えば馬鹿馬鹿しいそれは、ジョルノの口から語られると光り輝く“黄金の夢”のように思われた。ギャングなんて薄汚れた生き方が、スターのように輝けるはずないのに――。

「……あなたと私、一体どっちが馬鹿なんでしょうね」

 頭では無理だと思うのに、ベルはジョルノから目を離せない。ジョルノなら、どんな無謀な夢でも実現してしまえそうな気がする。
 彼にはそう思わせるだけの、何か、言葉にできない“スゴ味”があったのだ!




「ふうむ……まぁ、力を持ったガキがすぐ調子に乗るのはよくわかる。今度から新入りにも注意を払うようにしよう。ブチャラティのほうは?」
「……」
「おい、ベル。どうした、聞いているのか?」
「ッ、すみませんッ! えっと……」

 まるで授業中の学生のように自分がすっかり物思いに耽っていたことに気づいたベルは、そこで慌てて背筋をピンと伸ばした。こんな失態、らしくない。やはりまだ迷いがあるせいだろうか。
 ベルはなるべく平静を装うと、報告の続きを口にする。ジョルノの金色を思い出した後では、目の前の豪華な牢獄の景色も酷く色褪せたもののように感じた。

「ブチャラティはこの件に関しては何も知らなかったみたいです。元々顔に出にくい男ですが、今回の麻薬の流通制限にも真面目に取り組むつもりで、既にポルポさんに向けての計画書を作成しているくらい……。彼はあなたを殺すどころか、殺されかかったことも知らないかと」
「そうか……。あの男はわたしもそれなりに“信頼”していたからね。ふむ、いいだろう」

 ポルポはベルの話を聞き終わると、もう全て終わったことのようにあっさりと頷いた。彼は自分が拾い、この五年間何くれとなく面倒を見てやったベルのことを”信頼”している。だからベルの判断を信じてブチャラティを白だと決め、そしてジョルノに至っては当然のように始末しているのだと思いきっている。
 さらにポルポは今彼が自分で言ったように、ブチャラティのことも“信頼”していた。ブチャラティがポルポの隠し財産の場所を知っているというのは“組織”内でまことしやかに囁かれる噂であり、それが事実であろうことはブチャラティの能力を知るベルにしてみれば純然たる事実に他ならない。

 話題の切れ間に、そっと懐からラッピングされた包みを取り出したベルは、それをガラスの向こうの空間に繋がる唯一の受け渡し口に置いてみせた。

「……なんだ、それは」
「ちょっとした手土産というか……本当は昨日のペッシェ・ドゥ・アプリーレに渡すつもりだったんですけど、来られなくって」

 中身は魚の形のチョコレート。いくらパッショーネのバッジとポルポの腹心であるという認識が通っていても、飲食物の持ち込みはしっかり検査をされている。それでもすぐには手を伸ばさないポルポに対し、ベルは自ら包みを開いて一つ摘まんで見せた。

 舌先が苦手な甘みを感じ取り、カカオの香りが鼻を抜ける。本当にこれは何の仕掛けもないただのチョコレート。甘いものは疲れにきくのよ――そう言った母の言葉がふと蘇った。

「甘いものは嫌いと言っていなかったか?」
「……そうですよ。でも、あんなことがあったんだから毒見したほうが安心かなって。そうそう、ジョルノの能力は物体に生命を与える能力でした。だから拳銃をバナナにすることができたんだと……惜しいことをしましたか?」
「いや、いい。能力者などいくらでも作れる」

 世間的に見ればすごい“力”を持つスタンド能力者でも、“組織”にとっては、所詮はその程度だ。だからこそ“殺す”しか能のない暗殺チームは、いくらでも代わりがいるとして冷遇されていると聞く。“悪”を倒すためとようやく手に入れたベルの能力だって、結局はそんな扱いなのだ。
 そう思うと、何の行動も起こしていない言い訳を現実的な大人のふりで誤魔化していたベルは、実はとっくに根腐れしてしまっていたのかもしれない。そしてこのまま自分が倒すべきだと思っていた、惰性的で利己的な“悪”となっていたのかもしれない。

 あのジョルノ・ジョバァーナに“夢”という“生命”を与えられるまでは――。

「なッ! 何をするッ!」

 愚かにもチョコレートに手を伸ばしたポルポの指先へ一閃。
 ベルは覚悟を決めると、隠し持っていた剃刀の刃で素早く切りつけた。

「なんのつもりだ、ベルッ! お前、自分が何をしたかッ……!」

 当然、こんな浅い傷で死ぬはずがない。後で調べられたとしても多少不審に思う程度で、誰もこれが死因だとは思うまい。ポルポも指を押さえて青ざめただけで、それ以外は特に苦しむ様子もみられなかった。

