アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


74.ようこそ(75/151)

 優れているひとは優れている分だけ、他の人のために行動しなければならないらしい。
 
 身体が大きくて体力がある子は率先して力仕事をし、勉強の得意な子は他の苦手な子たちに教えていた。歌が上手な子は寝かしつけの度に子守り歌を歌って、料理が得意な子は夕食の手伝いをした。子供同士で年がひとつ違うだけでも、年長の子は年下の面倒を見るのが当たり前だった。精神的な成長はさておき、子供の一年は大人の一年と違って影響が大きい。年上のほうができることがたくさんあるから、まだ小さくてできない子たちの分もやってあげる。孤児院という狭い世界の中ですらそういうルールで回っていたから、貴族たちが定期的に孤児院にやってくるのもそういう『責任』の一つなのだと、何も不思議には思っていなかった。雲の上の人たちと直接触れ合うことはほとんどなかったけれど、彼らが訪問した日はお菓子をもらえたり、新しい玩具が増えたり、良いことがたくさん起こった。五歳を迎えたとき、どこかの貴族からフィーネだけ貰ったへんてこな『仮面』も、趣味が悪いだけでそうした施しのひとつなのだと勝手に納得していた。


――フィーネ、悪いけど……今日はあの仮面を着けておいてくれる?

 朝から院長先生がそう言う日は、三か月に一度くらい。それは後にだんだんと期間が開いてぱったりとなくなってしまうのだけれど、少なくともフィーネが覚えている限りはそのくらいの頻度だったように思う。その日も申し訳なさそうな顔をする院長先生に向かって、フィーネは素直にはいと返事する。正直、一人だけ仮面を着けて過ごすのは恥ずかしかったけれど、当時は周囲の理解もまだあった。子供と言ってもみな親のいない者ばかりで、大人を喜ばせることが自分たちの暮らしをよくすることに繋がると体感で知っている。
 
 子供たちの間では、フィーネは変な貴族に気に入られていることになっていた。本当は『仮面』は普段からつけるようにと贈られたものだったらしいが、院長先生が訪問日だけで構わないと言ったからそうした。どうも小さいうちに視界を遮ってばかりいると、極端に視力が弱くなってしまうらしい。それにずっと『仮面』をつけての生活は不便でしかなく、訪問日の一日でさえ、よくつまづいたり物にぶつかったりしていた。
 今でこそ、すっかり『仮面』のある生活に慣れてしまったけれども。

――先生、あの……
――どうしたの?
――わたし、今日こそちゃんとお礼言ったほうがいいかなって
 
 貴族はたくさんお金や物を持っているから、彼らの施しはそういう形のある物が多い。一緒に時を過ごすことはないけれど、それでも他の貴族の寄付については子供たちからお礼を言う場が設けられることもあった。だが、『仮面をくれた貴族』は遠目にフィーネの生活を見ていくだけで、直接対面したことも言葉も交わしたこともない。なぜ自分が、という疑問はあれど、気に入られているのなら気に入られているなりの責任を果たそうと、その日はフィーネなりに勇気を振り絞ったつもりだった。

――偉いわね。でも大丈夫、先生がしっかりと伝えているから。フィーネは気にせず、いつも通り過ごしてくれればいいのよ
――……はい
――ほら、今日はイオン様が遊びにいらっしゃる日でしょう

 院長先生はさも楽しいことのように言ったが、正直なところフィーネはあまり気が進まなかった。預言スコアの導きでダアトに迎えられた次代の導師様は、周囲が大人ばかりで息苦しいのか、ときどき教団の孤児院に慰問という形でやってくる。けれども彼は子供たちの輪に進んで入ろうとはせず、それどころか人を馬鹿にしたような態度をとるから怖かった。そんな彼の訪問と『仮面』の日が被ってしまったのは最悪としか言いようがない。フィーネがお礼だなんて殊勝なことを言い出したのには、そうした最悪から逃げだしたい気持ちも含まれていた。そしてやはりというべきか、やってきたイオン様はフィーネの『仮面』を見て、ちょうどいい標的を見つけたとでも言うように口角をあげた。

――そこのお前、面白いもの着けてるね。罰ゲームか何か?
――いえ……

 普段、イオン様のお相手をするのはもう少し年長の子たちだった。そうでなくてもフィーネは引っ込み思案だったし、彼のことを怖いと思っていたので自分から関わろうとしたことはない。けれども向こうから話しかけられてしまっては、無視をすることなどできなかった。

――じゃあ一旦なんだっていうのさ、仮面をつけたまま話すなんて失礼でしょ
――ご、ごめんなさい。でも、今日はこれ外しちゃだめって言われてて……
――はぁ?

