72.苦悩(73/151)
(ディスト様にも聞いてみる、とは言ったものの……)
第二師団の執務室付近の廊下を、うろうろすること数往復目。あまりに不審すぎてそろそろ苦情が来やしないだろうかという心配がよぎりつつも、フィーネは結局ノックの一つもできないまま無駄に時間を溶かしていた。せめてもの言い訳としては今が昼休憩中で、仕事をさぼっているわけではないということくらいだろう。とはいえ、フィーネがぐずぐずしていたせいで、そろそろ時間切れになってしまいそうではあったが。
(昼休みに押し掛けるのも迷惑だし、でも昼休みぎりぎりってのもそれはそれで迷惑かもしれない)
最初は食堂で見かけたら、声をかけようと思って待っていたのだ。しかしタイミングの問題なのか、業務の都合なのか、今日に限ってあのよく響く声すら聞いていない。そもそも話題が話題だけにそこらで話すというわけにもいかないため、どのみち彼の部屋を訪ねるしかないのだが、これがフィーネにとってはかなりハードルが高かった。別に相手がどうこうというわけではなく、ただフィーネの側に人の部屋を訪ねるという経験が極端に少なかったからである。
(……やっぱり、今日は出直そうかな。別に急ぎでもなんでもないし、食堂で会えた日にまず訪問していいかの許可を取るほうがいいよね。ディスト様も忙しいだろうし……うん、絶対にそのほうがいい)
長年の逃げ癖のせいで、もっともらしい言い訳を用意するのだけは得意なフィーネである。部屋の訪問というハードルを抜きにしても自分の過去を知るのは恐ろしいことで、いくら向き合うと決めても先延ばしにしたくなる気持ちまでは消えなかった。もはや、早く始業のベルが鳴ってほしいような気さえするから始末におえない。フィーネはひとまずたった今こしらえたばかりの理由に納得し、今日のところは諦めようと来た道を戻り始めた。 だからアッラルガンドと廊下で出くわしたのは、もう本当に昼休みも終わるぎりぎりの時間だった。
「あ……」
探していたのは第二師団長で、第五師団長ではない。それでもシンクの直属の上官ということで、フィーネは廊下の向かいから歩いてくる彼に思わず反応してしまった。普通なら挨拶して通りすぎて終わりのところを、思い切り顔を見て立ち止まってしまった。第六時代に書類仕事でお世話になっていたとはいえ、あれはカンタビレとアッラルガンドの間のやりとりだったため、フィーネと直接関わりがあったわけではない。それなのにフィーネが立ち止まったものだから、アッラルガンドのほうも立ち止まった。
「あ、いや、すみません! なんでもないです」
確かに客観的に見れば、まるでアッラルガンドに用があるみたいな反応だっただろう。フィーネは自分の不注意にどきどきしながら、頭を下げてその場を去ろうとする。
「フィーネ奏手」
だが、名前を呼ばれてしまっては無視もできなかった。歩き出そうとした格好で固まったフィーネは、改めてアッラルガンドを見上げる。
「はい……なんでしょう?」 「ちょうどいい。聞いても良いだろうか」 「は、はい」
なにを? と頭の中は疑問符で埋め尽くされたが、話を聞きもしないで駄目ですとは言えない。きちんと身体ごと彼のほうへ向き直ったフィーネは、ただ彼の言葉を待つしかなかった。
「近頃、ロニール雪山に凶暴化した魔物が住み着いたという話は聞いているか?」 「え、は、はい。一応」
そういえば食堂で待っている間、誰かがそんな話をしているのを聞いたような気もする。その程度の知識で頷いていいのかわからなかったが、フィーネはとにかく首を縦に振った。
「では、お前はどう思う? 早急に討伐すべきだとは思わないか?」 「それは……できるに越したことはないと思いますけど……」
どうして急にこのような意見を求められているのかわからず、フィーネは答えに困った。第六時代ならともかくも、今は討伐任務から遠ざかって久しい。第六師団はダアトを目指す巡礼者の安全を守るため、主要な航路や陸路における魔物の討伐なども請け負っていたが、今のフィーネの所属は特務なのだ。
「でも、シルバーナ大陸からダアトを目指す場合、ケテルブルク港から船を使いますよね。ロニール雪山は地元住民でも近寄らない場所で迂回ルートも多くありますし、神託の盾が急いでどうこうする問題ではないかと……」
それでも一応聞かれたからには自分の意見を述べると、アッラルガンドはわかりやすく苦い顔になった。
「確かに、巡礼者にただちに危険が迫る可能性は低い。だが、近隣の住民にいつ被害が出るかわからないだろう」 「そうですね。そうなれば……マルクト軍が動くでしょう。正式に救援依頼があれば話は別ですが、あそこは魔物だけでなく雪崩などの危険もありますし……」
早い話が、ローレライ教団には直接関係のない話ということだ。戦争や災害が起こった際に復興支援をするのはもちろんだが、基本的には各国で民を守り、ローレライ教団はあくまで助力するという位置づけでなければとてもじゃないが回らない。ましてや危険の伴う任務であれば、騎士団を動かすにも大義名分が要る。 冷たいと言われるかもしれないけれど、フィーネは自分が間違っているとは思わなかった。
「……フィーネ奏手もそう言うのか」 「?」 「カンタビレがいれば、きっと討伐に行くと言っただろう」 「ええまぁ、カンタビレ師団長は強い魔物と戦うのが好きですから……」
確かに彼の言う通り、カンタビレならきっとこの討伐任務に食いついただろう。先ほど言ったのはフィーネの個人的な意見で、カンタビレが行くというのであればフィーネはそれに従ったとも思う。本来はマルクトがやるべきことだと思っていても、慣れていたから反対もしなかったかもしれない。 だが、フィーネの発言をどう受け取ったのか、アッラルガンドは少し悩む素振りを見せた。
