アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


◆ここにいる(148/151)

 真っ白の世界に一人ぽつねんと立ち尽くしていると、まるでこの世には自分しかいないような気持ちにさせられた。だから、あのとき雪山でフィーネに声をかけられたとき、初めは全部夢なのではないかと思ったくらいだ。フィーネはダアトにいて、被験者オリジナルのことで悲しみに暮れているはずだった。こんな普段と変わらない軽装で、極寒の地にいるわけがない。すぐには受け止めきれないことが起きて、呆然としていたところに、彼女の存在はあまりに都合が良すぎた。不愉快な別れ方しかしなかったはずなのに、どうしてフィーネがここにいるのか、シンクには本当に意味がわからなかったのだ。

 だがシンクがいくら理解できなくても、実際にフィーネは目の前にいて、シンクに向かってあれやこれやと指示をする。ヴァンの計画としては思い通りに事が運んだとはいえ、第五の任務としては惨憺たる結果だった。それを払しょくするためにか、彼女はまだここに残ってアッラルガンドの死体を探すのだと言う。

――シンクは一度、残りの兵をかき集めてダアトに戻って。それですぐ別の部隊を連れて、またここへ引き返してきて。強行軍になって、悪いけど……
――……強行軍なのはフィーネのほうだろ、そんな恰好で残るとか正気なの?
――拠点に物資を少し残しておいてほしい。私は大丈夫だから
――……

 そのときのフィーネは、本当に平気そうに見えた。後から考えると馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないのだが、まるで超人みたいに思えてしまった。このままフィーネに任せておけば大丈夫だろう。いや、そのときのシンクはすっかり状況に参っていて、全部任せて楽になりたいと思ってしまったのが正直なところだった。


 その後、ダアトに帰還したシンクはフィーネに言われた通り、救援部隊の名目でロニール雪山にとんぼ返りした。
 雪崩に巻き込まれた仲間を救出する――。
 おそらく、参加した誰もが徒労に終わることは理解していただろうが、討伐任務を引き受ける話が出たときは違い、反対の声をあげる者は一人もいなかった。お節介にもシンクに向かって、身体を休めたほうが良いのではないかと進言する奴こそいたが、それだけだ。シンクが絶対に行くのだと言い張れば、どこか痛ましそうな顔をしてそれ以上何も言わない。勝手に勘違いして、滑稽だと思った。シンクはなにも死人なんかに義理立てしているわけではないのだ。生きているフィーネがあの雪山で待っているから、嫌でも行かざるを得なかっただけで。


 そうして、無事に遺体を回収してからも、ダアトに戻ればまだまだやることは山積みだった。任務の報告、怪我人や殉職者のための事務手続き。まだ正式に辞令が下ったわけではないけれど、師団長が死んだのだから、副師団長のシンクに実質的な仕事が舞い降りてくる。ただ、そうやって目の前の仕事をひとつひとつ潰していくのは、思っていたほど苦ではなかった。与えられたことをこなすのは、これまでだって散々やってきたことだからだろう。忙しければ忙しいほど、余計なことを考えずに済んだ。その余計なことのなかにフィーネのことまで追いやっていたのは、我ながら流石にどうかしていた、と言うほかないのだけれど。

(そういえば、フィーネは今、特別任務にあたってることになってるんだっけ……)

 フィーネはシンクに遺体を引き継ぐと、いい加減ちゃんと寝たい、と愚痴をこぼした。一応、ここに来るのにアッシュの許可も取ってきていたらしく、頼み込めばきっと休ませてもらえるだろうとも言っていた。確かにフィーネはかなり疲弊している様子だったから、アッシュだって無理は言わないに違いない。一応大丈夫なのかと尋ねると、彼女は寝たら元気になるよ、と笑った。それを聞いてまた馬鹿なことに、そんなものか、とシンクは思った。普通に考えれば大丈夫なはずがないのに、なぜかフィーネなら大丈夫な気がして、様子を見に行くのがだいぶ遅れた。
 だからフィーネの部屋を訪ねて、床で倒れている彼女を見たときは、シンクは本当に心臓が止まるかと思った。

「……っ、フィーネ!」

 正直、鍵が開いていた時点でおかしいと思うべきだった。素顔を見られたくない彼女は、普段こんな不用心な真似をしない。驚いて倒れているフィーネを抱き起せば、その身体は火傷しそうなくらいに熱かった。

「すごい熱だ……」

 見れば、ベッドサイドには解熱剤と思われる薬やコップなどが散らかっている。自分でなんとかしようとしていたみたいだが、薬が切れて意識を失ってしまったのだろう。今になってシンクは、ごくごく当たり前の事実に思い至った。
 あんな薄着で雪山に何日も滞在したら、命を落としたっておかしくない。

(寝たら元気になるなんて……楽観的にもほどがあるでしょ)

 もちろん、それは自分に向けての感想だった。フィーネは口で言うほど楽観視していなかったから、ちゃんと薬を貰ってきていたのだろう。ただ、一人で乗り切ろうとしたのが致命的に間違っている。顔を晒せない都合でアッシュを頼れないのなら、せめてアリエッタにでも助けを求めればよかったのだ。

(……いや、まずボクに言うべきだろ)

 フィーネがこんなことになっているのはシンクのせいなのだから、それが道理というものだろう。すっかり油断して安心しきっていたくせに、頼られなかったことに対してシンクは腹を立てた。

