アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


78.知らせ(79/151)

 フィーネの態度に違和感を覚えたのは、初めて彼女をシンクの部屋に招いた日から、優に一週間近くも経ったあとのことだった。その間にシンクはシンクでロニール雪原への討伐任務が正式に決まり、なんだかんだと準備に明け暮れていたのもあって、二人きりで会う時間が取れていなかったという事情もある。

 最初はシンクも、忙しそうなこちらにフィーネが遠慮しているのだろうと大して気に留めていなかった。わざわざ言葉にして言ったわけではなかったけれど、部屋の往来も報告書の指導も、しばらく休みの流れになっていた。それでも別に喧嘩したわけでもなんでもないし、討伐任務さえ無事に終わればまた元のような生活に戻れるだろうと考えていた。いや、本当のことを言えば、それほど深く考えていなかったというのが実情である。

(やっぱり、浮かない顔をしてる気がするな……)

 部屋で会うことがなくても、廊下や訓練場でその姿を見かけることはある。フィーネだって外では常に仮面をしているわけだから浮かない顔も何もないのだが、雰囲気というか動きのキレというか、とにかくなんとなく感じるものがあるのだ。小さな違和も、積み重なれば心の中で形を取り始める。もちろん、気づいてからはすぐ何かあったのかと確認してみたものの、顔も見えない立ち話程度では濁されて終わり。近ごろ特務の事務仕事を手伝うようになって、それでちょっと不慣れな仕事に疲れが出たと、嘘か本当かよくわからない返事がかえってきただけだった。

(フィーネのくせに、一人前に隠し事をしようだなんて生意気なんだよ)

 こっちがちょっと怪我をしたり機嫌を損ねたりすれば、鬱陶しいくらいに心配するくせに。
 相談できるのはシンクくらいだと、恥ずかしげもなく言ったくせに。

 肝心なところで頼られていない気がして、ときどき年下かのように甘く見られている気がして、それがどうにも歯がゆくて仕方がない。それにもしもフィーネの悩みがアッラルガンドに関連することならば、今度の任務もまるきり無関係ではないだろう。色々もっともらしい理由付けをしながら、シンクはせめて自分がダアトを立つその前に、一度きちんと問いただす必要があると考えた。そのため、いよいよロニール雪山に向かうという前夜、時間を作って彼女の部屋を訪ねようとした。そのときはまさか、珍しい先客がいるなんて思いもしなかったけれど。


 
(あれは……リグレットか)

 第六の区画へ向かう後ろ姿は、決して知らない人間のそれではない。自分の行く先にリグレットを認識したシンクは、ほとんど反射的に足音を忍ばせた。距離はかなりある。まだ向こうは気づいていないかもしれない。

(この先はフィーネの部屋くらいしかないはずだ。もしや、ヴァンからの命令を伝えに来たとか……)

 出来立てのレプリカをこれでもかと使い倒そうとするくらいだから、即戦力であるフィーネなら尚更だろう。シンクは気配を消すとリグレットが角を曲がるまで待って、十秒ほど数えてから後に続いた。行く先がわかっている尾行ならバレないことが最優先だ。流石に部屋の外から盗み聞きするのは難しいかもしれないが、現場を押さえればフィーネもいい加減誤魔化せないだろう。

(一体、フィーネは何をさせられてるんだよ)

 シンクは勝手ながら完全に、今回の件とフィーネの様子のおかしさとを結びつけて考えていた。そういう事情でもなければ、リグレットがわざわざフィーネを訪ねるなんてことはないだろうし、フィーネだって理由もなくよそよそしい態度は取らないだろう。

 直線上に並ぶことがないよう物陰に隠れたシンクは、耳を澄ませてノックの音を拾った。しばらくして鍵の開けられる音。扉の開く音。そして数秒後、扉が閉まったのがわかった。完全にリグレットがフィーネの部屋に入ったのを確認してから、こちらもゆっくりと移動を開始する。部屋の前まで来るとそっと扉に耳をつけ、耳を澄ませた。そうして、流石に何も聞こえないかとシンクが自嘲したとき、シンクの耳はかすかにすすり泣きのような声を拾った。

