アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


◆波紋を広げて(147/151)

※番外編

 時期にもよるが、基本的にダアト付近の気温は年中高く蒸し暑い。立地的にやや標高の高い教団本部は比較的過ごしやすかったけれども、訓練のために少し周辺の森へと足を伸ばせば、そこはお世辞にも快適とは言い難い有様だった。

「今日は本当に暑いね」 

 ぱたぱたと顔を手で仰ぐようにしながらそう言ったフィーネは、黒を基調とした団服を着ているせいで余計に暑そうに見えた。昼下がりの、もっとも気温の高くなる時間帯を乗り切ったとはいえ、夕方は夕方で射るような西日が差し込んでくる。夕日に染められているのか、暑さで火照っているのか判然としない様子のフィーネを横目に、シンクもシンクで顎まで伝ってきた汗を乱暴に拭った。

「……鬱陶しいから、そういうのわざわざ口にしないでくれる?」

 別にこれはなにも、暑さで苛立っているというわけではない。暑さを理由に午後の訓練を早めに終えさせられたことが、単純に不服だったからだ。一応、形の上では指導してもらっている立場になるものの、最初からシンクはこの年の変わらない上官のことを欠片も敬う気がなかった。

「特にアンタなんて、もう何年もダアトに住んでるんでしょ。暑いのは昨日今日始まったワケでもないだろうに」
「でも何年住もうと、暑いものは暑いし……」
「それを言うなら、暑いと言ったところで暑いだろ。涼しくなるわけじゃない」
「……うわぁ」

 フィーネはその一言だけ発すると、小さく肩を竦めた。目元を覆う仮面のせいで彼女の表情はわかりにくかったが、間違いなく面倒臭いと思ったのだろう。そのことにシンクはまたイラっとして彼女を睨みつけたが、睨んだ側のシンクも彼女から借りた仮面をつけているせいであまり意味がなかった。

「こうも暑いと気が立ってやだね」
「はぁ、ボクが何を鬱陶しいって言ったか聞いてなかったの?」
「そう言えば、シンクって泳げる?」
「……」

 まるで嫌味や皮肉なんて、聞き慣れているかのように。
 綺麗に受け流したフィーネは質問に質問で返すどころか、まったく脈絡のない話題を振ってくる。それについてもシンクは忌々しく思ったが、結局これ見よがしにため息をつくことで一旦矛を収めた。

「……たぶんね」
 
 実際に泳いだことはないけれど、刷り込みのおかげで一通りのことはこなせるはずだ。特別早く泳げるわけでも長く潜れるわけでもないだろうが、ひとまず溺れ死ぬようなことはない。せっかく苦労して造った導師のレプリカがうっかり死んでは元も子もないから、命に関わる内容については優先的に刷り込まれていた。実際、不適合だとして殺されかけたシンクにとっては、そのありがたい教育もただの皮肉でしかなかったが。

「そう。じゃあ、せっかくだから試してみる?」
「は?」
「泳ぎだよ。この先いつ何があるかわからないし、たぶんのままじゃ困るでしょ」
「……泳ぐって、どこでさ」
「ここからちょっと西に行くと池があるの。アラミス湧水洞からの水が、いい感じに池になってる」

 シンクが良いとも悪いとも言わないうちから、フィーネは勝手にその気になったようだった。一度戻って水着を持ってくるよ、とほとんど決定事項の口ぶりで言う。

「ウソでしょ、今から?」

 近ごろは日が落ちるまで長いとはいえ、時刻はもう夕方だ。フィーネの言う『ちょっと西』がどの程度の距離なのかもわからないし、シンクは難色を示した。が、

「だってシンク、まだ訓練し足りなさそうだったし」
「……」

 先程までの怒りの理由をあっさりと突かれて、思わずぐっと黙り込む。一拍遅れて、わかってたなら邪魔するなよとか、したいのは泳ぎの訓練じゃないんだけど、という言葉が浮かんできたが、その頃にはもうフィーネはダアトに向かって歩き出していた。

