アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


70.報告、連絡(71/151)

 シンクにとってフィーネに報告書の書き方を教えるのは、あくまで彼女の元を訪れるための口実でしかなかった。フィーネの出す書類に改善の余地があるのは事実だけれども、今の彼女は特務師団で直接シンクの業務に影響があるわけでもないし、ましてやシンクは神託の盾オラクルという組織をよりよい職場にしたいわけでもなんでもない。
 書類の件を持ち出したのは本当にたまたま、部屋を訪ねる理由としてちょうどよかったからだ。これといった具体的な用もなく、雑談のためプライベートな時間に訪問するには、何かしら名前のついた関係が要る。『同志』というには、フィーネは計画の深いところまで知らないようだったし、シンクだってフィーネと毎回小難しい話をしたいわけではない。かといって今更『友達』として、他の奴らとひとくくりにされるのも面白くなかった。



「だいぶマシにはなってきたね」

 フィーネの書き直した報告書に目を通し、シンクはそんな感想を漏らす。まだ少し冗長であることは否めないけれど、必要なことは漏れなくまとめられているし、どこが結論なのかもわかりやすくなった。特別抜きんでて上手い文章とは言えないが、仕事の文書としては十分に問題のない範囲だろう。

「ほんと?」

 シンクの言葉を聞いて、フィーネはぱっと顔を輝かせた。こちらが書類に目を通している間、ずっとそわそわとした様子だった彼女は、ようやく安心したように表情を緩める。

「上の人が何を書いてほしいのか、シンクに言われて初めて分かった気がする」
「何言ってるんだよ。一応アンタだって、部下の書類を確認する立場でしょ」
「期限内に提出さえしてくれればあとは別に……。作戦はカンタビレ師団長の一声だったし、細かい運営のことは基本的に第五に投げてたから」
「それが諸悪の根源なんだよ」

 アッラルガンドが第六を甘やかした結果が、フィーネみたいな武一辺倒の存在を生んだ。しかしながら彼女はシンクに宣言した通り、ここのところとても真面目に課題に取り組んでいる。はっきり書類仕事が嫌だと言われたのもあって、シンクの側が意識して小言っぽくならないように気を付けたのもあるかもしれない。が、それを抜きにしてもフィーネは上の空になることもなく頑張って活字と向き合っていた。時折難しい顔をしているから苦労しているようではあるものの、少なくとも前ほど嫌々という感じはしない。

(たぶん根が真面目だから、ちゃんとやればそこそこ伸びるんだよな)

 シンクは合格、と口に出す代わりに、トントン、と書類の端を揃えてまとめる。彼女がやる気を出してくれたおかげでこちらもやりやすいが、あまりめきめき上達されて卒業だなんてことになると、それはそれで部屋を訪ねる口実が無くなって都合が悪い。

「まあでも、この調子で数をこなしていくしかないね」
「うん」

 フィーネは素直に頷くと、ペンを握り直して再び他の書類の書き直しに移った。従順というか、単純と言うか、この前まで自分が上官だと言い張っていたくせに、プライドは無いのかなんてちょっと意地悪なことすら思ってしまう。

「……」

 俯いて、真剣な眼差しで書類と向き合っている彼女の横顔を、シンクは何をするわけでもなくただ眺めていた。当然、お喋りしながら書くなんてそんな器用なことがフィーネにできるはずもないから、室内は基本的に無言になる。それでも、不思議と居心地は悪くなかった。見られている側のフィーネはどうだか知らないが、彼女も気が散ると言ってこないあたり、不快というわけではないのだろう。ひょっとしたら、目の前のことに必死すぎて気がついていないのかも。
 外では仮面に覆われているフィーネの素顔が、ここではいっそ無防備なくらいにさらけ出されていた。

(……睫毛にも影ってできるんだな)

 そうやって待っている間の暇つぶしに彼女を眺めながら、シンクのほうがいつの間にか上の空になっていた。そのことに気づかされたのは、不意に彼女がこちらを向いたからである。

