02.そとづら(86/151)
導師という仕事はお飾りのようでいて、実際は何かと忙しい。専用の合言葉を用いて譜陣で移動したアニスは、その手にたくさんの書類を抱えながらほとんど体当たりの格好で導師の部屋を押し開く。
「イオン様ぁ、ほらほら、イオン様宛にラブレターが届いてますよぅ」
曲がりなりにも教団の最高指導者に対して、ノックどころか遠慮もあったものではない。しかしながら中で仕事をしていたイオン様はこちらの態度を咎めるどころか、柔らかく表情を緩めただけだった。
「ご苦労様です、アニス。できれば、優先度の高そうな順に並び変えておいていだだけますか」 「はーい」
もちろんアニスは最初からそのつもりで、既に書類にざっと目は通してある。一部、国家間のやりとりなど極秘と思われるものは封を開けてはいないけれど、逆に言えば封筒だけで重要度がわかるから仕分けするのは簡単だ。 導師守護役という仕事は、イオン様が安全な教団内にいる限り、ほとんどただの秘書のようなものである。四六時中一緒に過ごして、二年も一緒に仕事していればとっくに慣れたもので、それがイオン様への気安い態度にも繋がっていた。
「じゃ、一番大事そうなのはこれですかね〜」
アニスは持ってきた書類の束とは別に、懐から一通の手紙を取り出す。国家同士の正式な親書などはもっと仰々しい巻物のような代物で届くし、なんなら使者を立てての手渡しが基本だが、形式はともかくこれはマルクト帝国からの重要な手紙だ。イオン様もこの便箋には見覚えがあったのだろう。彼は一瞬、わずかに表情を強張らせ、それからなんでもなかったみたいににっこりと笑顔で受け取った。
「ありがとうございます」
このような非公式の手紙が来るのは初めてではなかったけれど、アニスは内容については知らされていない。ただイオン様の公務でマルクト帝国に随伴した際、向こうが導師守護役のアニスに目をつけて接触を図ってきたのだ。
「あーあ、いいなぁイオン様は。私も将来有望なお金持ち……じゃなかった、大佐からのラブレターが欲しいですぅ」 「本音が漏れていますよ、アニス」 「いいじゃないですか、イオン様にはもうバレてるんですし」 「そうですね。あなたが大佐からお小遣いを貰っていることも知っています」 「う……や、やだなぁ、これは正当な手間賃ですよう」 「賄賂とも言います」 「……きゃわーん、アニスちゃん難しいことわっかんなーい」
アニスがわざとらしく甲高い声を上げると、イオン様は呆れたように少し笑った。いや、この場合は呆れの成分のほうが強いので、笑ったように呆れたと言った方が正しいのかもしれない。ただ、イオン様は他の頭の固い大人みたいに口うるさく説教してくるようなことはなかった。直接事情を打ち明けたわけではないけれど、アニスのがめつさが単に性格によるものではないことくらい、イオン様はとっくにお見通しらしい。
「はぁ……仕方ありませんね。あなたがこうして手紙を取り次いでくれるお陰で、僕も助かっている部分があります」 「でしょでしょ?」 「でもアニス、なんでもかんでもお金で釣られてはいけませんよ」 「そこはちゃあんとわかってますって。イオン様が取り次ぐなって言うなら、たとえ大佐にどんな大金を積まれたって泣く泣く断りますから!」 「いえ、仕事だけの話ではなくて……その、僕はあなたが自分を安売りするようなことがあってはいけないと……」 「!」
女の子と言っても通用しそうな可愛い顔立ちなのに、イオン様はときどきこういう殺し文句を平然と口にする。もちろんそこに深い意味は無く、イオン様の優しさからくる発言だとわかっていても、ちょっとくらいどきりとしてしまうのは仕方ないことだろう。
(まったく……そういう態度をとるからアリエッタを誤解させるんだよっ!)