「なんなんだよ……」

 シンクはほとんど無意識のうちに唇を噛む。
 しかしながら流石に声を張り上げてまで、彼女の背中に抗議する元気はなかった。




「はい、こっちはシンクの分」

 そう言って渡されたナップサックには、水着だけでなくタオルやTシャツなども一そろい詰め込まれていた。野営のときにテントを拝借したように、これらもきっと神託の盾オラクル騎士団の備品なのだろう。
 フィーネの言った『ちょっと西』は蓋を開けてみれば徒歩で三十分近くもかかって、シンクはこの時点で既にまあまあウンザリしていた。辿り着いた池の水が結構透き通って綺麗だったので、それだけが唯一の救いという状況だ。

「じゃあ、着替えたらまたここに集合してね」
「着替えたらって……」

 まさか、そのへんの茂みで着替えろとでも言うのか。男のシンクはともかくも、当たり前みたいに言ってのけるフィーネの常識をちょっぴり疑う。だがここまで来たシンクも大概ヤケになっていて、池からだいぶ距離を取って手早く着替えを済ませることにした。渡された水着がごくシンプルな、黒のハーフスパッツタイプだったから許容したというのもある。ただそれでも胸と背中の譜陣は見られたくなかったので、上は白のTシャツを着ることにした。
 そうして集合場所の池のほとりまで戻ったシンクは、既に待っていたフィーネの姿を見て一瞬固まった。

「アンタ、まともな水着とか持ってたんだ……」

 元々そこまで具体的な想像をしていたわけではないけれど、てっきり彼女のことだから本格的な競泳用の水着でも着てくるのかと思っていた。だが実際に現れたフィーネは紺色で地味ながらも、形としてはいわゆるビキニタイプの水着を着ていたのだ。それでなんだか脳の処理が追いつかなくて、かなりしみじみとした口調になってしまう。フィーネもフィーネで、シンクの反応があまりにも素だったから、やや気まずそうに唇を歪めた。

「えっと、これは……前にアリエッタ選んでもらったんだ」

(……変な言い方。正しくはアリエッタのついでに、被験者オリジナルに選んでもらった、だな)

 半ばタブーのように普段は話題にすることはないが、フィーネと被験者オリジナルは幼馴染みなのだ。事情さえ分かれば興味も失せて、シンクはただ面白くなさそうにへぇ、と相槌を打つ。
 フィーネはあからさまに話題を変えたい様子で、シンクの上半身を指さした。

「そ、そのTシャツ。それは水からあがった後の着替え用に持ってきたのに」
「いいでしょ別に」
「着たまま入るの?」
「何か問題でもあるワケ?」

 もちろん、あるはずもないだろう。ここはルールの定められた公共の施設ではなく、それどころかその辺にあるただの池なのだ。案の定、フィーネは無いけど……と口ごもる。

「まぁ、じゃあシャツはどうでもいいとして、仮面だけ水の中に落とさないようにね。日が沈んでから池の底をさらうのは、流石に骨が折れるから」
「……」

 こんな時間こんな僻地に誰も来ないだろうし、そこまで言うなら泳ぐときくらい外せばいいのにと思ったが、長年仮面を着けて生活しているだけあってフィーネは本当に徹底している。自分もまたこれから先死ぬまで仮面に縛られ続けるのかと思ったら、シンクはそれだけでもう鬱屈とした気分になった。

「……早く入ろう。準備運動は散々歩かされたからもういいよ」

 フィーネを越して水に足先をつけると、想像以上にひんやりして心地よかった。池は中央に行くにしたがって深くなっているみたいで、広さはそれほどないものの、やがて足がつかなくなる。泳ぎなど一切習ったことがないのに、やっぱり身体が覚えていた。記憶喪失になってもペンの使い方がわかったり、自転車に乗れたりするような感じで、シンクは当たり前のように立ち泳ぎをする。
 
「特に問題なさそうだね」

 シンクの後を追って、池に浸かったフィーネが言った。すい、と水の中を滑るように、一瞬で中央付近まで泳いでくる。

「というか、こんな小さい池じゃ泳ぐも何もないだろ」
「うん。でも涼しいからいいよ」
「目的変わってるじゃないか」

 シンクの抗議は、当然のように意に介されない。とうとう日も落ちて暗くなってきた池の中で、フィーネは気持ちよさそうに、ぷかりと仰向けに浮かんだ。そうやってフィーネが空を見上げていると、シンクはそこで突然、今更のように彼女の無防備さを意識させられた。

