アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


05.問題ない(89/151)

 目が覚めると、世界がゆらゆらと揺れていた。私室のものより低い天井、背中にあたる固いベッドの感触。身体を起こすと、ほんの少し眩暈がした。胃の辺りのむかむかは和らいでいたけれど、それでもなんだか空気が薄いような感じがする。

「あ、イオン様、気分はどうですか?」

 イオンが起きたことに気がつくと、すぐにアニスとジェイドがベッドの近くまでやってくる。少しじっとしていれば眩暈は収まったものの、相変わらず世界は揺れていた。それもそのはず、ここは船の上なのだ。

「ありがとう、アニス。もう大丈夫そうです」
「ほんとですかぁ? まだちょっと顔色悪いですよ」
「小型の高速艇は揺れがきついですからね、無理もないでしょう」

 ダアト港から出発した船は、まっすぐに西へ向かって進んでいる。
 おそらく他意はないのだろうが、随分とあっさり言ってのけたジェイドに対して、アニスはじとりと恨めしそうな目を向けた。

「はぁ、もっとなんとかならなかったんですか? これじゃあイオン様のお体に障りますよう」
「こればかりはご容赦くださいというほかありませんね。目立つわけには行きませんから」
「僕のことなら気にしないで下さい」

 むしろけろりと平気そうな二人を見ていると、迷惑をかけてしまって申し訳ないと思う。小さな船がこれほどまでに波の影響を受けるものなのだとは知らなかった。それに単なる船酔いだけでなく、上手くダアトを抜け出せたことで気持ちが緩んでしまったというのもあるだろう。旅はまだまだ始まったばかりだというのに、イオンは自分が情けなくて仕方なかった。

「今は何時なんでしょうか」
「二十一時ですよ。夕食だけ召し上がって、またお休みになられますか?」
「いえ、食欲はあまり……ダアトは今頃どうなっているでしょうか」
「流石にもう不在には気づかれているでしょうね」
「……」
 
 きっと大変な騒ぎになっていることだろう。覚悟してはいたものの、それでもやはりほんの少し罪悪感が湧いてくる。特に最後の最後、第一自治区でフィーネに出くわしてしまい、彼女を騙すような真似をしてしまったから余計にだった。

「フィーネには申し訳ないことをしましたね……」

 イオンがそう言うと、アニスの表情もちょっぴり曇る。だが、落ち込んだイオンを励まそうと思ったのか、彼女はすぐさまにっこりと笑顔を浮かべた。

「まぁきっと、フィーネなら大丈夫ですって! 流石に今回の件で除名とかにはならないと思いますよ。なんだかんだフィーネって、大物とばっか繋がりあるしぃ」
「そうだといいのですが……」
「仮に彼女が神託の盾オラクルを辞めることになったら、責任を持ってマルクト軍に勧誘しますよ。元はといえば、うちの秘密部隊からの脱走兵らしいですし」

 いかにもおちょくった口調で、ジェイドが楽しそうに口角をあげる。その噂はイオンも耳にしたことがあったが、どう考えても根も葉もない噂だ。まさか部外者であるジェイドがそんな話まで知っているとは思ってもみなかったけれど。

「大佐ぁ〜、完全に面白がってますよね」
「いえいえ。マルクトに関わる噂だったので念のため気を配っていただけです。彼女ともう一人……六神将にも秘密部隊出身という方がいらっしゃいましたね」
「烈風のシンクですね、第五の師団長兼参謀総長の。まぁフィーネが叱られるとしたら、たぶん彼にかなーって」
「ふむ……参謀総長ですか。それを聞くと神託の盾オラクルのほうがよほど子供を戦場に駆り出していますね。もちろん、あなたたちを引っ張って来た時点でこの私も同罪ですが」
「……」

 戦場――。
 流石にイオンは武器を持って、敵と直接戦うわけではないけれど。
 この旅がただ親書を届けるだけのお使いでないことくらいは、しっかりと理解しているつもりだ。むしろ、イオンはこの場にいる誰よりも今回の旅が失敗できないものだと認識していた。ローレライ教団の秘密に関わることだからアニスにもジェイドにもはっきりと伝えることはできないが、実のところモースとて平和を望んでいるのだ。彼は預言スコア通りに戦争を起こして、預言スコア通りに世界を繁栄に導きたいだけ。それが教団内で多数を占める『大詠師派』の考え方だった。

