アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


50.なんかイヤ(51/151)

 たぶん、あれは本心じゃない。こちらが空気を読めず、追いすがってしまったのがいけなかったのだ。元マルクト軍出身だという噂は勝手にわいて出たものでもないだろうし、シンクがその設定で行くことで話がついているのだとすれば、人前で気安く話しかけたフィーネのほうが悪いだろう。もはや言われたことを額面通り受け取るほど、シンクのことを知らないわけでもないはずだ。

(だけど、あれは正直かなり……)

 やはり頭で状況を理解することと、心が受け流せるかどうかは別の問題である。突き放すにしたってもう少しやりようがあるのではないかと思うと、実は本音だったりするのかもしれないなんて嫌な考えが心を支配して、フィーネはあれ以来落ち込んだ気分で日々を過ごしていた。
 もちろん訓練場で見かけても、廊下ですれ違っても、もうシンクに声をかけたりなどしていない。話題の人物であるため、彼の言動は噂として嫌でも耳に入ってきたが、フィーネはなるべく心のスイッチを切って聞いていた。それはまるで他人の預言スコアの話を聞き流していた頃のような気分で、フィーネはそうやって上っ面だけで振舞うのが得意だった。

(得意だった、はずなのに……)

 日中はまだいい。仕事を終えて自室に戻ると、余計にシンクの不在が身に染みた。昇進して、初めて個人の部屋を与えられたときはようやく心が休まる思いだったのに、今は自分しかいない部屋がやけに殺風景に感じる。そもそも自分はこれまで、部屋で何をして過ごしていたのだろうか。読書なんて前はしていなかった。食事も、一人であればそんな時間はかからない。仕事中はそれこそ第六の部下たちとも話していたけれど、わざわざ部屋にまで招き入れることはなかった。強いて言えばイオンがときどきやってきては、好き勝手に愚痴をこぼしていたくらいだろうか。

「なんかイヤだな……」

 胸の中のモヤモヤがうまく言葉にできない。何度思い返してもシンクの態度は酷かったと思うものの、腹が立つのとはまたちょっと違う気がする。
 既に背面を起こし、座る用途へと戻ったソファーに、フィーネはぽつねんと腰を下ろしていた。自分一人であればこれも要らない。座る場所なら他に書きもの机も一応あるし、なんならベッドだけでも十分だ。

「いっそ捨てようかな」

 半分は本気で呟いた。フィーネが後生大事に残しておいたとしてもどうせイオンはくだらない感傷だと馬鹿にするだろうし、シンクもシンクで自室ができた今、ここで寝泊まりするようなこともないだろう。別に積極的に捨てたいわけではなかったが、何もしないでいるのは落ち着かなかった。せめて何か行動を起こせば、気持ちもちょっとは切り替えられるかもしれない。
 フィーネがそんなどうしようもないことを考えて現実逃避していると、不意にコンコンと扉をノックする音が聞こえた。

「え、」

 咄嗟に立ち上がったはいいが、真っ先に自分の耳を疑う。あまりに都合とタイミングが良すぎて幻聴の可能性があったのに加え、ノックというごく当たり前の行為がとても意外だったからだ。勝手に合鍵まで作って侵入していたイオンは元々ノックなんてしないし、第一今はもう自由に教団内を歩ける状況でもない。一緒に暮らしていたのだから当たり前だが、シンクも普段いちいちノックなんてすることはなかった。フィーネが困惑して固まっていると、再度ノックが繰り返される。これで幻聴の線は消えたため、フィーネはようやく扉のほうへ向かった。あと訪ねてくる可能性があるのは、アリエッタかアニスか、リグレットくらいだろうか。もしも最後の彼女であれば、イオンについての良くない知らせである可能性もぐっと高まる。
 フィーネは仮面をつけると、緊張しながら扉を開いた。

「……よかった、アリエッタだ」
「?」
「いや、ごめん。なんでもない」

 開けていきなり安堵するフィーネを、アリエッタが不思議に思うのも無理はないだろう。だが訳を話すわけにもいかず、フィーネは曖昧にほほ笑む。

「それより、どうしたの?」

 相変わらずアニスのことは許せないらしいが、最近のアリエッタは第三の仕事に忙しいようで、イオンをめぐっての目立った行動は起こしていなかった。フィーネもフィーネで特務の仕事やらシンクの件に忙殺されていたのと、アリエッタへの後ろめたさもあってなかなか時間をとって話す機会がなかった。

「あのね……フィーネ、今時間ある?」
「うん、大丈夫だよ」
「じゃあ、一緒に来てほしい、です」
「いいよ」

 どこへだとか、何をしにだとか、特に説明もないままアリエッタは歩き出す。フィーネも部屋の戸締りだけして、彼女の隣に並んだ。特に仲が悪いわけでもないけれど、お互い口下手だからいつもこんな調子だ。三人で過ごしていた時もほとんどイオン一人が喋っていて、フィーネとアリエッタは相槌をうつくらい。それでも、黙って一緒にいるだけでも居心地はよかった。今もアリエッタと一緒に歩いているだけで、なんだかどうしようもなくほっとしてしまっている。
 そのまま特に質問することもなく彼女に連れていかれた先は、第三師団にだけ存在する魔物用の宿舎だった。


「もうすぐね、アリエッタの弟や妹が生まれるの」
「あぁ……それで。ママはもう帰っちゃってるんだ」

 だだっぴろい舎内にはライガ達が自由に歩き回っていたが、そこにひときわ大きいライガクイーンの姿はない。普段は母親としてアリエッタを支える彼女も、産前はどうしてもナーバスになるからだろう。加えて、いかにアリエッタと言えど生まれたばかりのライガと意思を通わせるのは難しく、教団内に置いておくにはリスクが高すぎる。そうでなくとも子供のライガは人肉を好むため、きちんと敵味方の分別がつくまで味を覚えさせないようにしなければならなかった。

「うん。でも……他の弟妹きょうだいたちが寂しがっちゃって」

 正直なところ、フィーネには細かくライガ一頭一頭の区別がついているわけではない。アリエッタのいう他の弟妹きょうだいとはおそらくその前の年に生まれた子供たちなのだろうが、ライガクイーンはシーズンごとに複数の卵を産むし、生まれた子たちも半年もすれば体つきはかなり立派なものになる。
 フィーネはきょろきょろと周囲を見回して、比較的まだ小さそうなライガを発見し、アリエッタのほうに向きなおった。

「えっと、じゃあ、私は遊んであげたらいいのかな?」

 ライガのじゃれあい。
 一応、それは人間にとっては結構命がけである。もちろんお互い敵意も殺意もないけれど、力の差がある以上、どうしても危険なことには変わりない。
 フィーネもその昔、アリエッタに初めてライガを紹介されたときは怖いと思った。向こうは遊んでいるつもりでも人間の身には洒落にならないこともあるし、特に遊んでいるうちに楽しくなってしまって、ついついやりすぎてしまうのは人間もライガも同じことなのだ。

「うん、フィーネが嫌じゃなかったら……」
「嫌じゃないよ。なんだか懐かしいなぁ。訓練の時は基本、大人のライガとしかやらないしね」

 ちょうど暇を持て余していたところだし、部屋に一人でいるよりはライガの子供たちに揉みくちゃされているほうが絶対に楽しい。
 フィーネがやる気を見せると、アリエッタは嬉しそうにはにかんだ。そして彼女は笑顔のまま、フィーネが予想もしていなかったことを口にした。

「よかった。最近、フィーネもずっと寂しそうにしてたから……」



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