(絶妙に、無さそうで有る……)

 どこに目が行ってしまったかは、あえて伏せる。だが、普段団服の上からではあまりわからなかった男女の差というものを、こう目の前に晒されると見るなというほうが無理な話である。決して太っているわけではないのに、身体を構成する線がなんとなく丸く感じた。拳を交えるときにリーチとして考えたことはあるけれど、改めて見ると手足もすらりと長いように思う。

「……ねぇ、シンク、」

 辺りはやけに静かで、フィーネが手慰みに水面を混ぜた音がやけに大きく響いて聞こえた。
 
「言いにくいんだけど、その……胸のこと、」
「は!?」
「えと、ごめん、透けてて……」
「なっ!?」

 一瞬、ここが水中であることを忘れて硬直し、シンクはあわや溺れかけた。驚いたフィーネが体勢を変えこちらに手を伸ばすが、反射的にその手を強く振り払う。

「だ、大丈夫?」
「っ、なんなのさ、何言いだすんだよいきなり」
「あの、もう誤魔化さなくていいよ。だって透けて見えてるから――」

――譜陣。
 
 フィーネはそう言って、ちょっと申し訳なさそうにシンクの胸元に顔を向ける。

「……」

 言われて自分の身体を見下ろせば、濡れた白のシャツはぴったりと肌に張り付いて、その下にうっすらと黄緑色の複雑な文様が浮かび上がっていた。

「っ、見るな」

 状況を理解したシンクは、動揺から一転、恥ずかしさやら怒りやらがいっぺんにこみ上げてかっとなる。濡れたら透ける。こんな簡単なことにどうして気づけなかったのだろう。背を向けて隠そうにも、譜陣は背中にもあるものだから意味がない。シンクは腹立ちまぎれに水面を叩いて、フィーネに向かって思い切り水をかけた。

「わっ! ちょっ、」

 至近距離で、不意打ちだったからだろう。顔面にもろに水を受けたフィーネは片手で仮面を押さえながら、空いたほうの手で器用に水気を払った。

「もう、なにするの」
「……うるさい」
「それ、総長に書いてもらったの? 前はそんなのなかった」

(前って……火山でのことか)

 思い出したくもない、忌々しい記憶。ただ、今はあのときの恐怖や憎しみよりも、フィーネの発言のほうに引っかかった。彼女は何でもないことのように言うが、あのとき一瞬でも裸を見られているのだと思うと気まずくて仕方がない。逆にどうしてフィーネが平然としているのか、シンクにはちっとも理解できなかった。

「……だとしたら、なんだって言うワケ」
「何っていうか……酷いことするなぁって、それだけ」
 
 譜陣の件も、火山や裸のことも、全部全部シンクにとっては踏み込まれたくないことばかりだ。そこへ無神経にも首を突っ込んでおきながら、フィーネはごくあっさりとくだらない感想を呟いただけ。
 もはやこれ以上は無いというくらい、シンクは仮面の下で深く眉をしかめた。

「……アンタに同情してもらう謂れはないね」

 そしてつい、感情が先に立って、要らぬことまで口走った。

「これのおかげで、ボクでも第七音素セブンスフォニムを多少は扱える。譜陣を描いてもらったことについては、感謝してなくもないんだ」
「感謝してるなら、別に隠さなくてもいいのに」
「でも同時に、譜陣に頼らなきゃならない劣化品だっていう証拠だ!」

 そう怒鳴って言い終わるか言い終わらないかのうちに、ばしゃ、と水しぶきがもろに口に入って、シンクは激しくせき込む羽目になった。

「っ、けほっ、なにするんだよ!」
「シンクもさっきやった」

 当然シンクは食ってかかったが、水をかけた張本人は完全に居直った態度で言い放つ。なぜかフィーネは怒っているようだった。表情はどうせ見えないが、いつもと違って声が固く鋭い。

