アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


59.卑怯者(60/151)

 食堂に向かうはずだったシンクの足は、そのままのろのろと第五の執務室への道を引き返していた。空腹を訴えていた腹はいつのまにか死んだように押し黙り、頭の中は先ほどから同じ言葉がぐるぐると回っている。

――相手にしないほうがいいです

 そう言ったフィーネの声には、怒りも軽蔑すらも含まれていなかったように思う。その手の悪感情であれば、今までいくらでも他の奴から浴びせられてきたからよくわかる。いや、むしろシンクはわざと相手の神経を逆撫でるような振る舞いをしている節すらあった。だからシンクの狙い通りに相手が憤るのは、別に恐れることではない。アッシュが剣の柄に手をかけても短気な奴だと思うくらいで、むしろこの狭い廊下であれば長物を振り回す彼よりこちらのほうがよほど有利に戦えると冷静に判断していたほどだ。特務と揉め事を起こすこと自体も、計画の前ではさしたる問題ではない。逆に仲良くつるんで共謀していると疑われるよりは、周囲に険悪だと思われていたほうが都合がいい。アッシュ個人に憎まれたとしても、どうせ計画の賛同者はみな自分の都合で参加しているだけだ。嫌いな人間と仕事をするのは精神的につらいなんて、もっと憎むべき預言スコアの前ではどうでもいい話。
 だから、だから怒りを向けられるのであれば、シンクは嗤ってやり過ごせたのに。

――相手にしないほうがいいです

(フィーネは……できるだけ人に好かれようって考える馬鹿じゃなかったの。ボクに腹が立つこともいっぱいあるって言ってたんじゃないの)

 面倒事でしかなく、関わるのは時間の無駄で、歩み寄ろうとしたり反対に怒ったりするだけの価値もない。離れて暮らして言葉を交わさないうちに、フィーネの中で自分の存在はそこまで落ちてしまったのだろうか。いや、価値が無かったと改めて気づいてしまったのだろうか。

(これならいっそ、大嫌いだと言われた方がよほどマシだ……)

 それならシンクも、こっちだって嫌いだと叫び返せる。前みたいに正面から喧嘩して、酷い言葉を吐いて、その結果殴られたって別にいい。
 まさか一顧だにされず素通りされたことが、これほど堪えることなのだとは思いもしなかった。



「おかえり、休憩から戻ったところか?」
「……」

 執務室に戻ると、そこには既にアッラルガンドの姿があった。シンクが席を外している間に会議を終えて戻ってきたらしく、帰ってくるなりまた仕事に取り掛かっているようだ。シンクが残しておいた書類が、彼の机の上に移動している。

「俺がいない間にだいぶ片付けてくれたようだな。残りは俺が片付けるから、お前はもう帰っていいぞ」
「……あぁそう」

 普段であればきっと、余計なことをするなと仕事を取り返していたことだろう。だが、今は躍起になって仕事をする気分にもなれなくて、シンクは生返事をする。一応、終わらせた分だけは提出だけして、今日はもう部屋に戻ろう。そう思って、重く足を引きずりながら自分の執務机の前まで行く。

「……は?」
「どうした、シンク?」

(無い……! まとめた報告書や指示書は分けて置いておいたはずなのに……)

 咄嗟にアッラルガンドのほうを見るが、彼は不思議そうにこちらを見返しただけだ。

「……アンタ、ここにまとめておいたのももう回収したの?」
「いや? 残っていたのは、まだ未確認の書類ばかりだったが……」
「……」

 シンクは黙って引き出しを開けたり、手近なファイルをぱらぱらとめくって確認する。けれどもやはり作ったはずの書類が無いし、そもそも自分自身そんなところに仕舞った記憶もない。床に落として気づかない程荒れた部屋でもないが……と屈みこんだところで、執務机の下に置いてあったゴミ箱がふと目にとまった。

「シンク?」
「……いや、なんでもない。悪いけど、今日まとめるって言ってた資料は、今日に変更してくれる?」

 ゴミ箱をもっと机の奥に押し込んで、シンクは何事もなかったように立ち上がる。視界を妨げない仮面を通して、こちら見ているアッラルガンドとばっちり目が合った。

「……なぜだ?」
「なぜって、やるのを忘れてたんだよ。ハハ、使えない部下で失望した?」
「嘘だな」
「……」

 少しの間も置かずそう断じられたことに、シンクは一瞬言葉を失う。だが、アッラルガンドが立ち上がったのを見て、すぐさま剣呑な声を出した。

「何が嘘だって言うのさ。実際に無いものは無いんだから、もういいだろ。今から作るし」

 席に座って、シンクはぎゅっと机のふちを掴む。けれども大人のアッラルガンドが後ろから椅子を引けば、案外と呆気なく椅子ごと退かされてしまった。「っ、やめろ!」そしてシンクの制止も構わず、背中に多少の蹴りは甘んじて受けながら、アッラルガンドは机の下にもぐってそれを見つけ出した。

