58.外側からの声(59/151)
「フィーネ、」
とにかく何が何でも、今すぐこの場を立ち去らなければ――。
「おいっ、フィーネ、」
絶対にそうしなきゃだめだ。 だって――。
慣れない高いヒールの靴を履いて、フィーネはドレスの裾が翻るのも構わずできるだけ大股で急ぐ。無理矢理掴んだアッシュの手首はフィーネの手には少し余るものだったけれど、それでもうっかり放してしまわないように力を込めて握った。 (だってそうしないと、シンクが斬られちゃう……!)
シンクの口が悪いのはいつものことだ。この姿を見られたのは運が悪いとしか言いようがないけれど、ドレスが似合っていないと言われたことについては自覚があるから別にいい。 しかし皆が皆フィーネのようにシンクの言動に慣れ切っているわけでもないし、聞き流せるわけでもないのだ。実際、シンクがアッシュに向かって言ったことは、貴族としての誇りを持っている彼を怒らせるのに十分な内容だっただろう。 目の前でアッシュが剣の柄に手をかけたのを見て、フィーネは頭の中が真っ白になった。
「フィーネ、もう大丈夫だ。悪かった、手を放してくれ」 「……」
特務師団の執務室の扉が見えて、気が緩んだとともにフィーネは足を止めた。そして今更ながら自分がかなり強引な行動をしたことに気が付いて、慌てて手を放して振り返る。
「……す、すみません! 私……」 「いや……俺のほうこそ、助けに入ったつもりが余計に面倒をかけちまったな」
謝るべきは、彼ではなくフィーネのほうだろう。彼はフィーネが困っていると思ってわざわざシンクとの間に入ってくれたのに、こんな形で振り回してしまって申し訳なさでいっぱいになる。 解放され、自分の手首を抑えたアッシュはこちらの視線に気が付くと、なんでもないことのように腕を下ろした。
「まぁ、その……入れよ」 「ほんとにほんとにすみませんっ……」
この時点で、フィーネはほとんど半分身体を折りたたむ勢いで項垂れていたが、アッシュに促されるままに執務室へと足を踏み入れる。一応、他の師団でいうところの副師団長に当たるはずなのだが、特務師団の規模が五十名程度と小さいのと、元々アッシュ一人で事務仕事を片付けていたのもあって、フィーネがこの部屋に入る機会はそれほど多くなかった。来たとしても口頭で報告をする程度で、間違ってもフィーネの机などがあるわけではない。 そのせいで部屋の中に入ったは良いが、お互いどうしていいかわからずに気まずい空気が流れた。 「あぁ、そうだな。ええと椅子は確かこっちに……」 「はい、ありがとうございます……」
かろうじて彼が来客用のハイスツールを見つけてくれたが、そこに腰を下ろしてもなお、フィーネはいたたまれなさを味わっていた。むしろ椅子が高く地面に足がつかないせいで、余計に落ち着かない気分になる。 アッシュは執務机の前という彼の定位置に座ると、それからややあって意を決したように口を開いた。
「お前が……ヴァンに言われて面倒を見ていたのは、あいつなんだろう」 「……そうです」
そういう存在がいたことは、以前に伝えてある。彼も第五師団に来る後任がこちらの味方だという話は聞いているようだったから、わざわざ否定する必要もなかった。けれど、
「一体、あいつは何者なんだ? ほんとにマルクトの人間兵器なのか?」 「……」
そう聞かれてしまうと、フィーネには答えられない。その質問がアッシュから出るということは、彼はシンクが導師のレプリカだと知らないということになる。 総長があえて伝えていないのであれば、フィーネが勝手に告げていいことではない。それにどう考えてもシンクは勝手に素性を言いふらされたくないだろうと思った。
「すみません、言えません」 「……知らないとは言わないんだな」 「はい。だから……どうか聞かないでください」 「……」
嘘をつくわけでもなく、誤魔化すわけでもなく。 フィーネがはっきりとそう言ったことに、アッシュは眉を上げて驚いた。しかしフィーネからすれば、自分が見せられる精いっぱいの誠意を見せたに過ぎない。フィーネはフィーネなりにこのアッシュという師団長を尊敬し、感謝もしていた。 「……シンクの発言は私から謝ります。本当に申し訳ございませんでした」 「別に面倒を見ていたといっても、お前が謝る筋合いはないと思うがな。お前だって、嫌なことを言われた側だろう」 「それは私が似合わない格好をしてたせいで……私が悪いんです。あ、いや、わざわざ用意してくれた部下達の気持ちは嬉しかったですけど……」
特務師団の諜報活動に備えた、上流貴族のマナー訓練。 もちろん仕事である限り、フィーネも逆に部下から教わる覚悟で一緒に取り組み始めたのだが、そこでまず何事も形からであるとして皆が連名でドレスを贈ってくれたのだ。戦闘用の団服とドレスとでは動きの幅の制約が違うこともあって、美しい所作を学ぶにはよい教材になると。 一応、フィーネも初めはかなり抵抗――というか固辞したのだけれど、せっかくの思いを無下にもできず、最終的には仮面をつけたままというなんとも珍妙な形で受け入れている。
