アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


45.僕らの不変(46/151)

 音素フォニムの奔流はカースロットだけでなく、術者の被験者オリジナルまでも浄化してしまったのではないか。
 思わずシンクがそんなくだらないことを考えてしまうほど、次に迎えたウンディーネの日はごくごく平和なものだった。とはいえ、カースロットを解呪したことについて手放しで称賛されたわけではない。鋭い拳や蹴りが飛んでこなくなったわけでもないし、狙ってくる譜術の威力だってちっとも手加減はされていない。けれども、それらはあくまでどれも訓練の域を出ないものでしかなく、シンクは被験者オリジナルのあまりの変わりように心底気味の悪い思いをしていた。

「……一体全体なんだってのさ。アンタ、ほんとにもう明日にでも死ぬわけ?」

 元から煽りあい、憎しみを倍加させるような会話しかしてこなかった相手だ。被験者オリジナルのほうがろくに乗ってこないとなると、訓練中は自然とお互い無言になる。だが今日はもうお開きという段になって、とうとうシンクのほうが沈黙に耐えかねた。

「気持ち悪いんだよ、急にしおらしくなっちゃってさ」
「別に。いい加減、お前に飽きて興味が失せただけだよ」

 シンクの問いに、被験者オリジナルはさも面倒だと言わんばかりに眉をしかめる。必要以上になぶるような真似こそしなくても、どうやら性格の悪さは変わっていないらしい。
 シンクは彼の態度になぜか妙にホッとしてしまったものの、その回答自体には納得できず食い下がった。

「興味なんてないだろ。はじめから」
「まあね」
「……」
「でも、悪い意味の『ない』から、いい意味の『ない』になった」
「はぁ?」

 なんなんだそれは。
 言われた意味が理解できず、かといって被験者オリジナルの口調が嘲笑を目的としたものには聞こえなかったため、シンクは反応に困ってしまう。一方で被験者オリジナルはというと、戸惑うシンクをよそに勝手に話を進めた。

「お前さ、もうここには来なくていいよ。ヴァンには僕から言っておく。あのフォンスロットを自力で発見できたのなら、あとは自分でやれるだろ」
「もともとアンタからは、ロクに教わった覚えなんてないけどね」
「だったら尚更もういいだろ。僕は十分満足したんだ」

 あれだけ人をなぶっておいて、なんとまぁ勝手な言い草なのだろう。当然のようにシンクは怒りを覚えたが、それでもやっぱり急な被験者オリジナルの変化を呑み込めないでいる。あれだけ荒んだ目をしていた男が、憑き物が落ちたみたいに満足したと口にしたのだ。

「……なにそれ。あの世に行くぎりぎり前に、付け焼刃の悟りでも開いたつもり?」

 今日の被験者オリジナルはいつもみたいに痛烈な返しをしてこない。それでも流石に死の話ばかり当てこすられたのが気に障ったのか、彼は不愉快さを隠しもせず、うんざりしたように息を吐いた。

「あのさぁ……ほんっと、お前って性格が終わってるね」
「仕方ないでしょ、大元が終わってるんだからさ」
「残念だったね、七番目がいい反証だ。それはお前の悪い性質だよ、人のせいにするのはやめれば?」
「性格は環境にも影響されるはずだけどね」
「あっそ、だったらお前は僕のことも赦してくれるってわけ?」

 被験者オリジナルが歪んでしまったのは、預言スコアのせいだと言いたいのだろうか。それについてはシンクだって、完全に否定するつもりはない。が、

「赦すわけないだろ」

 シンクは自分と同じ顔を睨みつけて、きっぱりと言い切った。自分達の関係には憎悪さえあればよくて、同情も、和解も、懺悔も必要がない。こんな空っぽの生を押し付けられたことを恨んではいるが、造った本人に『出来』ではなく『存在自体』を過ちだと認められたら、いよいよもってシンクの立場がないではないか。

「赦して赦されての美談がやりたいなら他を当たってくれる? だいたい、アンタだって別に赦されたいと思ってないはずだ」

 シンクがそう続けると、被験者オリジナルは悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑った。

「うん、そうだよ。お前が僕を赦すかどうかなんてどうだっていい。そんなことを気にするくらいなら、初めからレプリカなんか作ったりするもんか」
「フン、だろうね」
「僕はただ、お前がお人好しのフィーネに感化されて気色悪い態度を取ったら、盛大に笑ってやろうと思っただけだよ」
「……」

 被験者オリジナルは最低な胸の内を明かすと、くるりとシンクに背を向けた。

「だから、せいぜい好きなだけ憎めよ、劣化品」

 そう言って訓練室を去って行こうとする彼に、シンクもまた背を向けた。

「言われるまでもないね、『元』導師サマ」

 二人の行先は異なっているため、互いに反対の位置の扉から出ていく。シンクは地上に続く道を、被験者オリジナルは地下の自室に戻るための道を。だが、

「シンク」

 数歩も行かないうちに名前を呼ばれて、シンクはぎょっとした。今まで番号で呼ばれたりガラクタと言われたり散々だったが、こうして名前をきちんと呼ばれたのは初めてのことだ。
 訝りながらも振り返ってみると、ドアノブに手をかけた状態の被験者オリジナルがこちらを見ている。

「お前はフィーネを泣かせるなよ」
「……」

 被験者オリジナルは最後にそれだけ言って、シンクの反応も待たずに出て行った。まるでフィーネを託すみたいな言葉に聞こえて驚いたし、一方で自分のことを棚に上げた説教のようにも感じられて苛立ちが湧いた。

「……そっちは泣いてもらえる前提ってのが、またムカつくんだよね」

 この世界に生を受けて間もないシンクには、まだまだうまく言い表せない感情が山のようにある。だから確実にわかったことと言えば、やっぱり被験者オリジナルなんて大嫌いだということだけだった。


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