「あるじゃないか」
「……」

 ぐしゃぐしゃのびりびり。おまけに珈琲でもぶっかけたのか、文字の判別も難しいほど染みの広がった紙の束。
 シンクは足を投げ出すように椅子に深く腰を掛けたまま、書類の残骸とアッラルガンドを睨みあげた。

「……提出できる状態じゃない。だから、無い。ボクがうっかり珈琲をこぼして、それでむしゃくしゃして捨てたんだ」
「この部屋に飲食物は置いてない。別に飲食禁止ではないが、息抜きを理由に外の空気を吸いに行けるようにな」
「食堂で貰ってきたに決まってるだろ」
「今日は牛乳にしなかったのか? それにカップはどうした?」
「今さっき、片付けに行ってきたんだよ」
「だったらなんで戻ってきたお前が『書類を回収したのか』俺に尋ねたり、『やり忘れていた』なんて言うんだ」
「…………」

 シンクはとうとう黙り込んだ。それはこれ以上嘘をつくのは無理だと観念したからというより、空気を読まずにしつこく追及してくるアッラルガンドに対する抗議の意思がほとんどだった。シンクだって馬鹿ではない。自分の説明が無理筋なことはわかっていて、その上で言っているのだ。

「もういいでしょ。さっきも言ったけど、今日中には作り直す。中身はだいたい覚えてるし、そんなに時間もかからないよ」
「そういう問題じゃないだろう。書類は確かに作り直せばいいかもしれないが、根本的な解決になっていない」
「根本的な解決ってなにさ。まさか犯人を見つけ出して、もう二度とやりませんなんて誓わせるとか言わないでよ」

 人から恨みを買っている自覚はある。せっかく作った書類を駄目にされたのは鬱陶しいが、正直それ自体はくだらなさすぎてどうでもいい。だがこんな目に合っている自分をアッラルガンドに知られることは、なぜだかとても耐え難かった。自業自得だと、お前の普段の行いが悪いからだと、きっとこの男は言わないだろうから――。

「当然だ。こんなことを言いたくはないが、明らかに内部犯だろう。今日、俺が不在にすることを知っていて、うっかり誰かに執務室に入るところを見られても言い訳のできる人間はやはり第五の人間だ」
「へぇ、第五の師団長サマともあろう方が、真っ先に部下を疑うんだ?」
「部下が間違ったときに正すのが俺の役目でもある。こんな卑怯者がうちにいるほうが問題だ、名乗りださせる」
「……だから、嫌だったんだ」

 シンクはぽつりと呟いた。なんだか今日は色んなことがありすぎて、上手く頭が回らないような気がする。

「そんなの、出るわけがない。だいたいそれじゃ……まるでボクがアンタに告げ口したみたいじゃないか」

 正しさに拘るのは結構だが、そんな惨めなことってあるだろうか。シンクは自分が書類を汚された立場であるにも関わらず、アッラルガンドよりもその犯人のほうに共感していた。そいつはシンクにムカついて、でも正面から食って掛かるには実力も足りなくて、だからこんな地味で卑怯な嫌がらせをしたのだろう。そんなどうしようもないくらい矮小で卑劣な人間が、正々堂々と自分から名乗りを上げて謝罪するなんてありえない。

「お前は庇おうとしたが、俺が無理に暴いたという経緯ももちろん話す」
「ハ……アンタ、どんだけおめでたいのさ。ボクは別に犯人を庇ったわけじゃない。もう本当にやめて……アンタはなんにもわかっちゃいないよ。アンタみたいに真っすぐ歩ける人間に、後ろ暗いことを抱えている奴の気持ちなんてわかるわけないんだ!」

 シンクは感情のままにそう叫ぶと、ばっと身を起こしてアッラルガンドから書類の残骸を奪った。腹が立ってムカムカして仕方がないのに、なぜだか同時に泣きたいような気分だった。

「……」

 唐突にシンクが怒りだしても、アッラルガンドは何も言わなかった。ただ、子供の癇癪だと受け流したわけでもなさそうで、彼の顔には困惑の色が浮かんでいる。きっと、シンクがアッラルガンドの考えを理解できないように、アッラルガンドもまたシンクのことを理解できないでいるのだろう。

(アンタとボクはあまりにも違いすぎるんだよ……)

 けれどもその残酷なまでの隔絶を――隔絶の苦しみを理解できるのは、シンクの側だけなのであった。

「……書類は今日中にアンタのところに届けるし、この件も自分で片付ける。安心しなよ、こっちだってハナから泣き寝入りなんてするつもりはないから」

 最後にそれだけきっちり告げ、シンクは第五の執務室を後にした。 

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