(なんで……)

 聞き間違いか、いや、それを言うなら気のせいだろう。予想もしていなかった事態に動揺して、シンクは扉に耳をつけた状態のまま固まった。くだらないことで悩んでうじうじしているのは見るけれど、実際にフィーネが泣くなんて、そんなの一回しか知らない。あのときはシンクが泣かせた。でも今回は違う。シンクは何もしていない。
 だとしたら他に、一体誰が――。

 がちゃ、とノブの金属音が耳に届いて、シンクはそこでようやくハッとして離れた。しかしながら身を隠す余裕もなく、ろくな言い訳も思いついていない状態で、部屋を出てきたリグレットと対面することになる。

「……っ」

 シンクが思わず二、三歩後ずさりした分だけ、リグレットは前に進んだ。彼女は後ろ手のまま扉をそっと閉めると、シンク、と少し咎めるような声を出した。

「お前のそれは褒められた行為では、」
「アイツ、死んだの?」

 シンクの直截な言葉に、リグレットの表情が一瞬で険しくなる。だが、盗み聞きについてはともかくも、被験者オリジナルに対する感情について、他人に説教をされる筋合いはないと思った。

「……預言スコアは外れてはくれないからな」

 きっと、リグレットもそう思い直したのだろう。瞬時に浮かんだ非難の色を苦さに変えながら、シンクの質問に肯定で返した。そしてまるで通せんぼをするみたいに、その場で腕を組んで立った。

「わかったら、もういいだろう」
「……」
「優しくできる自信が無いのなら、今はそっとしておいてやりなさい」
「うるさい……ボクに命令するなよ」

 ずっと、早く死ねばいいのにと思っていた。被験者オリジナルが死ねば、もっと気分がすく思いがするかと思っていた。けれども実際には虚しさや妬ましさばかりで、嗤いのひとつもこみ上げてこない。被験者オリジナルが死んでも、シンクの状況や立場は何一つ変わらないのだ。シンクは相変わらず代用品にすらなれないゴミで、フィーネはアイツのために泣いて、この先も死んだアイツのために預言スコアのない世界を目指す。生きているときですら何一つ勝てなかったのに、これからどんどん思い出の中で美化されていく人間に勝てるわけがなかった。

「退いてよ。こっちは元々フィーネに用があって来たんだ。アンタがたまたま先客だったってだけ」
「シンク、」
「あのさ、今更善人ぶるのはやめてくれない? 全部全部、アンタたちが始めたことじゃないか」

 被験者オリジナルが死ぬのは、確かに預言スコアで決まっていたことなのだろう。だけどレプリカを造って偽物を立てて、フィーネを計画に巻き込んで、彼女が被験者オリジナルの死を一人で悲しむしかない状況に仕立てあげたのはそちらだ。
 仮面越しでも、シンクが憎悪を込めて睨んだことは伝わったらしい。リグレットは目を伏せ小さく息を吐いた。

「そうだな」

 言って、彼女は扉の前から退ける。シンクはリグレットの姿が見えなくなるまで、そうやってずっと睨み続けていた。そうする以外に感情のぶつけ先が無く、リグレットが去ってしまうと急に心細さすら覚えた。

「……」

 誰もいなくなってみると、何の変哲もない扉のくせにまるで試練みたいに立ちはだかって見える。優しくできる自信どころか、なんて声をかければよいのかすらわからなかった。
 それでもやっぱりフィーネのことを放ってはおけず、シンクはそっと扉をノックする。返事は無かったが、今しがたリグレットが出てきたばかりなのだ。鍵はかかっておらず、シンクがノブに手をかけると呆気ないくらい簡単に扉は開いた。開いてしまった。


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