「別に毒は仕込まれていないようだが……おい、本当にこれはなんのつもりだッ!」

 毒なんてものを使ったら、一発で犯人がバレる。ベルは別にジョルノの夢に賭けて、ブチャラティを幹部に押し上げる金を得るために人柱になってやるつもりはないのだ。ただほんの少し、かつて夢想した犯罪を実行してみる勇気が沸いただけ。
 凄むポルポに対して、ベルはどんどんと心が凪いでいくのを感じていた。どうせ答えは返ってこないと知っていながら、それでも無駄な質問が口をついて出る。

「……ポルポさん、涙目のルカが近くの都市の仲間と共謀して麻薬を売っていました。その麻薬がどこから流れてきたのか辿ったら、いつかは国外に行きつきますかね? それともやっぱり、製造元はうちなんでしょうか?」
「そんなことはどうでもいいッ! わたしはそれより、お前のこの行動について質問しているんだ! うちが製造してようが、誰が死のうがどうだっていい! あんなものは馬鹿がやるもの・・・・・・・、馬鹿が何人死のうと、ひったぁころじゃあない!」

 ポルポが人を呼ばずに自ら詰問を続けたのは、どう考えても致命傷になりえないほどに傷が浅く、苦しみがまだ・・彼を襲っていなかったからだろう。“信頼”していた部下の蛮行に激昂した彼は声を張り上げ、ベルに向かって言ってはならない言葉を吐く。「あぁああああ、そうら、そぉんらばかに構ってるふぃまは……」その呂律がだんだんと回らなくなって、視点が定まらなくなってから焦っても、もう遅いのだ。

「馬鹿がやるですって……? だったらあなたも馬鹿だ。甘味ってのはヘロインよりも中毒性があるらしいですよ、あなたの体型を見ているとよくわかる」

 ベルは冷めた目でそう吐き捨てると、ぱっと踵を返して看守室に駆け込んだ。「医者を呼んでッ! ポルポさんが、ポルポさんがッ!」泡を食って飛び込んできたベルの姿に、室内に動揺が走る。数名いた看守たちはみな一斉に立ち上がって武器へ手をかけたが、ベルはそれどころではないと縋りついた。

「どうしました、おいッ、誰か様子を!」
「は、話していたら突然苦しみだして! わからないわッ、とにかく早く、医者をッ!」

 もちろんこうして一芝居うってみたところで、ベルが全く怪しまれないわけではない。だが、看守が駆け付ける頃合いにはポルポは本当に苦しみ、その生命の機能を止めてしまっているだろう。

 不摂生が過ぎた身体では、十二分にありえる脳の血栓。まさか血管を切り開いてそこに詰まっているものが“砂糖である”と調べられるはずもない。そもそもあの巨体ではレントゲンやMRIに入ることができるかどうかも怪しかったが……。


 固く閉ざされた鉄戸が開かれ、刑務所の医官がなだれ込む。倒れた時にワイングラスでも割ったのか、ポルポの指先には鋭く切ったような跡があった。

「だめだ! 動かせないッ!」

 心臓マッサージをしようにもうつぶせになった彼の巨体は山のようで、肉厚な脂肪は外部からのいかな刺激も吸収する。

 ベルは周りの人間が騒いでいる中、ただ無感動にすべてを見守っていた。そんな彼女の姿はあまりに突然“父親”を失ったために、呆然としてしまっているように見えたことだろう。
 ベルはポルポによくしてもらっていた。ポルポ自身が冗談めかして“父親パードレ”と言って見せるくらいに。でも、昔からベルにとっての“父親パードレ”など、ころころと代わってしまうもの。


「……さよならアリヴェデルチ

 恩知らずの悪い娘・・・・・・・・と言われようが、ベルにはどうしても叶えたい夢ができてしまったのだ。
 調べた結果”白”でも”黒”でもなかった少年の、黄金色の夢。
 それに賭けることにしたベルは”悪”になる。”悪”を倒すための、”より強い悪”に――。


「地獄でまた会いましょう」

 再会を思わせる別れの言葉を囁いて、ベルはゆっくりと目を閉じた。

 冥福は、祈らない。

 
END

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