アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


60.敗北感(61/151)

 深夜まではかからなかったが、シンクが作り直した書類を届け終えたのはすっかり夜も遅い時間だった。アッラルガンドと顔を会わせるのは嫌だったため、ノックだけして彼の部屋の前に置いてきた。そんな渡し方をして、もしまた誰かが細工をしたとしても、それはそれで別に構わない。何度駄目にされようと、やられた側のシンクが徹底的に平気な顔さえしていれば、結局のところ犯人の負けなのである。

 もともと騎士団は朝型の生活なこともあって、夜の寄宿舎は静かなものだった。教団の、それこそ導師の部屋であれば見回りの兵なども詰めているかもしれないが、騎士団のほうにはとりたてて警備をする対象もいない。シンクが夜の廊下を歩いていても誰に会うこともないし、逆に今この状況で誰かに会ったのだとしたら、それこそ遠慮なく誰何すいかする。アッラルガンドが疑ったように、シンクも犯人は第五の中にいると確信していた。宣言通り、やられっぱなしで済ませる気は毛頭ない。絶対に誰か割り出して、公にか秘密裏にかは決めていないけれど、落とし前はつけさせる。
 そんなふうに、半分見回りみたいな気持ちで歩いていたからだろうか。


(なんでボクはこんなとこに……)

 いや、単純に疲れていて、思考を巡らすついでに足が勝手に動いていただけだろう。いつのまにか隣の第六の区画までやってきていることに気が付いて、シンクはふと我に返った。揃いも揃って事務仕事を投げて現場に行ったものだから、第五よりも輪をかけて静かな廊下。しかも、シンクはその第六の区画の中でもひときわ外れにある、倉庫ばかりしかないようなエリアに来てしまっていた。

(チッ……ほんとにどうかしてる……)

 特務師団には、副師団長に相当する役職がなかった。だから当然、特務の区画に補佐用の個室なんてものもなく、元々第六の外れに位置しているのなら特にどっちの師団に対して差し支えることもないだろうと、フィーネは異動後も部屋を移ったりはしていなかった。

(馬鹿馬鹿しい……)

 ぼんやりしていたシンクがフィーネの部屋のすぐ近くまでたどり着いたのは、ただの習慣みたいなもの。第五と第六の区画がたまたま隣だっただけ。今まで帰る部屋を間違えたことなんてなかったけれど、たまたま今日は疲れてうっかりしていただけ。
 シンクは自分自身にうんざりして、くるりと踵を返そうとした。時間も時間だし、だいたい今更どんな顔をして会いに行けばいいというのだ。
 
 フィーネはもう、とっくにシンクのことなんてどうでもいいと思っているに決まっているのに――。

「誰?」

 そのとき、背後からかけられた誰何すいかの声に、シンクはぴしりと固まった。第六が不在にしていることもあって、このあたりの廊下にはほとんど譜石灯はともされていない。向こうもとりあえず人影を認めて、声をかけたというところだろうか。

「……なんで、起きてるんだよ」
 
 シンクはため息をつくと、ゆっくり振り返った。
 部屋の中から気配に気づいて出てくるならともかく、こんな時間にどこをほっつき歩いていたというのか。
 当然、この辺りには今、フィーネしか住んでいない。会っていきなり理不尽な言葉をぶつけられた彼女は、シンクの姿を見てぽかんと口を開いた。

「えっと、起きてるというか今起きたところというか……」
「はぁ?」
「アリエッタのところでライガを寝かしつけてたの。それで私もつい一緒に居眠りしちゃって……っていうか、シンクこそなんでここに?」
「……」

 いっそ拍子抜けするほど、フィーネの態度は普通だった。日中のあれは夢だったのかと思うほど、彼女はこれまで通りに喋っている。そのせいでシンクもどう振舞うべきなのかがわからない。そもそもシンク自身、ここに来てしまったことは完全に予定外であった。

「……」
「……えっ、無視?」
「いや……」
「何か聞かれてまずい話があるなら……えっとまぁこの辺り誰もいないけど、中で話す?」

 そう言ったフィーネは、戸惑うシンクを置いて、がちゃがちゃと部屋の鍵を開ける。扉が開くと、彼女は再度伺うようにこちらを見た。

「……シンク?」

 特に話すこともまとまっていないのに、シンクはなぜかそれに抗えなかった。そうやってまだ迎え入れてもらえることに、酷く安堵してしまっている自分がいた。
 そして特に珍しさの欠片もない、見慣れたはずの室内。灯りに目が慣れるとすぐに、シンクはぽつりと呟いた。