「こんのっ……!」

 シンクもまたどうしようもなく腹が立って、再び水面を激しく掻いた。フィーネも負けじと大きな水しぶきをあげる。シンクのほうはともかく、普段はそこまで喧嘩っ早くない彼女が何をそんなにムキになっているのかわからなかった。だが、水の掛け合いはどんどんヒートアップしていき、ついには、

「荒れ狂う流れよ……スプラッシュ!!」
「っ!?」

 それは反則だろ、とシンクが思ったときには、頭上に水流が発生していた。それでも負けず嫌いに火がついて、回避よりも詠唱をねじ込むことを優先する。

「唸れ烈風……タービュランス!」

 その瞬間、ボン、ともバン、ともつかない、本当に爆発みたいな音がした。
 狭い池で至近距離で譜術がぶつかって、シンクもフィーネも物凄い勢いで吹き飛ばされる。タービュランスの巻き上げる力でフィーネは上空に、シンクは池のほとりのほうへと飛んだ。ドボン、とフィーネが着水する音を聞きながら、這って陸に上がったシンクはトドメとばかりに新たな詠唱を開始する。

「雷雲よ、刃となれ……」

 上級譜術を使うには、今のシンクではまだまだ時間がかかる。わざと聞こえるように言ってやれば、ちょうど水から顔を出したフィーネはわかりやすく慌てた声を出した。

「え!? ウソ、ちょっとやりすぎ、」
「サンダーブレード!」

 シンクはにやりと笑って叫んだ。が、そのあといくら待っても眩い雷の大剣が池を刺し貫くことはなかった。身を護るように身体を丸めたフィーネが、やがてじわりと元の姿勢に戻る。

「……っ」
「ハハハ、ウソだよ。誰がこんなので本気になるのさ。馬鹿じゃないの」

 タービュランスのことは棚にあげて、シンクは高らかに笑った。フィーネが慌てるさまが無様で面白かったから、それだけでかなり怒りが収まった気がする。フィーネのほうもほっとして頭が冷えたのか、それ以上やり返してはこなかった。彼女は池の中心でただ一人、顎先近くまで水に浸かっている。

「あの、シンク、」
「もういいよ、疲れたし」

 さっきまでの勢いはどうしたというほど大人しくなった彼女は、もしかすると謝ろうとしたのかもしれない。だがシンクはそれを遮って、地面にどっかりと腰を下ろした。

「馬鹿馬鹿しくなった」

 陸に上がると、水を吸ったTシャツがずっしりと重く感じられる。もう譜陣は見られてしまったし、というかそもそも一番他人に見られたくない顔はとうに知られているわけだし、急にどうでもよくなってシンクはそのまま邪魔なシャツを脱いだ。そうやって隠すのをやめて晒してしまうと、どこか肩の力が抜けたような気もする。
 
「あの……そうじゃなくてシンク、それ脱ぐなら貸してほしいなって」
「は?」

 しかしそうやって脱力したシンクとは対照的に、聞こえてきたフィーネの声はまだ薄っすらと緊張をはらんでいた。

「いや、その……吹き飛ばされたときに咄嗟にまず仮面を庇って……」
「?」

 なんの話をしているのかわからない。疑問に思ったシンクが立ち上がって池のほうへ近づこうとすると、フィーネはサンダーブレードのときよりも慌てた様子の、今日一番の大声を出した。

「と、止まって! さっきの勢いで、どっかやっちゃったの!」

 胸の前で手を交差させた不自然な格好で、フィーネはくるりと背中を向ける。その動きで波紋が広がり、実際にはほとんど何も見えやしなかったが、そこに本来あるべきはずのものがないのをシンクは文脈から理解した。

「っ、ほんと馬鹿でしょ!」

 池の中心に向かって、脱いだシャツを叩きつけるように投げこむ。

(ボクにはずかずか踏み込んでくるくせに、自分は恥ずかしがるのかよ)

 別に見たいわけじゃない。ただそれでもやはりどうにも理不尽な気がして、シンクは動揺やら怒りやらがごちゃ混ぜになったまま、フンと背中を向けたのだった。

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