アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


03.エゴイズム(87/151)

 シンクを始めとする六神将が、ダアトを出発してはや二週間。二国間の緊張はともかくローレライ教団は至って平和なもので、各師団の兵士も頭が不在だと、どこか少し気の抜けたふうですらある。総長についても計画の仕上げが必要だとかで、ここしばらくバチカルに行ったきりだったため、はっきり言って今のダアトはかなり手薄。もっとも、いくらダアトの警備に隙があっても、キムラスカもマルクトも互いににらみ合っているような状況で、中立のダアトを攻めるような愚策は誰も犯さないに違いなかった。

「なんていうか、たった数人いないだけで騎士団全体が緩んじゃうと思うと、やっぱり師団長ってすごいんだなあって思いますね」
「まぁ、癖の強い奴らばかりだからな……」

 例外として、特務師団についてはフィーネ同様アッシュも居残り組だが、規模で言うなら特務の影響力は小さい。フィーネも事務仕事をするようになって、特務師団の執務室には机が二つ並ぶようになったから、二人でのんびり雑談しながら書類を片付けるだけの日々だった。

「お前の場合、シンクがいないだけでもだいぶ羽を伸ばせるんじゃねぇのか」
「え?」

 なるべく簡単なやつから片付けようと書類をえり好みしていると、思いがけない言葉が飛んできてフィーネは手を止める。顔を上げてアッシュのほうを見れば、彼はなぜか少し同情するような眼差しをこちらに向けてきていた。

「別にそんなことは……シンクももう完全に独り立ちして、手がかからなくなってますし」

 シンクの素性はともかくも、フィーネがかつてシンクを指導していたことはアッシュに知られている。だからこそ、フィーネは『羽を伸ばせる』をそういう意味で解釈したのに、それを聞いたアッシュはちょっと意外そうな顔をした。

「いや、俺は口うるさいのがいなくなって、お前がせいせいしてるかと思ったんだが……お前、あいつのことそんなふうに思ってたんだな」
「そんなふうって?」
「いやまぁ……フィーネが面倒見がいいって奴だっていうのは他の部下たちの扱いを見ていてもよくわかる。未だにその枠に入ってるシンクには同情するがな」
「? 自分ではそこまで特別面倒見がいいとは思いませんけど……」

 フィーネが特務師団の皆と仲良くできているのは、どちらかといえば諜報活動で鍛えられた彼らの社交性のおかげであって、フィーネが彼らの面倒をみているような感覚はない。他にもし、フィーネが特務でうまくやれている理由を挙げるとしたら、それはきっと限られた時間というものを常に意識するようになったからだ。

(特務師団の皆と仲良くできるのも、こうしてアッシュ師団長と呑気に会話できるのも、きっともうあと少し)

 レプリカ計画に乗るということは、今この世に存在する人間たちを全員死なせるということだ。放っておいてもいずれ全てが瘴気に包まれて滅ぶとはいえ、計画の賛同者の中に少しの未練もない者はいないだろう。フィーネにだって、もちろんシンク以外に大事な人間はいる。アリエッタや、アニスや、特務師団の皆、そしてこの目の前のアッシュ。できることなら、死んでほしくないとは思う。でも、それはやっぱり突き詰めると、『できることなら』でしかなかった。仮に計画のせいで平和な世界が滅ぶというなら迷いもしただろうが、すべての元凶は預言スコアで未来が定まっていることだ。どうせ世界が駄目になるのなら、レプリカ達に新しい未来を譲ってくれてもいいと思う。発案者の総長もリグレットも、すべてが終わった暁には自分のレプリカを作って死ぬつもりらしかった。ラルゴやディストがどうするつもりなのかは知らなかったけれど、彼らは一応レプリカ計画のことも知ったうえで総長に協力しているようだ。

(私、もうすっかり悪い子が板についてきたな……)

 フィーネは書類をめくるふりをしながら、ちらりとアッシュの横顔を見た。六神将のなかで、先のことを知らないのはアリエッタと彼だけ。フィーネはロニール雪山の一件のあと、シンクに預言スコアを滅ぼしてからの世界について問いただしたのだった。

――そう……やっぱりそうなんだ。うん……わかった
――わかったって……一応確認するけど、ちゃんと意味わかってる? 人間のフィーネも死ぬってことだよ
――うん。でも、そこまでやらないと世界は預言スコアから解放されないんでしょ
――……まさか、フィーネがそれほど預言スコアを憎むようになるとはね

 正確には、フィーネの動機は憎しみなどではない。ただ、驚いたような、複雑そうな顔をするシンクに向かって、シンクの――レプリカ達の未来に賭けたいのだとは口が裂けても言えなかった。それを告げたらきっとシンクは火がついたみたいに怒り狂うだろうし、大きなお世話だとフィーネを憎みすらするだろう。シンクに人間のいないレプリカ世界で幸せになってほしいと思っているのは、結局のところフィーネのエゴ以外の何物でもない。

――出自の件でそこまで? あれから何かわかったの?
――いや、別にそういうわけじゃ……
――じゃあ、被験者オリジナルが死んだのがそんなに許せなかったんだ?
――……

 そう言ったときのシンクの声は、凍りつきそうなほど冷え冷えとしていた。ただいつもシンクが世界に向けているような、煮えくり返る憎悪とは違ったから、冷たい軽蔑くらいなら甘んじて受けようと思った。きっとシンクの目から見たフィーネは、いつまでも死んだ人間に固執する愚かな存在でしかなかっただろう。けれどもシンクに伝えてこそいないものの、フィーネのほうが極めて死人に近しい、本来死ぬはずだった命なのだ。死ぬはずだった人間が、通常はあり得なかった未来に固執することこそ、よっぽど馬鹿馬鹿しいとフィーネは思う。


「……アッシュ師団長、」

 フィーネはアッシュの横顔を見つめたまま、気づくと彼の名を呼んでいた。目が合った彼は何の疑いもなく、素直にエメラルド色の瞳を瞬かせる。

「なんだ」
「私……特務師団に異動してきて、師団長の下で働けてよかったなって思います」
「……な、なんなんだ、突然」
「確かに突然ですけど、もうND2018ですから」

 フィーネはこれを、計画の始まりだ、という意味で言った。レプリカ計画どころか、自分が道半ばで果てる可能性も含めて、フィーネはカウントダウンが始まったのだと認識していた。ただ、フィーネは計画の全てを知っているようでいて、六神将が各々どういう経緯で計画に賛同しているかまでは知らない。互いの過去を詮索しないのは、フィーネにとってもありがたいルールだったからだ。

「……そう、だな」

 だからそのときアッシュの眉間に深い皺が刻まれた本当の意味を、フィーネが知ることは難しかった。

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