「……ボクのベッドがない」

 それは言った自分が後からハッとするくらい、呆然とした口調だった。フィーネが自分の部屋をどう模様替えしようとシンクには関係のないことだし、ましてや口を挟む権利もない。そんなことはわかっているのに、心の中には留めておけず声に出してしまっていた。

「え、あぁ、そうなの。シンクも自分の部屋を持ったし、もう使わないかと思って。今はアリエッタが……いや、ほぼライガに占領されてるけど、使ってるよ」
「しかもライガなわけ……いや、いい。なんでもない」
「座るならそっちの机の椅子か、適当にベッドにでも腰かけて」
「……」

(……なんなんだよ、ホント)

 話すことはまだまとまらないのに、言いたいことなら次々湧いてくる感じだ。相変わらず、全体的に、壊滅的なほどデリカシーがない。シンクのベッドの件は仕方がないとしよう。だが、いくら前は一緒に暮らしていたとはいえ、こんな時間に異性を部屋に招いてその態度というのはあまりに気安すぎはしないか。気を抜けば文句ばかりになりそうで、シンクは唇を引き結びながら椅子のほうに腰を下ろす。
 ただ、フィーネもフィーネで、シンクの突然の訪問にそわそわしていたらしい。それが分かったのは、彼女がベッドに腰を下ろして、仮面を外してからのことだった。
 
「……えっと、それで、どうしたの?」

 お互い、外では常に仮面を着けっぱなしだ。しばらく見ない程度で忘れたりはしないけれど、シンクが彼女の素顔を拝むのも随分と久しぶりのことになる。まばたきの多さから、彼女も彼女で緊張しているのだなとわかった。

「……別に。用が無いと、来ちゃ駄目なワケ?」

 シンクは少し躊躇ってから、自分も同じように仮面を外した。なんとなく、どんな顔をしていいのかわからなくて、自然と眉間に皺が寄る格好になる。

「えっ? いやでも、何か話があったんじゃ……」
「そんなこと、ボクは一言も言ってない」
「……」

 今すぐ叩き出されても、きっと文句は言えないだろう。フィーネを困らせていることは明らかだし、自分でも何をやっているんだと呆れたが、シンクはほとんど居直るような気持ちで椅子に腰かけていた。
 フィーネはそんなふてぶてしい態度のシンクに向かって、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。

「えっとね……前にアニスは時間は作るものだって言ってた。だから、用も何か適当に作ったらいいと思う」
「……なんだよそれ」
「シンクなら作れるでしょ、頭いいんだし」
「……」

 これが他の奴の言葉だったら、挑発だと思うところだが。
 とりあえず追い出されなかったことに安心しながら、仕方なくシンクは腕を組んで考える。最も直近の話題で言えば、それこそアッシュとの揉め事の話になるけれど、さすがにいきなりそこに触れるほどシンクの気持ちも整理がついていない。
 黙り込めば黙り込むほどフィーネの期待するような視線を受けることになって、シンクはとうとう苦し紛れに口を開いた。

「……それじゃあ、事務仕事の件だけど、」
「あぁ! 師団によって若干書きぶりのルールが違うけど、何かわからないことがあれば教えるよ!」

 仕事の話の、一体何がそんなに嬉しかったのだろうか。思わぬ食いつきを見せた彼女に少しびっくりしながらも、遮られたシンクはそうじゃない、と話の主導権を取り戻す。

「何が教えるだよ、第六の事務仕事が第五こっちに来てるのがオカシイって話なのに」
「あー、今もそうなんだ?」
「それに、送られてくる申請書も適当すぎる。アンタも副師団長なら、もっとまともな仕事をしなよ」
「えっと、第六のことは今の私に言われても……」

 急に真っ当な反論をされて、シンクはちょっと勢いを欠いた。元々見切り発車でろくな会話の終着点を見つけられないまま、とにかく何か言わなくてはと言葉を続ける。

「それはそうだけど……つまるところ、フィーネ時代の負の慣習だろ。おかげでこっちはすごく迷惑してるんだよ」
「……まとめると、今日の用事は苦情ってこと?」

 要約すると、確かにそうなる。だが、これは今無理矢理に捻りだしただけの話なので、苦情とまで言うのは流石のシンクも気が引けた。

「……改善指導ってことでいいんじゃない。アンタが特務でも同じ迷惑をかけないよう、今度まともな書き方ってのを教えてあげるよ」
「今度?」
「……今度」
「仕事終わりに?」
「…………仕事終わりに」

――話しかけるなって言ったくせに? 指導? どの面下げて?

