アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


64.清水に住めない(65/151)

 その日、シンクが第五師団の訓練場に姿を現したのは、着任日以来の出来事であった。初日から各大隊長をぶちのめした後は、ずっと他人との接触を避けるように執務室にこもりっきり。部下の指導どころか第五に馴染む気すらないと言わんばかりの態度だったシンクがやってきたことに、兵士たちは当然のように訝し気な表情を浮かべた。

 いや、実際には、訝るなんて甘いものではない。ある者は明確な嫌悪を。またある者は隠し切れない敵意を。唯一、アッラルガンドには事前に訓練場に向かうと話を通していたが、その彼が気づかわしげな視線を向けてくるほど、はっきり言ってシンクは欠片も歓迎されていなかった。

(……上等だね。こっちのほうがわかりやすくてずっといいよ)

 第五師団の規模は全部で二千人ほど。流石に全員で訓練をすることはほぼないが、それでも今この場にいるだけで、中隊規模――だいたい二百名はくだらないだろう。アッラルガンドの号令で綺麗に整列した彼らの前に立ち、シンクは喉元のフォンスロットに意識を集中させた。

「せっかく足を運んだってのに、随分な歓迎だね」

 無理に声を張り上げなくとも、シンクの発した声はよく通る。音の属性を持つ第七音素セブンスフォニムを使えば、このようなこともできるのだ。もっとも、声を遠くへ届かせるだけなら、似たようなことは風の第三音素サードフォニムでもできる。シンクがあえて第七音素セブンスフォニムを使ってみせたのは、一種のパフォーマンスのようなものだった。

「今日、ボクがここへ来たのは他でもない。アンタたちの中に、規律違反を犯したやつがいてね」

 関わる人間が役職者ばかりだから感覚が麻痺しそうになるものの、実際のところ、世間的には譜術自体扱える者はそう多くない。その中でも生まれつきの才能が要る第七音譜術士セブンスフォニマーは、より一層稀有な存在だろう。以前、訓練と称して戦った際には見せなかったその素養に、兵達の間でさざ波のようにざわつきが広がる。加えて、『規律違反』という穏やかでない言葉に、否が応でも緊張が走った。

「ま、規律と言っても、機密文書を漏洩するような、そんな大それた話じゃない。わざわざボクが第五に寄こされたってのに、そう何人もウチから犯罪者を出すわけにはいかないしね」
「シンク、」

 先ほどまで心配そうな顔をしていたくせに、一転して咎めるような声が飛んでくる。相変わらず、アッラルガンドは前任のことを引きずっているらしい。

「聞いていた話と違うぞ。お前は今日、そんな当てこすりを言うためにここへ来たのか?」

 声にしないまでも、兵たちはアッラルガンドの発言に同意のようだった。向けられる物言わぬ鋭い視線に、シンクは小さく肩を竦める。「違うよ」それから、かろうじて仮面の隙間から見えるであろう唇をぎゅっと引き結んだ。それは今にもこみ上げてきそうな笑いを、ぐっとこらえるためのものだった。

「ボクはただ、起こった事実を報告しに来たんだ。犯人に自ら名乗りださせるのが、アンタのお好みなんでしょ?」
「……そうだ」

 煽るようなやり方が気に入らないだけで、アッラルガンドの主張は元からそれだった。彼はこのままシンクに任せていては事態が悪くなるばかりだと思ったのか、ため息をついて部下たちのほうへ向き直る。

「聞いてくれ、皆。先日、第五の執務室に侵入して書類を荒らした者がいる。もちろん、色々と思うところはあったのだろうが、それでも騎士として恥ずべき卑怯な行いだ。俺は第五の師団長として、そのような行為を見過ごせない。頼むから心当たりのある者は、今ここで名乗り出てほしい」

 その瞬間、しん、と水を打ったような静けさに包まれたのは、何もアッラルガンドの統率力が高いせいだけではない。普通であれば好奇心に駆られて周囲を見まわす者がいてもおかしくはなかったが、まるで息をすることすらやめてしまったみたいに、みな一様に沈黙している。

(結局、総意だったんだよ。実際に手を汚したのは数名でも、皆、アンタみたいに高潔なわけじゃない……)

 誰が名乗りをあげるものか。そして、誰が自分と同じ後ろ暗い感情を抱いた仲間を告発できようか。

 どうやらアッラルガンドは告白を待つつもりみたいだった。が、結局誰よりも早く重い沈黙を破ったのは、他でもないシンクだった。

「ボクは別に、名乗り出る必要はないと思ってる」
「は……?」

 ここへ来る際、アッラルガンドには犯人の目星がついたとだけは伝えていた。そして彼の望むように、犯人に自ら名乗りだす機会を与えようという話でシンクは訓練場にやってきていた。

「どういうつもりだ。お前は俺のやり方に賛成してくれる気になったんじゃなかったのか」

 驚き、眉間に皺を寄せるアッラルガンドを見て、シンクは内心でおめでたいヤツ、と呟く。

「賛成というより、譲歩したんだよ。師団長はアンタなんだ。ボクは名乗りださせる必要はないと思っているけど、第五には第五のやり方があるっていうからやってみればいいと思っただけ。意見を変えたつもりはないよ」
「……」
「でもさ、アンタに譲歩するならそれはつまり……ボク自身にも第五のやり方を適用しないといけないってことだ。そうでしょ」

