アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


57.自業自得(58/151)

 その日は詠師職の会議が教団のほうであるらしく、アッラルガンドは朝から不在にしていた。後を任されたシンクはというと、部下の指導に精を出す――なんてことはなく、一人執務室に籠ってもくもくと書類を片付けていた。
 一応、副師団長の下はいくつかの大隊に分かれており、それぞれそこに長を務める者がいるため、多少放っておいたところで何も問題はないのだ。むしろ、第六時代に日替わりで大隊を巡り、副師団長自ら指導をしていたというフィーネのほうがどうかしている。
 いや、それもこれも第五に細々した事務仕事を丸投げして、彼女が暇を持て余していたせいかもしれないが。

(はぁ、もうこんな時間か……)

 承認、決裁、稟議の回覧。さらに上への報告・申請。
 大きな組織ともなれば、こういう面倒な手続きはどうしても避けられないものなのだろうか。フィーネの部屋から第五の寄宿舎に移るまでの間、一時期ヴァンのところにも身を寄せたが、あちらもだいたい似たような感じだった。
 シンクは作成し終えた書類をひとまとめにすると、立ち上がって大きく伸びをする。誰に声をかけられることもない状態では昼食すらもすっぽかしてしまったようで、気づけばすっかり夕方になっていた。さすがに育ち盛りの身体が空腹を訴えてきたので、このあたりで一息入れることにする。そう、あくまで一息だ。まだまだ終わらせるべき仕事はたくさん残っている。


(軽食くらい、言えば出てくるか……)

 昼食には遅すぎるし、かと言って夕食にもやや早すぎる時刻。
 やり残した仕事の事を考えながら食堂のほうへ歩いていると、ちょうど廊下の向かいから人がやってくるのが見えた。

「!」

 おそらく、先に相手を認識したのはフィーネのほうだったのだろう。彼女はこちらを見るやいなや、ぱっと踵を返して逃げ出した。

「は?」

 そしてシンクの反応が遅れたのは、なにも考え事をしていたせいだけではない。彼女がいつもの団服姿ではなかったので、一瞬理解が追いつかなかったのだ。それに加えて、あの見事なまでの逃走っぷり。
 シンクは彼にしては珍しく、考えるより先にフィーネを追いかけていた。

「ちょ、なんなのさ、一体」

 確かに話しかけるなとは言ったけれど、ここまであからさまに避けられるようなことはなかった。食堂で見かけることも、廊下ですれ違うこともあったし、今まではいたって普通にお互い素通りしてきたというのに。

「待ちなってば!」

 フィーネが逃げたのはきっと今の格好のせいなのだろう。そしてシンクが彼女に追いつくことができたのも、彼女が慣れない華奢な靴を履いていたせいだ。
 シンクが後ろから肩を掴むとフィーネは振り払おうとしたが、今度はその振り払おうとした腕をがっちり掴んで逃がさない。とうとう観念したらしいフィーネは足を止めて振り返ったが、それでもまだたったの一言も発しなかった。

「っ、なんなんだよ、人を見るなり急に逃げ出して」
「……」
「それにその格好……仮面舞踏会マスカレードにでも行くつもり?」

 そう、今日の彼女はなぜかドレスを着ていたのだ。いつもの黒を基調とした団服とは反対に、肩口にフリルのあしらわれた白いひざ丈のドレス。シンクが仮面舞踏会マスカレードと言ったのは、そんな姿をしていてもなお、彼女がいつもの仮面を外していなかったからだ。

「似合ってないよ、浮いてる」

 それも正しくは、仮面が、という話であった。けれども彼女がひたすらにだんまりを決め込んでいるものだから、ついつい腹の立ったシンクは棘のある口調になる。

「……」

 そして、それでも何も言わない彼女にまさか話しかけるなと言ったのを律儀に守っているのか? とようやく思い至ったところで、

「シンク響手、」

 フィーネの後ろからやってきた男に声をかけられた。

仮面舞踏会マスカレードなら、お前にも招待が必要だったか?」

(アッシュ……)

 血のように深い緋色の髪を靡かせた彼は、本物オリジナルのくせに、偽物レプリカに居場所を奪われた哀れな男だ。
 アッシュはつかつかと歩いてシンクとフィーネの間に割って入ると、そのまま無理矢理シンクの手を引きはがす。

「いくらお前がガキでも、女はもっと優しく扱うもんだ」
「……」
 
 シンクは仮面の下で、自分の頬がぴくぴくと引きつるのが分かった。ドレス姿を隠したいのか、フィーネがアッシュの後ろに逃げるように引っ込んだのも面白くなかった。

「……へぇ、さすがお貴族サマは言うことが違うねぇ。燃えカスになっても、本物の矜持は持ってるってワケだ」
「お前……」

 シンクはアッシュの過去を計画の一部として知っているけれど、アッシュはシンクの素性を知らない。せいぜい次の第五の後任は賛同者だと、そう聞いていたくらいに違いない。
 予想通り、シンクの言葉にみるみる顔色を変えたアッシュを見て、ようやくシンクはいつもの調子を取り戻せたような気がした。

「はは、せっかくの貴族ごっこに水を差して悪かったね。生憎だけどボクにそんな高潔な血は流れてないからさぁ、招待は遠慮させてもらうよ。二人だけでやってれば」

 相手の最も痛いところを突いて、抉って、嗤ってやる。だが、そうやって一方的にシンクがアッシュを甚振れるのも、シンクの側にだけ情報があるからだ。
 その瞳でこちらを射殺さんばかりの怒りを露わにしたアッシュが、佩いた剣の柄に手をかける。シンクは当然身構えた。やれるものならやってみなよとすら思っていて、挑発した側のくせになぜか本気で頭に来ていた。が、

「師団長、」

 それを制したのは他でもない。ここまで一言も口を開かなかったフィーネだった。

「もう行きましょう。相手にしないほうがいいです」
「!?」

 そう言ったフィーネは後ろからアッシュの利き手の肘を掴み、剣を抜かせないようにしている。けれどもそんなことにはもはや気が回らないほど、シンクは頭から冷水を浴びせられた気分で立ち尽くしていた。

「だが……」
「騒ぎになります」

 フィーネが重ねて言えば、アッシュはゆっくりと柄にかけた手を下ろした。彼女はすかさずその手首をとると、アッシュを引っ張るようにしてシンクの真横を通った。
 通って、通り過ぎて、こちらを見ることもなかった。

「……」

 人はあまりに衝撃を受けると、思考どころか身体さえもぴたりと動きを止めてしまうものらしい。どのくらいの時間そうやって突っ立っていたのかは自分でもわからなかったけれど、シンクがようやく振り返ったときにはもう、廊下には誰もいなかった。


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