 その一言だけで、フィーネは縮み上がる思いだった。見かねた他の子が代わりに事情を説明してくれなければ、黙り込んでしまってイオン様の怒りを買っていたかもしれない。

――へぇ、貴族が? こいつだけに?

 しかし話せば話したで余計な興味を引いた。彼は少しだけ思案する素振りを見せ、それからにっこりと笑う。可愛らしい顔立ちをしているのに、その笑顔には鼠を見つけた猫のような雰囲気があった。

――その貴族がどんな奴か見てみたい
――で、でも貴族の人に勝手なことはしちゃいけないって……
――それはお前たち『孤児』の話でしょ。一緒にしないでくれる?

 きつい言葉に、思わず言葉を失った。確かに彼は未来の導師で、フィーネたちとは身分が違う。彼は望まれたからダアトにいるけれど、フィーネたちは望まれなかったからダアトにいる。後半はフィーネの被害妄想がたっぷり含まれているものの、イオン様なら貴族相手でも大きな問題にならないのは事実だった。

――ほら、お前も一緒に来なよ。その様子じゃ、お前もろくに向こうのこと知らないんでしょ
――や、でも、
――きっと将来は引き取られるんだよ。よかったね
――え、本当?

 フィーネがその言葉にびっくりしていると、彼はこちらを見下ろして「はは、笑える」と笑わずに言った。

――なにを勘違いしてるの? せいぜい玩具としてだよ。よかったね、変態に目をつけてもらえてさ
――……
――ほら、理解出来たら未来のご主人サマを見たくなっただろ。一緒に来るんだ

 腕を掴まれて引っ張られて、フィーネは着いて行くだけで精いっぱいだった。周囲も言葉の上ではイオン様を止めようとしたが、もちろん耳を貸すような人ではない。
 フィーネは半ば引きずられるような形で、来客中は近づいてはいけないと言われていた院長室の前まで来ることになった。そこまで来るとフィーネ自身、中を覗いてみたいような気になっていた。変な貴族だというのはわかっているが、それでもたくさんいる子供たちの中からわざわざ自分を選ぶなんて一体どんな人なのだろう。
 イオン様が小声で何かを唱えると、不思議なことに扉を開けても物音がしなかった。細く開いた扉の隙間から、フィーネはそっと中を覗く。そのとき仮面は邪魔になったので躊躇いもなく外してしまった。
 そして――

――……お前に似てない?

 普通に声を出したイオン様に驚いて彼のほうを見たが、さっきの扉同様、こちらの音は向こうに聞こえていないらしい。彼は部屋の中にいる、夫婦と思われる男女のうち、女性のほうを指してそう言った。ちょうど仮面を外したフィーネの顔を見て、やっぱりそうだ、と重ねて言う。フィーネも女性の顔を見て、自分で似ていると思った。

――流石に予想外だったな……
――……
――確かあれは、マルクトのド・ラ・ヴァリエール伯爵夫妻だ。うちのお得意サマだよ、前にエベノス様のところに来ていたのを見たことがある
――そんな人とわたしがどうして……
――さぁ、隠し子だったりしてね
――隠し子って?