 シンクの言った意味がわからなかったのだろう。アッラルガンドをはじめ、その場にいた者は戸惑うような素振りを見せる。その中で唯一、神妙な面持ちでシンクの言葉の続きを待っていたのは、昨日シンクの部屋に侵入した五人の実行犯たちだけだった。

「今回の件は、確かに褒められた行為じゃない……。だけど、そうさせた原因をつくったのはボクだ。自業自得ってやつだと思ってる」

 昨日、自室で捕らえた部下達に吐き出させた不満は、全部想像通りでこれといった驚きのないものだった。
 前任の副師団長を――ひいては第五師団を愚弄する言動への嫌悪。
 第五師団を疑い、監査する立場として差し向けられたのではないかという疑惑。
 そして純粋に、まだ年若い少年が上官であることに対する妬み。生意気だという憤り。
 ほぼすべてにおいて自覚があり、事実でもあるから、シンクはそれらをすべて受け止めた。直截な言葉で糾弾されても、傷ついたり、腹を立てるような内容でもない。むしろ自分が逆の立場であれば、同じように思っただろうと共感さえした。
 共感したからこそ、きっと彼らにつけ入ることができるだろうと確信したのだった。

「そういうわけだから、一方的にアンタたちに反省を求める気はないよ。ボクが反感を抱かせるような態度を取っていたのは事実だ。今回の件はボクにも責任がある」
「シンク、お前……」
「なに? お望み通り名乗り出てやったのに、まだ文句あるワケ?」
「いや、そうではない……。だが、いいのか?」
「勘違いしないで欲しいんだけど、」

 まだいくぶん戸惑いながらも喜色を浮かべるアッラルガンドに、シンクは釘を刺しておく。このおめでたい男であれば、これを機にシンクがすっかり心を入れ替えたのだと思いかねない。ここまでのすべてが茶番だとはいえ、流石にそんな勘違いをされるのは心外だった。

「こっちの態度を改めるつもりはないよ。そろそろわかってきただろうけどさ、ボクは何も第五だけが・・・・・嫌いなわけじゃない。今日わざわざ名乗り出てやったのも、アンタたちが自意識過剰だって教える意味もあるんだ」
「……確かに、お前はあちこちで人に突っかかってると聞く。ディストからも苦情がきていたな」
「はぁ? どう考えても、突っかかってきたのはあっちでしょ」

 シンクはほとんど反射的に言い返して、すぐに「……今、ディストのことはいい」と話を戻した。アッラルガンドが頬を緩めたのを見て腹を立てたが、そこに触れてもまた余計な脱線をしてしまいそうだ。

「とにかく、今回の件はアンタたちが自意識過剰で誤解してたみたいだから不問にするけどさ、今後またこういうことがあったらその時は遠慮なく抗命罪で裁かせてもらう。本気でボクが気に入らなくて突っかかってくるなら、こっちだって容赦はしないよ」
「だそうだ、皆。気を付けるように。うちの副師団長は、手加減できないタイプだからだな」
「できないんじゃなくて、しないんだよ。ボクは他に行く場所がないからここにいるだけで、アンタたちと慣れあうつもりも、ましてやアンタたちを監視するなんて面倒なこともする気が無いんだからな」

 態度を改めるつもりはないという宣言通り、シンクの物言いは相変わらずのものだった。そうだというのに今やもう、拍子抜けするくらい向けられていた敵意や嫌悪が和らいでいる。
 謝罪こそしなかったものの、自分の非を認めたからか。第五に疑いを持っていないことを、はっきりと表明したからか。あるいは、彼らは今更になって同情したのかもしれない。実際には真っ赤な嘘でしかないけれど、あらかじめ流しておいたシンクの不幸な経歴が、周りを突き放すような、大人を舐め切った態度を作り出しているのだと都合よく解釈したのかもしれない。
 きっと、彼らも彼らでシンクに共感したのだ。不幸な境遇にも負けず、健気に正しくあろうとする人間は美しいかもしれないけれど、現実には正しくあれない人間なんていくらでもいるのだから。

(同情されるのは鬱陶しいけど、こうも思い通りに事が運ぶと、かえって愉快かもしれないな) 

 好かれるために媚びたり機嫌を伺ったりするのはごめんだが、印象操作をする分にはシンクのほうが利用する側だ。
 何もかも解決したと言わんばかりのアッラルガンドの満足気な顔を見て、シンクはくるりと背を向ける。

「それじゃ、ボクは執務室に戻るから」
「なんだ、一緒に訓練していかないのか?」
「言っただろ、慣れあうつもりはないって。皆が皆、アンタみたいにゴキゲンってわけにはいかないのさ」
「そうか、まぁ、いい。たまには顔を出せよ」
「……」

(ホント、わかりあえそうにもないね……)

 アッラルガンドは確かに善人だ。だが残念なことに、それゆえの隔絶を感じているのはシンク一人ではない。
 今日のみなの沈黙。昨日の不満。吐き出させた中には、シンクに対するもの以外もあった。その内容は理不尽としか言いようがないものだったけれど、シンクには不満を述べた兵士たちの気持ちがよく分かった。

(アンタといると、余計に自分が最低な奴に思えて気が滅入るんだよ……)

――水清ければ魚棲まず。
 
 もちろん、彼に心を救われる者や、よりよい方向へと引っ張られる者もいるだろう。
 けれども世の中にはどうしても、綺麗な水には住むことのできない生き物もいるのだった。

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