 シンクがフィーネの立場ならきっとそう言っていたし、もしフィーネが本当にそう言っていたのなら、シンクは何一つ言い返せなかったことだろう。
 けれどもフィーネはうーんと唸って、ひどく嫌そうな顔をしただけだった。

「私、特務でも事務仕事は免除されてて……それにその、仕事終わりにまで仕事したくないというか」
「……」
「だけどまぁ……正直ものすごく嫌だけど……嫌だけどいいよ」
「どっちなんだよ」

 嫌々なのは表情を見ればわかる。いくらフィーネが押しに弱くて断れない性格だとしても、そこまで嫌な顔をするのは断っているのとほぼ同じだ。
 自分はこれまで散々不服を態度に表してきたくせに、いざそうやって嫌を突きつけられる側になるとシンクは落ち着かない気分になった。耐えきれずに嫌ならやらなきゃいい、とこちらから提案を引っ込めようとしたところで、フィーネが不意に笑う。

「だから、嫌だけどいいよって。シンクがそれで、また遊びに来てくれるなら」
「!」
「だけど、できれば別の用事も作ってね」

(……なんなんだよ、ホント)

 幾度目かになる感想を胸の内で呟いて、シンクはぐしゃっと表情を歪めた。何に対してかはわからなかったけれど、とにかく負けたような気持ちでいっぱいだ。
 心のどこかで、また喧嘩になりさえすればフィーネと腹を割って話せると思っていた。怒らせることさえできれば、まだ彼女は自分を見捨てていないのだと確信できると思っていた。

(それなのに、こんな……こんなのって……)

 やっぱり悔しい。
 そう思ってしまうあたり救いようがないとシンク自身感じていたが、それでもこの胸を締め付けるような感情にどんな名前をつけていいのか見当もつかない。だって『それ』は、もっと甘ったるい感情だと耳にした。だって『それ』は、もっと浮ついたもののように見えた。
 けれどもシンクが今感じているものは、あまりにも苦しい。

「……フィーネ、」

 シンクはせっかく外した仮面を、再び着け直した。こちらからはよく見えるので、フィーネの表情が一瞬陰ったことにももちろん気づく。それでもシンクは自分の顔を見られたくなくて、仮面の力を借りずにはいられなかった。

「今日の、夕方のことだけど……」
「アッシュ師団長には、一応私から謝っておいたよ」

 フィーネはいかにもわかっている、というように頷いた。シンクがここに来た本題はまさにそのことだったのだろうと言いたげだった。

「シンクが一人で謝りにくいなら私も一緒に着いて行くし、どうしても謝るのが嫌でも、せめて前みたいに訂正するのはどう?」
「はぁ? 何をどう訂正するんだよ。だいたいボクはアッシュにどう思われようと構わないね」

 せっかく勇気を出したのに、話が妙な方向へ進もうとしているのを悟ってシンクは不機嫌な声を出した。早合点もいいとこだ。人の話は最後まで聞けよ、と思う。
 だがフィーネは本気で勘違いしていたようで、ちょこんと首を傾げた。
 
「違うの? じゃあなんでその話を持ち出してきたの?」
「……それはアンタに……」
「私?」
「だから、その……似合ってないって言ったから……」

 なるべく怒った口調にならないように意識した結果、今度はものすごく尻すぼみになってしまう。
 それでも静かな部屋の中。シンクの言葉はきちんとフィーネに届いたらしく、彼女は大きく目を瞠った。

「て、訂正してくれるの?」
「……見慣れない、にね」

 これが本題だったと思われるのは癪だが、訂正くらいならしてもいい。
 フィーネは今度は目を細めて、嬉しそうに微笑んだ。ありがとう、なんて気恥ずかしい台詞を吐かなかったのは、彼女なりに気を利かせた結果なのか、額面通り受け取られたからなのかは判然としない。

「私もね、まだシンクの新しい仮面、見慣れないや」

 だって、シンクは謝ったわけでも褒めたわけでもなく、ただ発言を訂正しただけなのだから――。



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