アニスはじわじわと胸に広がるこそばゆい感じを誤魔化すように、首をぶんぶんと振った。実際、アリエッタのイオン様に対する執着は二年以上経つのにまだまだ落ち着く気配はなく、未だにアニスは要らぬやっかみを抱かれてかなりの迷惑を被っている。
「イオン様、ほんとそーゆとこ、直したほうがいいですからね!」 「?」
アニスは不思議そうに首を傾げたイオン様を見て、やっぱりぽや〜っとしてるなあ、と脱力した。守護役としてその御身だけでなく、そっち方面もちゃんと守ってあげないといけないのかもしれない。世話が焼けるなぁ、と思ったものの、アニスはやっぱりイオン様にお仕えできて良かったと思っていた。元はと言えばアニスは志願したわけでもなく、ただ上からの命令で着いたお役目だったけれど。 (ほんとは大佐とのやり取りも、モースの奴に報告しなきゃなんないんだよね……) 今は詳しく中身を知らされていないから、不確かな情報を伝えるわけにはいかないと言い訳して自分の中で保留にしている。それでもきっと、いずれは報告しなければならないのだろう。大佐からの手紙を読むイオン様の目はいつも以上に真剣なもので、あの他人の何十手先も読んでいそうな大佐の性格からしても、これから何か大きなことが起こるのを予感させる。
「……アニス、」 「はーい、なんですかぁ」
イオン様が手紙に目を通している間、アニスはかなりわざとらしいくらいに距離をとって、イオン様が終えた仕事の整理を行っていた。間延びした返事を返してゆっくりと顔をあげると、とても神妙そうな顔つきのイオン様と目が合う。
「実は、あなたに相談したいことがあって」 「……えぇ、なんですかぁ改まって。あ、もしかして恋愛相談? それならこのアニスちゃんにどーんと任せてくださいね!」
えへへ、と表では笑って、心では馬鹿っぽい、と自己嫌悪していた。それでも他にどう振舞っていいかわからない。
「いえ、この手紙に関わることです。前から、あなたにはいつか伝えなければと思っていたんですが……」
アニスはイオン様の誠実な眼差しから逃れるように、ちら、と彼の手元に視線を落とす。ただ、眼差しからは逃れられても、この状況にもはや逃げ場はなかった。
「……ありゃ、真面目なお話かぁ。でもいいですよ。私はイオン様の味方ですからね、なんでも言ってください」
本当は聞きたくない、と言ってしまいたかった。
ばたん、と閉めた扉は思った以上に大きな音がして、閉めたアニス自身が少しびくりと肩を跳ねさせてしまうほどだった。だが、一度立ててしまった音は取り消せないし、実際そんなことに構っていられる余裕もない。
「あら、アニスちゃん帰ったの? ただいまは?」 「ただいま、ママ」
物音に台所から顔を覗かせた母親に、アニスは一瞬だけ立ち止まる。自室なんて贅沢なものはないから、アニスが家で一人になれる場所は風呂かトイレくらいだ。
「今日は先にシャワー浴びるね」 「ええ。夕食の準備にはもう少しかかりそうなの」 「うん、それまでにはちゃんと上がるよ」
アニスは聞き分けの良い返事をして母親をかわそうとしたが、向こうはまだ話があるらしい。お玉を片手に本格的にこちらへやってきて、のほほんとした笑顔を向けてきた。
「あぁ、そうそう。今日ね、ちょうど石鹸を新しくしたの。今日ご案内した巡礼者の方に、旅をしながら行商をされている方がいてね、それでね、」 「えっと、ママ。その話はまた夕食の時にでも聞くよ」 「そうね。それがいいわね。パパにも聞いてもらいたいもの」
はぁ、とため息をつきたいのを堪えて、アニスは脱衣所へと急ぐ。心の中はぐちゃぐちゃだったけれど、身体はいつも通りに丁寧に団服を畳んでいて、そのちぐはぐさも含めてすべてが滑稽だった。
(たぶん、新しい石鹸も馬鹿みたいに高いんだろうな……)
冷たい水を頭から被って、今は考えたくないと目を閉じる。石鹸をぼったくられたくらいで目くじらを立てていたら、正直なところキリがなかった。
(いっそ、嫌いになれればいいのになぁ……)
あまりに人が好すぎる両親のことも、見ていてやきもきするくらい優しいイオン様のことも。そうしたらアニスはもっと楽になれるのに、現実はそううまくはいかない。アニスは自分の両親が大好きだった。結果的に裏切る未来が見えていてもなお、それでもやっぱりイオン様のことも。 シャワーの水音で打ち消そうにも、イオン様の穏やかで、それでいて芯の強い声が頭から離れてくれない。 ――僕は、しばしダアトを離れようと考えています ――それって……公務とは別で、ってことですよね ――はい。公務と言えば公務ですが……きっと、正式な手続きでは許可されないでしょう。だから内密に、ジェイドの手を借りてダアトを立つつもりです ――許可って……それは大詠師モースが許可しないってことですか……? ――ええ、きっと。