アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


67.なんででも(68/151)

 シンクの昇進祝いをしてから、しばらく経ったある日のこと。当たり前のように大量の書類の束を携えて現れたシンクに、フィーネは自分の軽はずみな発言を早速後悔する羽目になった。


「ほらここ、事実と感想をごっちゃに書くな」

(そう言われても、もうあんまり覚えてないんだけど……)

 軽はずみと言っても、何もおざなりな返事をしたわけではない。けれども後先考えていなかったという意味で、窮地に立たされていることには変わりないだろう。第六時代に書いたフィーネの報告書が第五の資料保管庫に残っていたとかで、シンクはご丁寧にそれを持ち出してきていた。しかも彼はわざわざ自分用の折り畳み椅子まで持参で来て陣取っているので、かなりの本気度が伺える。一体どこからそのやる気と熱意が湧いて出るのか、フィーネにはまるで理解ができなかった。

(やっぱり『嫌だけどいいよ』なんて言わなきゃよかったな……。別の用事を考えてもらえばよかった……)

 フィーネが内心で深く後悔している間にも、シンクはあちこち修正箇所を挙げていく。心なしか嬉々とした様子に見えるのは、こちらの被害妄想だろうか。

「こっちの書類からの転記も間違ってる。ちゃんと確認しなよ。あと、誤字も多いから直すこと。何回も同じ誤字してるから、もしかしなくても間違って覚えてるよね。今まで誰にも指摘してもらえなかったの?」

(なんでもいいけど、早く終わらないかな)

 もはや返事をするのも億劫で、黙り込んでいたからだろうか。シンクは大きなため息をつくと、注意を引くように指で机の上を軽く叩いた。

「あのさぁフィーネ、聞いてる?」
「……うん、聞いてはいるよ」
「だったらその報告書ひとつにいつまでかかってんの? 早く仕上げなよ」

(シンクはしばらく出禁にしたほうがいいかもしれない……)

 会えないときはあんなに寂しかったのに、いざ頻繁に顔を会わせるようになるとそんな考えすら過ってしまう。いや、別に普通に会話したり一緒に過ごしたりする分には嫌というわけではないのだ。ただ純粋にフィーネが書類の作成をやりたくないだけで、それ以外の用事ならいつでも自由に訪ねてきてくれていい。

「あのさ、シンク、これもうやめにしない……?」

 フィーネはペンをくるくる回転させて弄ぶと、この状況からの突破口を探すことにした。

「はぁ? 何言ってんの? フィーネだってやるって言っただろ」
「私はただ、嫌だけどいいって言っただけで……。そしてそれも今、ものすごく訂正したい」

 シンクの指摘は正しいし、筋も通っている。実際、彼に直された書類は見違えるほど整然としてわかりやすい内容になっていた。そのことは認めるし、シンクの側にはフィーネの面倒を見る義理がないことも理解している。
 けれども今後シンクがやってくる度にこの改善指導が続くのだと思ったら、フィーネは到底耐えられる気がしなかった。

「ねぇ、訂正してもいい? シンクもよくやるし……」
「訂正って……何をどう訂正するのさ」
「えっと、たとえば、仕事終わりにまで仕事をするのは、嫌だし良くない・・・・・・・
「もはや正反対の意味じゃないか……」

 そう言われても、いざやってみると想像していたより過酷だったのだから仕方ない。フィーネの取り繕わない本音に、シンクはやや気後れした顔つきになった。

「用を作れって言ったのはそっちだろ」
「うん。でもせっかく一緒にいるんだし、もっと楽しいことしよう。私も考えるから」

 何がいいかなあ、と考えながらペンをくるくる回せば、ペンごとがしりと手を掴まれる。

「それムカつくからやめてくれない?」
「……」

 剣呑な声にフィーネは小さく首を竦めた。叱られたペン回しの代わりに、自由が利くほうの手で机をとんとん叩く。ただしこれは注意を引くための物ではなく、単純に思考中というだけのことだ。

「……うーん、そうだ、シンクの部屋に遊びに行ってもいい?」
「は?」
「だって、シンクは私の部屋を知ってるけど、私はまだそっちに行ったことがないし」

 これは感想ではなく、事実・・だ。言ったフィーネが、自分の思い付きにいいなぁ、面白そうと期待を募らせている横で、シンクは頬をひくりと引きつらせる。

「断る」
「えっ、なんで」
「なんででも」
「……何か、見られてまずいものでもあるの?」
「顔以外には無いよ」
「じゃあ問題ないじゃない。なんで駄目なの?」
「なんででも」

 ろくに説明もせず、シンクは仏頂面で同じことを繰り返した。はぁ? と思ったのは、今度はフィーネのほうである。

「なにそれ、ずるい」
「ずるいってなんだよ……」
「だって、シンクは私の部屋を知ってるけど、私はまだそっちに行ったことがない」
「それはさっき聞いたよ」

(こっちこそ、『なんででも』は二度も聞かされた!)

