65.そちら『は』変わらず(66/151)
訓練場でのパフォーマンスのあとは、いつもと変わらぬ書類と睨みあうだけの仕事。 アッラルガンドにまた下手なちょっかいを出されるくらいなら持ち帰ってやったほうがマシだと、シンクは定刻を過ぎるや否や残りの書類をまとめて足早に宿舎のほうへ向かう。そして自室の扉の前まで来て、そこで思わずぎょっとして足を止めた。
「なんだこれ……」
認識したものが理解できず、何かの見間違いかと目を擦ったが、何回見ても扉のど真ん中に突き刺さっている矢は消えない。ただしよくよく見れば矢は攻撃を目的としたものというより画鋲の代わり――小さな紙切れを留め置くために刺さっているようだった。
「……」
脅迫状か、果たし状か。今朝あれだけ容赦しないと言ったばかりなのに、一体どこにそんな度胸のある奴がいたのか。 シンクはちょっと悩んだが、流石にこれを無視できるほど太い神経はしていない。躊躇いながらも矢柄に手をかけて引っ張ると、そう深くは突き刺さっていなかったようで簡単に抜くことができた。そのまま折りたたまれた紙切れを開き、内容に目を通す。
――今夜、時間があったら部屋に来て
「はぁ……なんなのさ、一体……」
シンクはぐしゃっと紙を握りつぶすと、深い深いため息をついた。 中身はそれだけで、特に署名のようなものない。が、シンクに部屋に来いなどと言うのはフィーネくらいのものだろう。さほど彼女の筆跡を見たことがあるわけでもなかったけれど、時間があったらという妙な遠慮も、これがヴァンや計画に賛同する他の者からの呼び出しでないことを裏付けている。 そもそも、こんな頭のおかしい呼びつけ方をするのは、フィーネ以外に考えられなかった。
(話しかけるなって言ったの、まだ律儀に守ってるのか……)
この前、夜更けにばったり出くわしたときは人目がないから喋っただけで、日中はその限りではないということなのだろう。それにしたってもう少し他にやりようがありそうなものだが、フィーネにうまいやり方を期待するのは無駄というものだ。 ひとまずシンクは持ち帰ってきた書類を部屋の机に置くと、そのまますぐにフィーネのところに向かうことにした。この矢に関する文句も言わなくてはならないし、いい加減、話しかけるなと言ったことも訂正しないと酷い目にあいそうだ。それに、何の用があってかは知らないが、今回はフィーネのほうから来てくれと言われている。そのことに今更のように気づくと、シンクはわざと歩く速度を落とした。無駄なあがきかもしれないが、急いで駆け付けたなんて思われたくなかった。
「……」
それでも、第五と第六の区画はそう離れてはいない。フィーネの部屋の前に辿り着いたシンクは、ここまで来て二の足を踏むことになる。部屋を移るときに置いてきてしまったけれど、一緒に暮らしていた頃は合鍵を持っていたし、なんの気兼ねもなく自由に出入りしていた。この前訪れたときは、フィーネが先に扉を開けてくれた。 今なら、どうすべきなのだろうか。以前みたいにいきなりノブに手をかける? 彼女は仮面のことがあるから、在室していたって鍵をかけているだろう。普通で言えばノックするのが正解だが、なんだかそれも今更改まりすぎて気恥ずかしいような思いもある。 シンクはしばし扉の前で逡巡して、それからやっとのことで控え目にノックをした。コンコン、と軽く二回。じっと待っているだけのその時間が、ものすごく長いように感じられた。
「早かったね」
はじめ、警戒するように細く扉を開いたフィーネは、訪ねてきたのがシンクであるとわかるとそのまま大きく扉を開いた。「入って」もちろん、言われなくてもそのつもりだ。というか、呼んだのはそっちだ。シンクは心の中でぶつぶつ言いながら、表面上は黙ってフィーネの部屋に足を踏み入れる。無くなってしまったソファーの代わりに、仕方なく椅子へと腰を下ろした。
「……で、どういうつもり? 一瞬、果たし状かと思ったんだけど」
ベッドに座ったフィーネが仮面を外し、こちらも同じように外したのを皮切りに、早速シンクは問い詰めることにした。
「果たし状?」 「手紙のことだよ。いや、あれを手紙だなんていうのは認めがたいけどさ……」 「あぁ、シンクに連絡を取りたかったんだけど話しかけられないし、人を介して渡したら、結局関わりがあることがばれちゃうなって思って」
やはり思った通りの展開だったらしい。けろりと答えた彼女には、一切悪びれた様子はなかった。
「……床と扉の隙間に、差し込んでおくこともできただろ」 「奥まで入れ込んじゃうと気づかれないかもしれないし、中途半端に差し込んでおくと、他の誰かが抜き取っちゃうかもって思ったの。シンク、あちこちで敵を作ってるようだし……」
事実、部下に部屋を荒らされそうになったばかりでもあるので、シンクは大変決まりが悪かった。しかしながらそんな事情を知らないフィーネは、無邪気に笑って名案だったでしょう、と得意げな顔をする。
「ほら、あんな形で堂々と紙が留められてたら、興味が湧いてもかえってみんな手を出しづらいだろうし」 「……だとしても、やりすぎだ。あれをされるくらいなら、今度から普通に話しかけていいから」 「いいの?」 「仕方ないだろ。じゃないと、ボクの部屋の扉が穴だらけになるんだし」 「いや、流石にそんな頻繁に用はないと思うよ」
(ボクには用を作れって言ったくせに……!)
シンクは憤慨したが、人は憤慨しすぎると咄嗟に言葉が出なくなるものらしい。それにシンクがすっかり油断していただけで、フィーネは元々こういう奴だった。思ったことをそのまま馬鹿正直に口に出して、後からしまったという顔をする。今回もその例に漏れず、フィーネはシンクのしかめっ面を見て慌てだした。
「あ、えっと、その……違うの! 別に私はシンクが元気にしてくれてたら、それで何も言うことはないし……用って言うのは今回みたいに特別呼び出したりするような状況って意味で……」 「じゃあその、今回トクベツな用事ってなんなの」
このままフィーネの弁解を聞いていても、埒が明かない。 ぶすりと不機嫌な態度を崩さないままシンクが問えば、フィーネは申し訳なさそうに首を竦める。だが、切り替えが早いのもまた、彼女のいいんだか悪いんだかわからない性質のひとつであった。
「あのね、今日来てもらったのは、お祝いがしたかったからなの」 「お祝い?」 「そう。だって私、シンクが副師団長になったのに、おめでとうの一つも言ってなかったなって思って」
フィーネは真面目な表情で当たり前のことのように言ったが、まったく予想もしていなかった話にシンクは面食らった。自分自身、ヴァンから言い渡されただけで特にめでたいことだとは思っていなかったし、フィーネが祝う云々の前に、公示が出てすぐ部屋を出て行ったのはシンクのほうなのである。 フィーネはシンクが戸惑ったままでいることにも気づかないで、おずおずとラッピングされた包みを取り出した。
「それでね、ホールのやつじゃないけど、お祝いって言ったらケーキだなって思って。一応作ってみたから、その……よかったら、あげる!」
最後は半ば押し付けるように手渡されたそれ。以前に響律符を貰ったときは、ほとんど反射的に要らないと言ってしまったけれど、あれからシンクもだいぶ変わった。さすがに手放しに喜んで、ありがとうと礼を言えるほどではなかったけれども、変えられてしまった。
「……」
シンクは黙って巾着状になっている袋の口を開く。中には一口サイズのカップケーキがいくつか入っていた。
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mokuji
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