アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


42.限られた時間の中で(43/151)

「へぇ、それじゃさぞかし可哀想だって慰めてやったんだろうね。可愛いペットが傷つけられて、フィーネも腹を立てたかい?」
「シンクはペットなんかじゃない。本当に……本当にそんな酷いことを言うためだけに私を呼んだの?」
「そうだよ。フィーネがどうしても愛玩用が欲しいって言うなら、トクベツに八番目を作ってあげようか?」
「っ、イオン!」

 なんてことを言うのだろうか。
 フィーネは来た時の不安や悲しみが吹き飛ぶ勢いで、椅子から立ち上がった。それでも前のように頬を張らなかったのは、やはり目の前の彼が病気の身だというのが頭のどこかに残っていたからだろう。

「ふぅん、立ち上がるだけ? 優しいんだね。それとも殴る価値もないってだけか」
「……」

 煽るような物言いは昔からよく聞いたが、今回のは流石に性質タチが悪い。
 フィーネはぐらぐらと腹の中で煮え立つ感情を押し込めるように、深く息を吐いて座り直した。来たときは別の意味で、泣きたくてしょうがなかった。

「私の知ってるイオンは、そこまで腐った人間じゃなかった」
「……買い被りだね。フィーネが知らなかっただけさ」
「……」
「それを言うなら僕の知ってるフィーネだって、他人に肩入れしてくだらない感傷を覚える人間じゃなかったよ」

 この期に及んで何を責められているのか、フィーネはちっとも呑み込めなかった。ただ謝る気も起きないくらい、理不尽だとは感じていた。

「一体、どうしたっていうの? つらいの? 苦しいの? それで私に当たってるの?」

 そうだとしたら、フィーネは我慢しないといけないのだろうか。当人が感じるそれとは比べ物にならないとしても、フィーネだって多少は彼の絶望をわかっているつもりだ。だからある程度は仕方ないことだと思っていたけれど、それにしても“八番目”は酷すぎる。

「聞くから、ちゃんと話してよ……お願い」

 導師という肩書きへの愚痴みたいに、聞くだけで終わらせるつもりはない。二人に残された時間はそう多くないのだから、聞いてちゃんと向き合いたい。
 フィーネが言うと、イオンはまた苦り切った表情になった。
 それでも重い沈黙のあと、意を決したように彼は口を開いた。本音を言えば、フィーネも何を言われるのか恐ろしくてたまらなかった。

「……フィーネが、六番目を贔屓してるせいだって言ったら、どうする……?」

 俯いたイオンの表情は、影になっていてよく見えない。

「贔屓なんて、」
「してるだろ、フィーネはアイツのことならムキになるじゃないか。僕のほうがフィーネとの付き合いは長いのに。現在進行形で地獄を味わってるのは、僕だって同じなのにさ」

 吐き捨てるように言った彼の声には、強い非難が込められていた。いつもの露悪的な態度ではなく、本当にむき出しの感情であるとわかるそれ。
 そんなイオンは、フィーネの知る限りとても珍しいものだった。いつも大人顔負けの弁舌を振るう彼が、贔屓するしないなんて子供っぽいことを言うのも意外でしかなかった。
 
「……イオン。何度も言うけど、私の幼馴染はイオン一人なの。それはレプリカが何人いたって変わらない。これまで一緒に過ごしてきたのはイオンなんだから、比べること自体間違ってるよ」
「だったらなんでアイツばっかり……。レプリカに同情してるっていうなら七番目だって同じだけど、そこにだって差があるよね。今までフィーネは、誰に対しても深入りしないで公平だったじゃないか」

 確かにそれについてはフィーネ自身も自覚していることではある。イオン様は友達だし彼の境遇を理解しているけれど、常にフィーネが気にかけているのは間違いなくシンクのほうだ。理由をつけようとすれば、指導している立場で責任があるからとか、イオン様にはアニスがいるからとか、誤魔化すことは簡単だった。簡単だったが、フィーネはあえてそうしなかった。

「あのね……もし私がシンクを贔屓しているように見えるのだとしたら、ひとつだけ思い当たることがあるよ」

 限られた時間のなかで、フィーネに今できること。
 それはいつもみたいに話をうやむやにしてしまわないで、イオンに対して本音でぶつかるということだろう。そしてそれは、フィーネが自分の本当の気持ちと向き合うことでもある。
 
「……私とシンクはね、選ばれなかった側なんだよ」

 覚悟を決めたつもりだったのに、いざ言葉にしてみるとずきりと胸が痛んだ。

「重い役割も熱い期待も背負ってないけど、その分価値も何もなくて、棄てられた側なの」
「なにそれ……同情? いや、共感してるとでも言うわけ?」
「そう、なんだと思う。自分でもこんな感情があるなんて知らなかったけど、取り繕ったりしないで憎いものは憎いって言うシンクにちょっと救われてた部分もある。私はずっと何も感じないふりをしてきたから……」

