82.荷が重い(83/151)
ダアトからロニール雪山のあるシルバーナ大陸に向かうには、航路を使うのが最も一般的である。自室を飛び出し、アッシュから強引に外出の許可をもぎ取ったフィーネは、そのままほとんど身一つでダアト港から出ている定期巡行船に乗り込んだ。正直、これから雪山に向かうというにはかなりの軽装だったけれど、もとより長居のするつもりのないフィーネは衣服に水耐性の譜術をかけ、ひとまずの応急措置とする。雪で濡れないだけでも、かなり体温の低下を防ぐことができるだろう。 シルバーナ大陸の玄関口は娯楽の街として有名なケテルブルクで、時間的にもダアトからならここの宿屋で一泊するのが普通だった。銀世界と呼ばれるほど一面の雪に覆われたこの地は、夜はさらに一段と気温が下がる。魔物も当然、夜になれば活発化し相応に危険も増す。けれどもフィーネは少しの休息も取らずにケテルブルクを素通りし、とにかくロニール雪山へと急いだ。
(なんだかわからないけど、胸騒ぎがする……)
アリエッタの故郷の話をしたとき以外に、シンクの態度がおかしかったのはもう一回あった。フィーネがアッラルガンド師団長と言葉を交わした話になって、総長は彼のことをどうするつもりなんだろう、と何の気になしにこぼした時だ。 あのときフィーネは能天気にも、『説得』なんて生ぬるい言葉を口にした。けれども仮に総長がレプリカ世界を作ろうとしているくらいなら、そんな平和的な解決は到底望めないだろう。それに二人には悪いけれど、フィーネにはアッラルガンドとシンクが穏便な話し合いをできるようには思えなかった。どちらもきっと折れないし、譲らない。いや、そういう性格的な部分を抜きにしたとしても、二人はたぶん相容れないと思った。アッラルガンドはあまりにも眩しい男だったし、シンクは逆にこの世の深淵を見つめすぎている。第五内で派閥のようなものができていたというのも、考えれば考えるほどこのときのための布石としか思えなかった。
(だけど、いくらなんでも、シンクにアッラルガンド師団長をぶつけるのは荷が勝ちすぎる……)
自らが指導したという贔屓目を差し引いても、シンクの実力は副師団長として十分なものだろう。ばねのようにしなやかに繰り出される拳や蹴りは見た目以上に重い一撃だったし、譜術に関しても独自で詠唱を短縮するなど、その才能は目覚ましい。しかしながらやはりまだ、彼はあくまで成長途中だ。完成された大人の男、しかも師団長職と比べると、圧倒的に臂力や実戦経験が足りない。もちろん、それはフィーネとて同じことだったが、事態をかく乱させ、退路をつくるくらいのことはできるかもしれない。とにかく、まともに戦ってはだめだ。そんな使い捨ての駒みたいに、シンクが扱われるのは許せない。
(どうか、どうか。これ以上悪いことは起きませんように)
こういうとき普通の人間は、始祖ユリアに預言の導きを祈るのだろう。だがその習慣が無かったフィーネは、ただひたすらにシンクの無事を夜の闇に祈る他なかったのだった。
△▼
探索四日目。あの巨大な足跡の主らしき魔物の痕跡を洞窟で発見するが、本体との接触は未だ無し。付近に出現する魔物も強力になり、いよいよ兵たちの緊張感が増す中、それでも休息は欠かせないと夜も交代で見張りを立てながら対応していた。 さすがに副師団長ともなれば、一介の兵士のように夜番をする必要はなかったけれど、シンクは寝つくこともできずにテントの中で雪の降る音に耳を澄ませていた。慣れない環境で身体は休息を欲しているし、頭も休めるときに休むべきだと当たり前の判断を下していたが、寝ようとすればするほど余計に色々なことが脳裏を巡る。 フィーネのこと、被験者のこと、そして、アッラルガンドのこと。ここまで来て迷っていること自体がおかしいのだが、なにせシンクは魔物を殺したことはあっても、まだ人間をその手にかけたことはなかった。