 もはや相手が未来の導師様だということも忘れ、素直な疑問が口をついて出る。彼は馬鹿を相手にするのは面倒臭いといわんばかりに表情を歪めた。

――だから、お前はあの女の子供かもしれないってこと。だけど表に出せないような子供だから、孤児院に捨てたんだよ、わかる?
――表に出せない……

 彼女たちが親かもしれない、というのは理解できている。正直、突然のことで動揺してはいたけれど、不思議と確信に近いものがあった。しかしながら表に出せない、というのがどうしてなのかわからず、フィーネはもう一度伯爵たちのほうをそっと覗いた。本当にフィーネが要らないのなら、貴族の彼らがこんなところまで来て、フィーネにだけ『仮面』をくれるわけがない。
 それは希望と言うより、願望に近いものだった。

――それで、『あれ』は特に問題を起こしていないのか?
――……はい、フィーネは大人しいですが、いい子です。聞き分けもよく、特にご心配されるようなことはないかと。
――では、音素フォニム適性のほうはどうだ? 容姿だけはますます妻に似てきたと思うが……

 音素フォニム適性、という単語に、今度はイオン様のほうが反応してこちらを見た。あるの? という問いにフィーネが答えるよりも早く、院長先生が返事をする。

――この前、お貸しいただいた測定器を使いましたが、かなり素養はあるようです。こちらをご覧ください。

 そう言って院長先生は何やら書類を手渡す。伯爵はそれを受け取ると、夫婦そろって食い入るようにのぞき込んだ。

――得意なのは水と光……風と地も使えるようだな。素晴らしいじゃないか
――でもあなた、ご覧になって。音は……
――ふむ、素養はあるようだが……この値ではとてもじゃないが預言士スコアラーにも治療士ヒーラーにもなれないな

 夫妻は顔を見合わせると、深いため息をついた。しかしながら彼らの様子は、どこかほっとしているようにも見えた。

――やはり、こちらは紛い物だったようだな
――ええ、今のところ兄のほうが優秀だわ。きっとあちらが預言スコアの子なのよ
――まだ油断はできないが……ひとまず我々の選択は間違っていなかったのだろう

 肩の力を抜き、和やかな雰囲気になる夫妻と、硬い表情でそれを見守る院長先生。
 扉の前のフィーネは、まるで劇の一幕でも見ているみたいな気持ちだった。紛い物だとか兄がいるとか、預言スコアがどうとか、全部全部実感のない、空虚な話に聞こえた。

――あの『仮面』もきちんとつけているようで安心したわ。私に似ているのもそうだけど、双子って本当に顔がそっくりだから……うちの子の将来に響くようなことがあったら大変だもの
――逆にそっくりだからこそ、早いうちにどちらかわかればまだ入れ替えることもできるのだがな……
――いやだわ、もう結果が出たも同然じゃない。預言スコアが示した一族に繁栄をもたらす子は絶対にあの子ですよ。だってほら、第七音素セブンスフォニムの素養が『これ』とは段違いですもの

 ぱさり、とローテーブルの上に書類を投げ出して、夫人は嗤った。勢いあまってその紙の一枚が床に落ちるのを、フィーネはただ黙って眺めていた。眺めることしかできなかった。


――おいで

 結局、来た時と同じように腕を取られ、フィーネはイオン様に連れられてその場を離れる。歩き慣れたいつもの廊下なのにふわふわと雲を踏むような感覚で、まっすぐ歩けているのかどうかもわからなかった。

――……イオン様、
 
 たくさんわからないことがある。聞くのは筋違いだとしても、彼なら意味がわかるのではないかと思ってしまう。
 気がつくと院長室からは随分離れたところにいて、フィーネは彼の背中に向かってようやく声をかけた。イオン様は足を止めて、ゆっくりとこちらを振り返る。

――イオン様、わたし……
――僕に聞かれても知らないよ。知ってるのは、ド・ラ・ヴァリエール伯爵夫妻が敬虔な預言スコア信者だってことくらい
――……
――あのさ……さっき一緒にするなって言ったこと、訂正するよ。お前も同じだった

 イオン様は小さく笑った。でも、それは今までみたいに馬鹿にするような笑い方ではなくて、自嘲の混じった皮肉気な笑いだった。今知ったことだけでも受け止めきれずにいるフィーネは、『同じ』の意味もわからずただただ彼を見つめることしかできない。

――そういえば、お前、名前は?
――……フィーネ
――そう。それじゃあフィーネ、

 地獄にようこそ。
 
 そのとき、イオン様は確かにそう言った。今から思えば彼はこの時からかなり捻くれていたけれど、フィーネとイオンが幼馴染として深く関わるようになったきっかけは、間違いなくこの一件だった。

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