「……そういうのが嫌で、お前は彼女に着いて行かなかったのか?」 「え?」 「お前が特務に移るのだと聞いたとき、信じられなかった。カンタビレはお前のことを可愛がっていたし、お前もカンタビレを尊敬しているように見えた」 「そんな……! 私は今も尊敬しています。人事は上の人が決めることじゃないですか!」
アッラルガンドの言い方では、まるでフィーネがカンタビレから離反したみたいだ。総長の計画に乗ったこと自体がそうだという見方もできるだろうが、フィーネ個人の感情としては決してカンタビレの人柄ややり方に反発して去ったわけではない。 思わず強く言い返すと、アッラルガンドはどこかハッとしたような顔をしてすまない、と謝った。
「自分の問題を勝手にあてはめるべきではなかったな……。失礼なことを言った」 「……さっき、私も反対するのか、と言いましたね。討伐の件、副師団長に反対されているのですか?」 「あぁ、その通りだ。だが、反対しているのはシンク一人ではない。私のやり方が古いと、そう思う者も多いようだ」 「……」
人々の安全を守ることについては、古い古くないではなく単純に主義の問題のような気はする。彼の行おうとしていることは人道的には正しい。しかし正しいことをし続けるのは、口で言うほど簡単なことではないのだ。誰もが博愛の精神を持っているわけではない。誰もが自己犠牲の精神を持てるわけではない。これまではアッラルガンドの一声でまとまっていた第五だったけれど、前任の副師団長の事件を皮切りに少しずつ綻びが出始めているのかもしれなかった。
「あの……シンクは、別にあなたのことが嫌いで討伐に反対しているわけではないと思います」
『師団長派』、『副師団長派』の話を思い出して、フィーネはなんとかならないものかと思考を巡らせた。フィーネ自身も討伐には賛成しかねるが、基本的にアッラルガンドや第五の気風に好感を持っている。だからこそ前任の件では嘆願にも加わったし、できることならシンクとも仲良くやっていってほしい。
「色んな意見、あるほうが良いじゃないですか。……私は、そういう意味ではあんまりカンタビレ師団長の役には立てなかったけど、師団長だけで全部決めるほうが大変だと思います」
口と態度に問題はあるかもしれないが、シンクはフィーネよりもよっぽどちゃんと副師団長の仕事をしていると思う。意見の違いを悪いように捉えてほしくなかった。シンクを目障りに思ってほしくなかった。大きなお世話でしかないけれど、ギスギスしている第五なんて見たくない。 フィーネは自分でもどうしてここまで必死になるのかと思うほど、アッラルガンドに向かって真剣に訴えた。
「第五の兵士に危険が伴うことだから、反対したんだと思います。もしかしたら、シンクの言い方が誤解させたのかもしれませんが……だいたい本当に誤解なんです」
フィーネが口下手でよく失言するように、シンクも無駄に嫌われるような物言いばかりするから。 本当は言動ほど酷い人間ではないと、どうかわかってほしい。
「……そう、かもしれないな」
アッラルガンドはフィーネの勢いに少し驚いたようではあったが、顎に手をやるとゆっくり頷いた。
「いや、かもしれないではなく、シンクのあれが性格だってことは俺もわかっているんだ。ただ……」
ちょうどそのとき、昼の終わりを告げるベルが鳴った。 互いにその音にハッとしたものの、続きを知りたいフィーネはその場を動こうとしない。彼はそんなフィーネの様子を見て、もう一度驚いたように瞬きをした。
「……フィーネ奏手は、そんなにシンクと仲が良かったんだな」
否定したほうがいいのだろうか。余計な真似をするなと後でシンクに怒られるだろうか。 だが、フィーネは静かに頷いた。アッラルガンドとシンクの間に何か行き違いがあるのなら、放ってはおけないと思ったのだ。
「……わかった。だったら、あいつのことを気をつけて見てやっていてほしい」 「?」 「そう言えば、トリトハイムからお前が嘆願に加わってくれていたとも聞いたな……。それなら尚更だ、頼む」 「あの、お話が見えないのですが……」
シンクを見ることと嘆願の件がちっとも結び付かず、フィーネは思い切り首をかしげる。一方のアッラルガンドはそんなフィーネを見て、ますます安心を強めたらしかった。それでも苦悩の証拠として眉間の皺を深くしながら、いつも堂々としている彼にしては珍しく、小さな声で唸るように言った。
「シンクは……ヴァンに利用されているのだと思う」 「!」 「まだ全貌は見えないが、前任の件含めて、ヴァンが何か良くないことをしようとしていると俺は思っている。シンクは優秀だが……いや、だからこそ、あいつが道を踏み外さないように見ていてやってほしい」
彼はそう言うと、最後にもう一度だけ「頼む」と繰り返して、フィーネの返事も待たずにさっと背を向けた。 騎士団のトップを疑うような発言。それを部下でもないフィーネに聞かせ、疑惑を植え付けたこと。どちらも彼にとって、十分に恥ずべき行いということなのだろう。しかしそれだけシンクのことを、本気で気にかけてくれたという証拠でもある。
(でも、私は……)
もう既に、道を踏み外している側なのだ。これからもシンクの傍にいることはできるけれど、アッラルガンドの目指すような絶対的な正しさへ引っ張っていくことはできない。預言という絶対的な存在が、先にシンクやフィーネをこの世界から弾き出しているからだ。
(正しさが痛いなんて、私、知らなかった……)
もはやフィーネはただ息を呑んで、彼が去っていくのを見送ることしかできなかった。
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mokuji
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