 フィーネがちょっぴりムッとすると、どうやら思ったことはシンクにも伝わったらしい。彼はばつが悪そうに視線を逸らすと、言い訳するように何もない部屋だよ、と呟いた。

「フィーネが来たって、それこそ座るところもない」
「嘘だ。これだけ仕事大好きなシンクの部屋に、机がないわけないもの」

 シンクはきっと部屋に持ち帰ってでも仕事をするタイプと見た。

「……」

 そのフィーネの予想はどうやら図星だったらしく、シンクはますます目を泳がせる。彼は、彼にしては珍しく、かなり言い淀んだ。

「……それにその、奥まった場所にあるここと違って、人目がありすぎるんだよ」
「なにそれ」

 見られると困るというのは、部屋に何もないからなんて理由よりよっぽどまともな内容だ。けれどもフィーネはそれを聞いて、わくわくしていた気持ちが急激に萎んでいくのを感じた。

「結局、第五の人たちに私と仲良くしてるの知られるのが嫌ってこと……?」

 話しかけていいとは言われたけれど、あくまでそれは仕事上ということか。

(シンクはやっぱり、友達にはなってくれないんだ……。あくまで、同志とか仲間とか、そういうのなんだ)

 フィーネは静かに息を吸って、吐いた。そうやって心を整えて、すっかり付き合いの長くなってしまった諦観に身を委ねる。自分はどういう口調なんだっけ、と思い出すようにしながら、なんとか平静を装おうとした。

「まあ……それもそうだよね! 下手に勘繰られて、計画に支障が出たら困るもんね」
「フィーネ、」
「大丈夫、納得したから」
「大丈夫じゃない、聞きなよ。アンタたぶん、誤解してる」
「誤解?」

 そんなことをする余地は、特になかったと思うけれど。
 フィーネは早く話題を変えたかったが、シンクはまだ続きがあるみたいだった。そのくせ、どうにもこうにも歯切れが悪い。いつもはいっそやりすぎなくらい弁が立つくせに、シンクにはたまにこういうときがあった。

「……計画への支障も間違いではないけど、そういうことじゃなくて……アンタの部屋にボクが行くのは慣れてるけど、逆はそうじゃない、だろ?」
「? だからこそ行きたいって話になったんだよ。別にもう無理にとは言わないけど」
「無理なわけじゃない」

 そういうわりにはずっと、シンクは眉をしかめたままだ。そんなしかめっ面の状態で、彼はたどたどしく言葉を紡いでいく。

「……ただ、なんていうか、落ち着かないんだよ。侵入されるとかじゃなく……自分で人をわざわざ部屋に招くなんて、そんなの……」
「どういうこと? つまり、押し入ればいいってことなの?」
「っ、違う。それは絶対にやめろ。アンタはいつもやりすぎる」

 否定するときだけは、相変わらず早いこと。
 だが、シンクの態度は適当なことを言ってはぐらかそうとしているようには見えなかった。むしろシンク自身も言葉にするのが難しい感情を、なんとか伝えようとしてくれていると感じた。

「……また今度、落ち着いたら呼ぶから、それで勘弁してよ」

 最後に、ぐしゃりと髪をかき混ぜるようにして、シンクは言った。

「……うん。わかった」

 フィーネはちょっと考えて、ゆっくりと頷く。確かに誤解してたかもしれない。シンクの言ってることを完全に理解できたわけではないけれど、少なくとも彼が自分に向き合おうとしてくれたことは十分に感じた。

「ごめんね」

 フィーネが反省して謝ると、すかさずシンクはこちらを睨む。その目に刺すような鋭さこそないものの、じろりとどこか恨めしげな気配を漂わせていた。

「……それは何に対する『ごめん』なワケ」
「これはちゃんと私が悪いから謝ってるよ。私の態度、良くなかったなって。シンクもまだ身の回りが落ち着かない状態なのに……その中でわざわざ時間を取って私の報告書見てくれたのに、不真面目なのはよくなかったなって」
「……」

 いかにシンクがしっかりしていると言っても、第五に行って大きく生活環境が変化したのは事実なのだ。配属当初は他人を避けたり揉めたりという噂ばかり聞いていたのも、最近では第五の訓練場にも少しずつ顔を出すようになったと耳にしている。言うと嫌がると思ったから改めて話題にしなかったけれど、第五の中でシンクを副師団長として支持する声も増えてきたみたいだった。

「シンクだって頑張ってるんだし、私ももうちょっとうまく報告書を作れるように頑張ってみる」

 きっと、周囲の変化に伴ってシンクは変わることを強いられていたはずだ。それでもまだフィーネとの時間を残そうとしてくれた彼に、やれ書類仕事が嫌だの、やれ部屋に遊びに行きたいだの言うのは、純粋に我儘でしかなかったと思う。フィーネは単純に、嫌なことから逃げようとする自分自身の子供っぽさや、まだ生活の落ち着かないシンクの大変さに意識が及ばなかったことを恥じたのだった。

「……全然、わかってないじゃないか」

 けれどもそんなフィーネの決意に反して、シンクはぽつりとそう呟いた。こっちを睨んでいた視線は伏せられ、小さくため息まではかれる。

「でもそれも、アンタらしいと言えばアンタらしいか」

 彼の声は少なくとも、怒っているわけではなさそうだった。


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