(ボクは何を怖気づいてるんだ、別にまともに正面からやりあおうってワケでもないのに……)
この先の展開は、皮肉なことに預言で決まっている。人の生死に関わる内容は秘預言として本人に知らされることはないが、確かにこの時期のこの山で神託の盾騎士団は討伐任務に失敗し、大きな被害を出すことになっている。兵士たち個人個人の預言を読んだわけではないから、誰が生き残って誰が死ぬかまでは把握していなかったけれど、大半は二度とダアトに帰れないと考えていいだろう。 ここでの死を逃れられる可能性があるのは、あらかじめ情報を持っていて、そもそもこの世界の預言に縛られていないレプリカであるシンクのみ。シンクの役割は第五内での目障りな分子をこの山へ誘導し、師団長であるアッラルガンドの死を確実に見届けることであった。
(……この話を最初にヴァンに聞かされたとき、フィーネには荷が重いだろうって思った。フィーネはあれで甘いところがあるから、一時的にでも上司になった人間を見捨てることはできないだろうって)
特に、シンクとそり自体は合わないものの、アッラルガンドは基本的に善人だ。突然上から押しつけられたシンクを邪険にすることもなく、仕事の出来については正しく評価もしてくれた。ややお節介で説教臭く、頑固なところはあるけれど、少なくとも他人から死を望まれるようなそんなどうしようもない人間ではない。 むしろ、どちらかと言えば――。
「シンク、まだ起きてるか?」
不意にテントの戸口部分を軽くノックされ、シンクは急いで仮面を着け直す。少し外していただけで、仮面は氷のように冷え切っていた。
「……起きてるよ」
無視をしてしまっても良かったが、なんとなく罪の意識に苛まれてシンクは返事をする。二重になったファスナーを開けると、外に立っていたアッラルガンドは少し話さないかと言った。彼の手には湯気の立ち昇るマグカップが二つ。珈琲のいい香りがした。
「別にいいけど……寒いから手短にね」 「だったらお前のテントの中で話すか?」 「嫌だよ、狭いし」 テントは自室というほどではないけれど、それでもなんとなく他人を入れるのは気が進まない。アッラルガンドは小さく肩を竦めて、テントを出たシンクにカップを一つ寄こした。
「なにこれ、ホットミルクじゃないか」 「お前の分はな。こんな時間に飲んだら、余計に眠れなくなるだろう」 「……子供扱いするのはやめてくれない?」 「実際、お前はまだ子供だ。変に意地張って大人の真似事ばかりしてると、背も満足に伸びないぞ」 「ボクは別に、特別背が低いってわけじゃない」
十一、いや被験者が死んだということは、この身体は実質十二ということになるのだろうか。今は女子であるフィーネともそう変わらない程度だが、成長期が来ればすぐに追い抜かせるはずだ。
「そうやって、すぐムキになるところが子供なんだ」 「チッ」 「可愛げはないがな」 「……」
拠点は休息をとっている兵も多く、あまり賑やかにお喋りするのは好ましくない。二人はそれぞれカップを手に、少し離れたところまで足を伸ばすことにした。雪はふぶいてこそいなかったが、相変わらず止む気配はない。冷たい風がぴゅうとコートの裾をはためかせて、シンクは渋々ホットミルクに口をつけた。
「で、話ってなんなのさ」
そういえば一番初めに食堂に誘われたときも、アッラルガンドはこちらが水を向けるまでなかなか話し始めなかった。あのときは蓋を開けてみるとまともな用件など存在しなかったわけだが、流石に今回ばかりはそんなくだらないオチではないだろう。 立ち止まって同じようにカップに口をつけたアッラルガンドは横顔のまま、どこか遠い所を見つめているようだった。