「……あのね、シンク」
「!」

 別に何も悪いことはしていない。それなのにシンクは反射的に目をそらして、それからもう一度無理矢理フィーネに視線を戻した。二人しかいなくて相手が喋ろうとしているのに、全然違うところを見ているのもなんだかおかしな話だろう。

「……なに? 質問?」

 なんとか平静を装って、シンクは返答することに成功した。おかげでフィーネはシンクの態度を訝ることもなく、そのままううん、と首を横に振る。

「実はシンクに報告と相談があって……。練習がてら、書類の形にしてみようかなと思ったんだけど、やっぱり紙に書いて残るのはまずいなって思って」

 見ればいつの間にか古い書類の書き直しは終えたらしく、フィーネはまっさらな紙の上で手を止めていた。彼女は書きながら考えて全体を整えるというより、考えきってから書くタイプのようなので、きっと頭の中ではああでもないこうでもないと書き損じを山ほど積んだ後のなのだろう。

「……あのさ、書類の書き方教えてるからってボクはアンタの上官じゃないんだけど。それ、ホントにボク宛てで合ってる?」

 部下でもない彼女に報告の必要な何かを頼んだ覚えはない。相談のほうはともかく、唐突に報告があると言われて、まったく心あたりのないシンクは戸惑った。

「仕事の話じゃないの」
「……わかった。言ってみなよ」
「うん……」

 自分から言い出したくせに、シンクが頷くとフィーネは急に不安げな表情になった。そっちにそんな顔をされると、嫌でもこちらも緊張する。フィーネは胸の前で指を組み、躊躇いがちに視線を合わせてきた。

「えっとその……本当はもっと早くに言うべきだったというか……いや、いつ言われてもいい気はしないだろうけど……」
「前置きはいいよ」
「…………」

 彼女の態度からして、どうやらあまり良くない内容の報告らしい。引き延ばされるより早く知って楽になりたいシンクがぶった切ると、フィーネはやや怯んだ様子で瞬きをする。それでも、やはり言わなければならないと思ったのか、彼女は覚悟を決めたように小さく息を吐いた。

「私、友達なの……イオン様と」
「……」
「幼馴染のほうのイオンじゃない。今の導師のイオン様と」

 そう言ったフィーネの指は、先ほどよりもずっと固く結ぶように組まれていて、よく見れば小さく震えている。

「報告って、そのこと?」

 シンクが確認すると、フィーネはぎこちなく頷く。まるで怒られるのを待っているみたいな彼女の態度は、シンクからすれば酷く滑稽だった。もちろん、シンクだって急に導師のことを持ち出されてぎょっとしたけれど、フィーネの身構え方が大袈裟すぎて、かえってどんな反応をすればいいのかわからなかった。

「……それで、アンタはそれをボクに言って、どうしたいワケ?」
「どうしたいとかじゃない……ただ、シンクに嫌われたくなかった」
「ボクが怒るとでも思ったの?」

 フィーネは返事をしなかったがこの沈黙は肯定だろう。シンクはため息の代わりに目を伏せた。

「アンタにそう思われて、気遣われることのほうが不快だね」

 いつから友人関係になったのかはわからないが、考えてみればあれだけ導師守護役フォンマスターガーディアンと親しくしているのだから、導師本人と接触があってもおかしくない。七番目の顔は言うまでもなく被験者オリジナルと同じであるし、おまけにフィーネがレプリカに対して、被害者意識とでもいうべき妙な親近感を抱いているのは知っていた。だから、彼女が七番目に構うようになったのは、ある種当然のなりゆきと言えるかもしれない。

「余計な気を回したのはごめん……。でも、イオン様と友達になったことまでは謝らない。だから、謝罪じゃなくて報告なの」
「……へぇ、アンタにしては成長したんじゃない? でもこれはただの連絡であって、報告じゃない。アンタが誰と仲良くしようが、ボクにいちいち言わなきゃならない義理はないんだからさ」
「……シンク、ほんとに変わったね」

 こちらとしては一貫して同情や憐憫はごめんだ、と言い続けているつもりなのに、フィーネはどこかしみじみとした口調でそう呟いた。


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