(だけど、あのシンクがわざわざ追いかけてくるなんて、よっぽど変なんだろうな)
できれば、みっともないところはシンクには見られたくなかった。 そう思ってしまうのは、面倒を見ていたゆえのささやかな意地なのだろうか。 俯いてぎゅっとドレスの裾を握りしめると、そんなフィーネを見かねたように深いため息が降ってきた。
「いいか、フィーネ。お前は悪くない。もっと堂々としてろ」 「……それは、貴族のマナーとして、ですか?」 「いいや、お前自身として、だ。貴族としてでも、師団長補佐としてでも、ましてやあいつの上官としてでもない。フィーネとして、堂々とすべきだって言ってんだ」 「私として……?」
貴族の意識は初めから無いとはいえ、あとの二つを取ってしまえば、フィーネに自分に一体何が残るのかわからなかった。要は騎士団員であることを以外に、フィーネには誇れるものがない。堂々とできるだけの根拠も自信もない。どんなに磨いた武力も、結局のところ教団という大義名分がなければすぐにただの暴力に成り下がる。 (私自身は空っぽだ……。きっと最後に残るのは、選ばれなかった、生まれてこないほうが良かったという事実だけ……)
元々目を背けていただけで、心の奥底に根付いていた自分を否定する気持ち。 シンクのむき出しの感情に触れて、イオンと本音でぶつかって、フィーネは大切な感情を知った。それと一緒に、知りたくなかった感情の輪郭もなぞって自覚することになった。この前思いがけない相手から過去の傷に触れられたことも、フィーネをより頑なな気持ちにさせていた。 フィーネが言われた言葉を受け止めきれずに黙り込んでいると、アッシュはわからないか、と静かに言った。
「わかりません……。そんな、自信がありません……」 「俺は、初めてお前が特務にやってきたとき、正直お前のことを妙な奴だと思った。でも、うじうじした奴だとは思わなかった」 「……」 「俺が北部戦の戦場跡を見に行ってお前に八つ当たりしたときも、さっきあの生意気なガキを庇ったときも、お前は堂々として見えた」 「……」 「訓練中は人が変わるとも聞いてるな。お前は部下に戦闘の指導するとき、何を考えてる? 何に重きを置いている?」
投げかけられた質問に、フィーネはのろのろと口を開く。ようやく答えられる内容だったけれど、フィーネにはちっとも話が見えてこなかった。
「部下を死なせないこと……死なせないように、受け流すことや避けることを一番に教えています」
フィーネの答えを聞いて、アッシュはゆっくりと頷いた。ちょっぴり短気なところのある人だと思っていたのに、今の彼からは年長者としての風格と言うか、包容力のようなものがはっきりと感じられた。
「俺はな、フィーネ。お前が堂々として見えるとき、お前はいつも誰かに寄り添おうとしたり、誰かの為に行動しているように思う」 「……」 「それこそがフィーネの本質なんじゃねぇのか。それは十分、自信を持っていいことだと思うがな」
(私の、本質……)
かけられた言葉を突っぱねて、否定してしまうのは簡単なことだった。
――他人に寄り添うだなんて、一番苦手とすることなのに
――誰かの為に見えても、結局は自分の為だったりするんだよ
フィーネがフィーネを否定する声は、内側から確かに聞こえてくる。それでも外側から、自分ではない他の誰かが、フィーネを確かに肯定してくれた。
「……っ、ありがとう、ございます」
その事実が、たまらなく嬉しかった。たとえその評価が正しくフィーネを捉えているとは限らなくても、真実にできるようにフィーネ自身が頑張ればいい。誰からも期待されず、何の役割も価値もないことが苦しかったけれど、そうやって認めて、期待してくれる人がいるのなら――。
「私、もうちょっと自信持てるように、頑張ります……!」
みるみるうちに目の前がぼやけて、フィーネは先ほどとは別の意味で俯かざるをえなくなる。仮面の上から顔を覆って、ぐすっと鼻をすすると、アッシュが慌てた気配がした。
「お、おい、なにも泣かなくてもいいだろうが」 「っ、あのっ……これは嬉し泣きなので、お気遣いなく……」 「だとしてもだ。部下達に知れたら、何を言われるかわからねえ」 「……じゃ、じゃあっ、落ち着くまで、ここにいさせてください」 「……」
そう言いながらも、声を震わせてますます感情の高ぶりを見せるフィーネに、アッシュは少し黙り込んだ。 それから、しばしの沈黙ののち、ちょっぴり呆れの混じった優しい声で言う。
「……わかった、好きなだけいろ」
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mokuji
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