「フィーネ奏手から聞いたか? 俺と彼女が話したことを」 「……まぁね」 「それで、どうなんだお前は」 「どうって、なにが」 「このまま、ヴァンに利用されてやるつもりなのか?」
なるほど。フィーネに接触してヴァンの名を出したのは、初めからシンクの耳に届く前提だったらしい。食えない男だな、と思いつつ、シンクはどう返事したものか迷う。アッラルガンドが一体どこまでのことを掴んでいるのか、わからなかったからだ。
「……言っただろ、ボクには他に行く場所が無いって。だから、ヴァンに一方的に利用されているつもりはないし、アンタが前任の件にしつこく拘ったりして妙な気を起こさなきゃ、ボクはこのままただの副師団長でいられるんだよ」
あくまでヴァンとの繋がりは、第五の監査役としての立場だけ。全てを一から否定するのは骨が折れるから、真実と嘘を織り交ぜて話す。 アッラルガンドはちら、とこちらを見て、本当にそれだけか? と口にした。
「近頃、妙に組織編成の変更や人事異動が相次いでいる。先ほどのフィーネ奏手もそうだし、第三の師団長なんて導師守護役から異例の引き抜きだ」 「単に魔物を擁する部隊が必要だっただけでしょ。それともあそこの師団長も子供だから、お節介なアンタには許せなかったの?」 「なぜ急に魔物部隊が必要なんだ? まるで本格的な戦争にでも備えるみたいだ。実際、神託の盾騎士団の軍拡は近ごろ急速に進んでいる」 「はぁ、ボクに聞かれても知らないよ。それこそ、ユリアのお導きってやつじゃないの」
主となる組織は騎士団ではなく、あくまでローレライ教団だ。預言というものがある以上、教団が先を見据えた行動を起こしていてもそこまでおかしな話でもないだろう。 シンクはカップを両手で包んで暖を取ると、大袈裟にため息をついて見せた。
「まったく、そうやってすぐなんにでも首を突っ込むからアンタは目をつけられるんだよ。勘弁してよね」 「……」
ヴァンの名を出されたときは思わず身構えてしまったけれど、アッラルガンドの話はまだまだ疑念どまりのようだった。シンクは内心ほっとして、まだ温かいホットミルクに舌つづみをうつ。
(ま、どうせ何か知られていたところで、この男はもうすぐ死ぬんだけどさ……)
やけに甘ったるいそれが、口の中に膜を張ったような気がして上手く呑み込めない。今の状況を考えれば考えるほど、シンクの心はずしりと重く沈んだ。らしくない。自分は今何を思ってしまっただろうか。
(どうせみんな死ぬのさ。今ここで妙な同情心を起こしたって、そんなものに意味はない。預言に読まれているというのなら、どうあがいたって結果は変わらないんだ……)
「……シンク? どうした、眠くなったのか」
名前を呼ばれて、シンクはハッとして顔を上げる。透過して見えるこちら側からだけばっちりと目が合って、シンクはすぐさま俯いた。思えば、この男は最初からあれやこれやと構ってきて鬱陶しかった。今回の討伐任務や第六の事務仕事など、人がいいせいで余計な仕事も抱え込んでくるから、きっといなくなればせいせいするだろう。
「……なんでもない。話ってそれだけ? 終わりなら、もうボクは寝るけど」
シンクはカップの中身を一気に飲み干して、乱暴に口元を拭った。ダアトに帰りたくもないけれど、今ここにだって居たくない。どこにも居場所がないくせに、選り好みだけは一人前にする自分にほとほと嫌気がさした。
「あぁ、わかった。おやすみ」 「……」
返事も、頷きもしないで、シンクはくるりと踵を返す。まさにその時だった。ぐわんと耳に響くような獣の咆哮が轟いて、間髪入れずにほんの数十メートル先の斜面が滑るように崩壊し始める。
雪崩だ。
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mokuji
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