 きっとその態度こそが、イオンの言う『深入りしないで公平』というやつだったのだろう。公平と言えば聞こえはいいが、ただ上っ面で生きてきただけだ。
 これまでフィーネが良しとしてきた振る舞い以外に、シンクは新しい選択肢を――新しい感情に気づくきっかけを与えてくれたと思っていた。

「イオンがね、導師の立場を望んでいないことは十分にわかってたつもりだった。だけどイオンがどんなに愚痴をこぼしたって、結局は選ばれた側の贅沢な不満だって心のどこかで思ってしまっていた。七番目のイオン様だって望んでそうなったわけじゃないとわかってるのに、やっぱりどうしても選ばれた側だって見てしまうことがある」
「……」

 広い意味ではみんな預言スコアの被害者だけれど、それでもやっぱり同じじゃない。イオンは共感してほしかったみたいだが、フィーネからするとどうしても無視できない違いがあった。

「……喧嘩になりたくなくてずっと言わなかった。喧嘩になったら、イオンが私から離れてしまうかもって思ってずっと我慢してた。けど、本当はイオンに『選ばれなかった』って言われる度に、私、傷ついてたみたいなの」

 心の底から真剣に向き合ったつもりだけれど、イオンには恨み言に聞こえてしまっただろうか。俯いたまま話を聞いていた彼は、やがてぽつりと呟くように質問をする。かすれて、今にも消え入りそうな声だった。

「……僕を憎んでた? 今になってそう気づいたの?」
「いや……正確には違う。私が選ばれなかったのは、別にイオンのせいじゃないし。羨ましいって言ったほうがいいのかも」
「……」
「今更こんなこと言って、ごめん……」

 ようやくフィーネがいつものように謝ったからか、イオンは何かを堪えるように天を仰ぐと、本当だよと泣き笑いを浮かべた。「フィーネのほうが、よっぽど酷い」ずっと騙していたようなものだから、そう言われても仕方がない気はする。ただ、勘違いはしてほしくなかった。

「でもね、イオンのことが大事だって気持ちも嘘じゃないの。私なんかにずっと根気よく関わろうとしてくれて、本当に感謝してる。イオンがいてくれたから、私はひとりぼっちじゃなかったよ」
「……僕は、ちゃんとフィーネの特別になれていた?」
「うん。特別で、大事で、失うのが怖いから、ぶつかるのを避けてたんだ。でもそうやって逃げてばかりで、私はずっとイオンに向き合えていなかった。本当にごめんね……」

 謝るのは得意なはずだったのに、ここまで伝えるのにかなり遠回りをしてしまった。自分の中でわだかまりがあったから、イオンが大事だということも今まできちんと伝えられていなかった。

「そう……そっか……」

 呟きとともにぽたぽたと、イオンの固く握りしめられた拳の上に雫が落ちる。

「だったらいい。こんな反吐が出そうな人生でも、誰かが僕に対等に向き合ってくれたのなら……」

 イオンは拭いもしないで、ただ涙を流れるままにさせていた。彼がそうやって泣くのを見たのは、長い付き合いの中で初めてのことだった。

「フィーネ、僕も今までごめん……。僕はフィーネにも預言スコアを憎んで欲しかっただけだった。フィーネの関心を引きたかっただけだった。でも、そのせいで……ずっとフィーネを傷つけてた」
「うん……いいよ。全部わかったから。わかるように、なったから」

 他人の気持ちを理解するのに、必要なのはまず自分を知ることだった。そもそも自分が知らない感情は、どうやったって他人からくみ取れるわけがない。

「やっぱりフィーネは変わったよ。ホント、ムカつく……生意気だよ」

 飽きもせず悪態をついたわりには、どこか吹っ切れたような清々しい口調で。
 こちらを見たイオンは、穏やかながらも真剣な表情をしていた。

「たぶんね、僕が死ぬとき、フィーネに連絡はいかない。知るのはすべて終わってからになると思う」
「……」
「アリエッタに言うのは絶対に許さないけどさ、それでも……僕が死んだって聞いたら、フィーネだけでもちゃんと泣いてくれる?」

 そんな当たり前のこと、言うまでもない。うん、うん、とフィーネは深く頷いた。

「今だって、泣いてるよ……」

 ぎりぎりまで目の淵に溜まっていた涙が、とうとう決壊して溢れ出す。一番つらいはずのイオンが泣かなかったから、フィーネもずっと泣くのを我慢していたのだ。

「まだ早いよ。勝手に殺さないでくれる?」
「だって……」

 止めようにも止め方がわからない。拭っても拭っても全然追いつかない。
 いよいよ本格的に泣き出したフィーネを見て、イオンは呆れたように笑う。そのくせ、笑った彼もまた、同じようにとめどない涙を流していたのだった。


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