アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


79.事の始まり(80/151)

 往々にして、悪いことというのは重なるものだ。
 ここ最近のフィーネはずっと、一人で自分というものの存在について考えていた。それだけ聞けばまるで哲学的な問題のようだけれど、ディストの仮説――つまりは自分は本来死産しており、生まれてくるはずがなかったかもしれないということについて、ただただ思い悩んでいたにすぎない。仮説が本当に正しいのかどうかは、当然フィーネに判断できるようなことではなかった。なんとなく、言われてみれば辻褄が合う気がするといった程度で、本来ならこういう難しい話は考えるのをやめるか、もっと賢い人に投げてしまうのがこれまでのフィーネのやり方だった。

(だけど、シンクに言えなかった……)

 思考をやめて切り替えるには、あまりにも自分そのものに関わることで。何かわかったら報告すると言っていたのだから、フィーネはただシンクに仮説をどう思うか聞けばよかったのだ。あまりに他人任せで無責任と言われるかもしれないけれど、シンクが矛盾を見つけられなければ、ひとまずそれで真実なのだろうと信じるつもりだった。それくらいシンクのことは頼りにしていたし信頼もしていた。逆にそれが今回、アダになってしまったのかもしれないけれど。

 報告を求められた土壇場になって、フィーネは怖気づいてしまったのだ。もし、シンクが話を聞いてそれを肯定したら、フィーネの中でそれは『仮説』ではなくなる。自分が紛い物で、邪魔者で、それどころかあわや兄の居場所を奪いかねなかった異物であることを、今度こそはっきりと認めることになる。それは今までだって十分感じていたことだけれど、預言スコアが間違っていたのではなく、フィーネの存在そのものが間違っていたというのは、今度こそ本当にこの世界から弾かれてしまったような寄る辺のなさを抱かせた。

(それに、この身体だって……)

 元は死人のそれなのかと思うと、空恐ろしい気持ちになる。第七音素セブンスフォニムで無から造られたレプリカより、死体が蘇ったかのようなフィーネのほうが余程無茶な存在だ。預言スコアがあってもなくてもどちらでもいいと言ってくれたシンクでも、流石に目の前の人間が元死体だと知ったら気味悪く思うのではないだろうか。そう考えたら、言えなかった。幸い、シンクのほうから話を遮ってくれて、フィーネはちょっとホッとしてしまったほどだ。仮説は仮説のままでいいのかもしれない。フィーネが自分で理解して、弁えていれば、無理にシンクを気味悪がらせる必要もないかもしれない。いつもはたいてい翌日には切り替えるフィーネが、一週間以上もかかってやっとその結論に達した頃、もう一つの悪い知らせは待ってましたとばかりに飛び込んできた。



「リグレット奏手……」

 とうに覚悟したつもりだったのに、いざ扉を開けて目の前に彼女が立っていたとき、頭の中が一瞬で真っ白になってしまった。リグレットを部屋に招き入れて、そのあとフィーネは自分がどんな受け答えをしたのかほとんど覚えていない。ただ彼女の言った預言スコア通りに、という言葉だけが耳にこびりついて離れなかった。イオンからだという手紙も渡されたが、フィーネは受け取るだけで精いっぱいだった。
 リグレットは月並みな慰めの言葉は吐かなかった。代わりに、口を覆って嗚咽を漏らし始めたフィーネの肩に手をやって、この世界は歪んでいるな、と悲しそうに呟いた。総長の計画に加担しているくらいだ。リグレットにもきっと、そう思うだけの過去があったのだろう。彼女に促されるまま、フィーネはふらふらとベッドに腰を下ろした。もはや立っているのもやっとだったから、ほとんど倒れこむような勢いだ。

「しばらく休暇を取るといい。アッシュには私から言っておく」

 そんなわけには、と思ったけれど、思うだけで声は出なかった。リグレットはそれだけ告げると不意に扉の方へ顔を向け、少し険しい表情になる。それからまたフィーネのほうへ向き直って、労わりの言葉をかけてくれた。

「私はもう行くから、遠慮しないで好きなだけ泣きなさい。軍人だからと言って、一人の時にまで泣いていけないということはないわ」
「……」

 結局ろくに返事もかえせなかったけれど、リグレットは気にせず部屋を出ていく。フィーネは一人になると仮面を外して、両手で強く顔を覆った。目を閉じればイオンとの思い出が次々に蘇ってきて、指の隙間からも涙がぽろぽろとこぼれていく。

 彼は最初からひどく大人びていて、周囲を見下したような態度を取る少年だった。性格的に強引なところもあって、フィーネが彼に付き合わされたり振り回されたりしたのも一度や二度ではない。とはいえフィーネが武術に興味を持ったきっかけも、元はと言えばイオンだった。引っ込み思案なフィーネでも彼みたいに強くなれれば何か変われるかもしれないと思って、ままごとみたいな稽古をつけてもらったこともあった。そのあとしばらくしてフィーネが神託の盾オラクル入団を目指すと言ったときは呆れていたけれど、なんだかんだ応援してくれていたことも知っている。口では散々弱いと馬鹿にしたくせに、導師守護役フォンマスターガーディアンにならないか、とも誘ってくれた。彼はいつだって自分からフィーネと関わろうとしてくれた。立場が違うからとフィーネが遠ざかろうとしても、部屋にまでやってきて、当たり前みたいな顔をして世間話をしていた。自分の出自を知ってからは孤児院でも人を避けるようにしていたから、イオンがいなかったらフィーネはもっとずっと一人ぼっちだったと思う。イオンがいたから、今の自分があると思う。ここまで来れたんだと思う。
 けれどももう、彼は――。

 その時、がちゃ、とノブがまわる音がして、誰かが部屋に入ってくるのがわかった。

「……フィーネ」

 咄嗟に入り口から顔を背けたフィーネには、一瞬それがイオンの声に聞こえた。そんなことあるはずがないのに、どきりとして声の主のほうを見る。

「っ……」

 あれだけ同じじゃないと思っていたのに、同一視してはいけないと思っていたのに、おずおずと仮面を外したシンクの顔を見て、フィーネは涙を流したまま馬鹿みたいに呆けてしまった。そしてフィーネが思ってしまったことはきっと、シンクにも伝わった。目が合った瞬間、彼は痛みを堪えるように唇を引き結ぶ。

「……残念だったね、ボクで」
「っ、ちがっ、」
「別にフィーネがどう思おうと構わないけどね。普通に考えて、死人がうろうろしてたら気味が悪いだろ」
「死人……」
「そうだよ、フィーネが泣いてるってことは、アイツはもう死んだんでしょ」

 常日頃から、シンクのはっきり物を言うところには憧れていた。でも、今は聞きたくない。イオンと重ねて、彼を傷つけてしまったことはわかっていたけれど、今は気づかえるだけの余裕もない。

「いつかこういう日が来るのを、フィーネはわかってたはずだ。アイツが死ぬから……ボクは造られる羽目になったし、フィーネは預言スコアを憎むようになった、そうでしょ」
「……」
「フィーネはこの前、ディストがいなかったら自分たちはここに存在しなかったとも言った。それと同じで、もし、アイツの運命が違っていたら――」
「出てって」

 やっとのことで絞り出せた声は、涙のために震えていた。計画に乗ったことに対しての後悔はないし、シンクが生まれたことも、シンクに出会えたこともフィーネは本当に嬉しいと思う。しかしだからと言って、事の始まりであるイオンの死をよかったとは絶対に思えない。
 フィーネは固く目を瞑ると、入り口のほうを指さした。

「……お願い、今は一人にして」

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