モースが何を考えているのかはわかりませんが、前々から彼には不審な動きがありました…… そのまま、ぽや〜っとしていたはずのイオン様は、いつになく真剣な表情で言った。 ――モースは戦争を起こそうとしているみたいなんです もしもそれがイオン様の口から出た言葉でなかったら、アニスはそのあまりの突拍子のなさに吹き出してしまっていたかもしれない。 ――え、ええっ!? それって……でも、なんで……? ――わかりません。ただ、十五年前のホド戦争。あれはあくまで停戦中で、今でもマルクトとキムラスカの国境地帯は常に一触即発だ。数年前にはケセドニアで北部戦もありましたし、年々両国の緊張は高まっています。そしてどうもモースは、根も葉もないマルクトの内部事情をキムラスカ側に流し、開戦を煽っているようなんです ――だ、だけどぉ、それって大佐が勝手にそう言ってるだけなんじゃないですか〜? 大佐がイオン様を利用しようとして、それで…… ――僕にマルクトからキムラスカへ、和平の親書を届けさせるのが『利用』というのならそれもそうでしょう ――…… なるほど、大佐からイオン様への手紙の内容は、和平交渉の調停役として助力を願い出ることだったのか。まだアニスは騙されているかもしれない、という疑惑を捨てきることができなかったが、かといって具体的にイオン様を利用するマルクト側の手立ても思いつかない。イオン様をマルクトに引き込み、二国間の天秤を傾けるには、イオン様という人物はあまりに公平過ぎた。味方に引き込むどころか一歩間違えば、マルクト側が導師誘拐の誹りを受けて一気に立場を悪くするだろう。 アニスが何も言えないでいると、イオン様はとても申し訳なさそうに眉尻を下げた。 ――アニス、あなたの立場を鑑みれば、無茶な頼みをしているのはわかっています。でも、僕は導師として、平和のためにできることを尽くしたい。それが導師として、僕に課せられた役割なのだと思っています ――イオン様…… イオン様は元々責任感の強い方だ。それでも、こんなふうに彼が自らの意思で、規則を曲げてまで何かを押し通そうとしたことはアニスの知る限りない。 (イオン様の頼みを無下にはしたくない……それに、何も悪いことをするわけじゃないよね。モースが戦争を起こしたいっていう動機は意味不明だけど、イオン様が和平交渉をお手伝いなさるのは、どう考えたっていい話だもん) 戦争のメリットといえば、大金が動くことくらいだろうか。そう言われるとモースの狙いもわかるような気がするが、流石のアニスでも平和には変えられない。それに、ほんのちょっぴり、モースの鼻を明かしてやりたい気持ちもわいた。今は大詠師として好き勝手しているけれど、流石にイオン様が行方不明になればモースも泡を食って飛び上がるに違いない。 (ちょっといい気味かも。もちろん、後で誘拐じゃないってことはわかるようにしておくけど……) ――わかりました。イオン様がそこまで言うなら……私もついていきます アニスが表面上唇を尖らせながら承諾すると、イオン様はぱっと嬉しそうに破顔する。そのことにほんの少し胸が痛んだが、アニスはへらりと笑って感じないふりをした。
――ありがとうございます。あなたに一緒に来てもらえると、とても心強いです ――も〜イオン様ったら水臭いんだからぁ。私は導師守護役なんですから、イオン様とはどこでも一緒ですよ ――ふふ、正直、アニスを巻くのが一番大変そうだなと思っていたところです ――ですよね〜って、ちょっと! ――あはは 珍しく大きな口を開けて楽しそうに笑ったイオン様は、それからその勢いのまま盛大に咽せた。慌ててアニスが背中をさすると、ちょっぴり目のふちに涙を浮かべてすみません、と謝る。そのとき、アニスは彼に向ってなんと言ったのだったろうか。気を付けてくださいよう、とか、しょうがないんだからぁ、とか? 会話はつい先ほどのことだったのに、ざあざあという水音に遮られてうまく思い出せない。 「……私にはイオン様を止めることも、放っておくこともできそうにないや」 きゅ、と小気味よい音を立ててシャワーコックを捻ったアニスは、そこでようやく母親が新しく買ったという石鹸に手を伸ばした。濡らしたタオルに数度こすりつけたあと、手の中でそれをもみ込む。 (なにこれ……まともなのは見た目だけじゃん) 石鹸は淡いピンク色で見た目こそとても可愛らしかったが、泡立ちに関しては正直いまいちだった。
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mokuji
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