「起きなよ」

 肩を揺すってみるが、反応はない。なんとか彼女をベッドに運んだまではいいが、焦りの感情が湧いてくるだけで何をすればいいのかわからなかった。他人を介抱なんてしたことない。水も薬も、本人に意識がなければ飲ませようがない。とりあえず他に目に止まったものとしてタオルがあったから、洗面所でそれを濡らしてフィーネの額に乗せてみた。でもそれが終わってしまうと、やっぱりどうしていいかわからない。

「フィーネ、しっかりしなよ」

 シンクはせめてもの思いで、彼女に声をかけ続けた。

「馬鹿じゃないの、言えばいいのに」

「何が寝たら大丈夫だよ」

「ボクが様子を見に来なかったら、死んでたかもしれないんだよ」

 口にしてみて、その不安はまだ払拭されたわけではない、とシンクは思った。やはり顔を見られてでもこの場に医者か治療士ヒーラーを呼ぶべきなのでは、と考える。フィーネは嫌がるだろうが、彼女の顔は別に導師と同じというわけではないのだ。貴族と縁遠い人間からすれば、なぜ隠しているかもわからないだろう。

(ここで見守ってたって、仕方ない)

 シンクがそう考えて、傍を離れようとしたとき、

「……シン、ク?」

 フィーネが薄っすらと目を開けたので、シンクは慌てて体の向きを戻した。

「あぁ、そうだよ。ようやく気がついたの? フィーネ、酷い熱でぶっ倒れてたんだ」
「……」

 ほっとして一息に話せば、フィーネはゆっくりと瞬きをする。理解しているのか、してないのか。ただ、フィーネは半分うわ言のように、ごめん、と言った。

「……別に、まだ何も大したことはしてないよ。これから医者でも呼んで来ようかと思ったくらい。顔のことはあるけどさ、背に腹は代えられないでしょ」
「……」
「っ、呼んでくるから。苦情は後で聞くよ」

 いくら話しかけてもフィーネが返事を返さないので、シンクはますます不安に駆られた。しかし踵を返そうとしたところで、上着に妙な抵抗を感じ立ち止まる。見れば彼女の手が、ぎゅっとシンクを掴んでいた。

「……いる? ちゃんと、いる?」
「……」

 フィーネの声は絞り出すような調子で、はっきり言って聴きとるのもやっとだった。耳を近づけ、かろうじて拾った言葉の意味がわからず、シンクは困惑して彼女を見下ろす。

「……いるよ、フィーネが今掴んでる。放してくれなきゃ、医者も呼べないんだけど」
「……落ちる、から……もっと、」
「なに、落ちるって」
「行かないで」

 まるで会話が噛み合っていなかった。ただ、今にも泣き出しそうな気配すら漂わせて、フィーネはか細い声で言う。

「いなくならないで」

(……ひょっとしてまた、被験者オリジナルと間違っているのか?)

 フィーネが泣くほど居てほしい相手なんて、被験者オリジナルの他には思いつかない。思えば身体だけでなく、今のフィーネは精神的にも参っているはずだった。あの忌々しい被験者オリジナルが死んだのは、なんてったってつい先日のことなのだから。

(……最悪だ。最悪だけど、でも今だけどうしてもって言うなら……)

 今だけ、被験者オリジナルのふりをしてやってもいい。
 そう思った瞬間、何をどうして間違ったのか、フィーネはシンク、と呟いた。ろくに呂律が回っていなかったけれど、聞き間違いなんかでは絶対ない。確かにフィーネが自分の名を呼んだのを聞いて、シンクはものすごい勢いでぐっと唇を引き結んだ。

(なんで……)

 レプリカが作られたとき、始めから『イオン』以外の呼ばれ方をする存在は想定されていなかった。かろうじて使い道がありそうだからと拾われても、番号で呼ぶのが不便だからというくらいで、この名の由来もろくなものではない。それなのにフィーネにシンク、と呼ばれて、それは他の誰でも無い自分のことなのだと思うと、なんだかよくわからない感情でぐちゃぐちゃになる。
 シンクは深く、深く息を吐いた。

「………ここにいるってば」

 息と一緒に、よくわからない感情ごと吐き出すみたいにそう言った。

「……よかっ、た」

 高熱で魘されている人間の発言だ。どこまで当てにしていいものなのかもわからない。それなのにシンクの言葉を聞いたフィーネが、すごく安心したみたいにへにゃりと笑ったから、シンクはまるで譜術にでもかかったみたいにその場に縫い留められてしまった。

(……なんなんだよ)

 頼んでもないのに勝手に雪山まで追いかけてきて、熱を出して、それでこんな醜態を晒して。
 フィーネなんか全然、尊敬できない。超人でもなんでもなかった。それどころか、シンクがいないと今にも死んでしまいそうなくらい、弱い。
 シンクはしばらく天井を向いて感情の奔流をやりすごすと、再びフィーネを見下ろして呟いた。

「いつまで掴んでるんだよ、このまま死にたいの?」
「……」
「すぐ、戻ってくるから」

 言えば、そっと上着を掴んでいた手が離れる。自由になったシンクは寝ころんでいるフィーネに仮面を着けて、机の引き出しからかつて自分の物だった合鍵をとりだした。それから部屋を施錠して、医務室へと急ぐ。冷たい金属の感触を手の中で弄びながら、これはしばらく返さないでおこうと思った。どうせこれから介抱をするなら、絶対に必要になる。
 
 その『しばらく』がいつまでなのかは、まるで期限を考えていなかったけれど。


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