(でも僕は、導師として大勢の人が死ぬのを見過ごせない……。たとえ預言スコアに戦争が読まれているのだとしても、それを唯々諾々と受け入れる理由にはならないはずだ……)

 少なくともイオンの率いる『改革派』は、預言スコアを未来の選択肢のひとつだと考えている。別に自分で一からそう考えるようになったわけではないけれど、二年近くも『改革派』を背負っていれば素直にそう思うようになっていた。いや、導師の代わりとして生を受けたイオンだからこそ、自分以外に他に何人も導師の代わりがいたからこそ、未来に多くの可能性があるということをすんなりと受け入れられたのかもしれない。

(何としてでも、戦争のない未来を掴み取らなくては……。最悪、僕には代わりがいる。だからこの旅で命を落とすことがあっても問題はない)

 不思議なくらいその決意は、欠片も悲壮感に満ちていなかった。ずっと導師としての振る舞いを教え込まれてきたイオンにしてみれば、人々の平和を願うのも、自分の代わりがいるのも、ごく当たり前のことでしかなかったからだ。
 イオンは深呼吸をすると、目を閉じて世界が揺れるのに身を任せた。それから再び目を開けて、視界の中央にしっかりとジェイドを捉える。

「ジェイド、親書はエンゲーブに届く手筈になっているんですよね」
「ええ。予定ではあと二日ほどでルグニカ大陸に上陸し、そのあとはタルタロスでエンゲーブを目指します」
「タルタロス?」

 横で聞いていたアニスが、首を傾げる。耳慣れない単語だったのはイオンも同じで、二人揃って不思議そうな顔をしたのが面白かったのだろう。ジェイドは小さく笑みを浮かべた。

「ああ、これは失礼。タルタロスというのは我が軍の陸上装甲艦の名前です」
「はわー。なんか強そうな名前ですね」
「名前負けしていると言われなければいいのですが」

 ジェイドは言いながら、眼鏡のブリッジを押し上げた。冗談めかした口ぶりは相変わらずだが、その眼差しはとても真剣なものである。

「ところでイオン様、親書を受け取った後のことなのですが、国境越えの際、ケセドニア自治区の協力を得ることはできないでしょうか」
「ケセドニア……確かにあそこは中立地帯ですからね」

 マルクトからキムラスカへの陸路は二つ。非武装地帯のカイツールの検問所を通るか、二国の流通拠点となっているケセドニアを経由するかだ。いくら和平の使者と言えども、検問所を通るには色々と手続きが煩雑だし、ぐずぐずしていてはダアトからの追っ手に追いつかれる可能性もある。ジェイドの提案は至極まともな物だと思い、イオンは頷いた。

「そうですね。僕もケセドニアの領事館を経由するほうが話が通りやすいと思います。あちらには伝手もありますし、やってみましょう」
「結構。ではそのつもりで動きます」
「え〜大佐もイオン様も、なんだかカッコイイ〜」
「だそうですよ、イオン様」
「え、いや僕は……」

(僕は、むしろ戦うことができないから……)

 導師としての立場を使う以外に、他に何もできないだけだ。しかしイオンはそんな自虐をこぼす代わりに、彼女に向かって微笑みかける。

「僕はアニスのほうがよほどかっこいいと思います。戦うあなたはとても勇ましいですから」
「う……嬉しいような、嬉しくないような……」
「?」
「乙女心は複雑ですねぇ」

 やれやれと肩を竦めたジェイドを見ながら、イオンは本当のことなのに、と思った。トクナガを生き生きと乗り回すアニスの姿はとても眩しく、満足に動き回ることのできないイオンは密かに憧れている。強くて、元気いっぱいで、明るくて、彼女がいるだけでその場の雰囲気がぱっと華やぐような気がするのだ。

「気を悪くしたのならすみません。でも僕は戦うあなたの姿もとても好ましく思っていて……」
「あーあーあ、わかってます! 問題ないです! ほんとにもぉ〜イオン様ったら」

 やや強引に話を遮られたけれど、どう見てもアニスの口元は緩んでいた。いくら眉をしかめて見せようと、彼女が怒っていないのは丸わかり。

「わかってもらえたならよかったです」
 
 イオンはほっとして、それ以上言葉を重ねるのはやめにした。


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