アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


40.そしてできること(41/151)

 皮膚の深い所にまで達した火傷は、逆に痛みを感じないものらしい。
 そういう意味では、シンクの腕の火傷は水ぶくれこそできているもののそう酷い状態ではなく、フィーネは過剰に心配しすぎなのだと思う。シンクの立場を忘れて、騎士団の医者に診せると言いだした時は流石に断ったが、それでもどうにかして軟膏やら創傷被覆材を手に入れてくるあたり、相変わらずの人の好さだなと呆れてしまった。本人にも直接言いはしたけれど、彼女が責任を感じる必要などどこにもないのだ。

 とはいえ、シンクが珍しくフィーネのやりたいようにさせていたのは、やはり少しは罪悪感を覚えているからである。嗜虐趣味でもない限り、他人を火で炙るだなんておぞましい行為でしかないだろうし、暴走している間の記憶はほとんどないものの、それだって決して見ていて楽しい光景ではなかっただろう。フィーネが言った通り、彼女に対して酷い頼み事をした自覚はある。だから大人しく手当てされているのは、シンクなりのちょっとした罪滅ぼしでもあった。

(いや、それだけじゃないな……)

 寝る前に見せてと言われて、ベッドに腰を下ろしたシンクは黙って腕を突きだした。フィーネはくるくると包帯をほどき、患部に貼られた半透明のシートの上から火傷の様子を確認する。

「どう? 痛みはある?」

 フィーネの話では、炎症を起こしたり、水ぶくれが破れるようなことがなければこのまましばらく張りっぱなしにするのがよいとのことで、こうして空気に触れさせないようにしていると比較的痛みは少ない。そうっと気づかわしげに触れる彼女の手に落ち着かない気分になって、シンクはもう十分だろうとばかりにさっと腕を引っ込めた。
 
「別に。こんなの、放っておけば治る」

 毎日確認したところでそう劇的に変化があるものではないし、痛みについては本当にやせ我慢をしているわけでもない。ただ、フィーネが心配をすればするほど、自分の中でだんだん罪滅ぼし以外の感情が形をとり始める気がして混乱した。
 跡が残ったほうが面白い、なんてうっかり口を滑らせてしまったのもそのせいだ。

「駄目だよ、ちゃんとしなくちゃ。本当は総長に相談して、シンクも診てもらえるお医者さんを手配してもらいたいくらいなのに」
「馬鹿言わないでよね。ヴァンがボクにそこまでする義理はないよ」
「あるよ」

 少しムッとした口調になったフィーネは、きっとヴァンには生み出した責任があると言いたいのだろう。だが、人間の親でもろくに責任を果たさない奴もいる。言えば傷つけるだろうが、フィーネ自身が被害者としてのいい例だ。

「無いね。アンタがトクベツ責任感じやすいお人好しってだけでしょ」

 それはフィーネの美点だったが、シンクはつい、彼女のそういう部分に付けこみたくなってしまう。火傷の跡が残ればきっと、それはフィーネの心の中で大きなしこりになるだろう。
 シンクは自分の中の薄暗い喜悦から目を背けるように、テーブルの上に置かれた紙に視線をやった。
 彼女が一生懸命書き写した、カースロットの特殊な模様。連鎖的に被験者オリジナルのことが思い出されて、それから被験者オリジナルを褒めるフィーネの言葉も蘇る。

「……それにしても、アンタも報われないよね」

 フィーネはおそらく、被験者オリジナルに特別な感情を抱いているのだろう。改めて考えればそういう理由でもない限り、いくら幼馴染の最期の頼みだとはいえこんな無茶苦茶な計画に加担するわけがなかった。ヴァンの話では預言スコアを滅ぼした先にある世界に人間は存在しない。それはすなわちフィーネも死ぬということで、彼女は被験者オリジナルのためになら死ねるということだ。
 肝心の被験者オリジナルはといえば、フィーネではなく魔物使いの少女にばかり優しくしていたというのに。

「報われないって……私が描いたやつじゃ手掛かりにならなそう? あんまり綺麗に描いてる余裕もなくて」

 シンクの視線の先を追ったフィーネは、今の呟きをカースロットのことだと思ったらしい。無理もない話なのでシンクは特に訂正することなく、そのまま彼女に合わせた。

「問題ないよ。ボクの記憶にあるのも、だいたいこんな感じの図柄だった」

 紙を手元に引き寄せて、改めてその気味の悪い模様を見てみる。全体としては歪な音叉のような形。二股に分かれた付け根の部分に人の目のようなマークがあり、その虹彩はちょうど上方向を見つめているような塩梅だ。フィーネに絶対安静を言いつけられたシンクは、その間に色々文献を漁ってこの模様の手掛かりになりそうなものを探していたが、残念ながら今のところこれといった収穫はまだなかった。

「他に私に協力できることある? 野営ももうしなくていいって言うし……」
「実際、発動するには結構手間がかかるってわかったからね。アンタに出来ることはもう無いよ」

 状況が特殊だったと言うのもあるが、被験者オリジナルと比較的距離の近い尋問室でも苦労したくらいなのだ。初日に魘された日からシンクが精神的に安定したのか、はたまた単純に被験者オリジナルが弱っているのかはわからなかったが、もう普通にこの部屋で過ごすくらいでは我を失うことはないだろう。
 心配いらない、と言えば、フィーネはしばらく考えてから渋々という感じで頷いた。

「じゃあ、後はシンクが頑張って考えてね」
「……考える段になると、手伝うって言わないのがアンタらしいよね」
「だって頭使うのは得意じゃないし……」
「まぁこっちもハナから期待してないけど」

 本音を言えば頼んだ本を借りてきてくれるだけで助かっているし、ここ数日の彼女は午後も部屋を留守にしていて、シンクが一人で考えるための環境を整えてくれている。
 フィーネは他に出来ることがないとわかると、ほとんど身を投げるみたいに自分のベッドにぽすんと腰を下ろした。

「得意じゃないけど、勉強してみるのもいいかなって。一応、今日は自分で読むための本も借りて来たんだよ」

 見れば彼女の言う通り、ヘッドボードには二冊の本が積まれている。ここからでは何の本かはわからなかったが、シンクは息を吐くように揶揄した。

「へぇ、珍しい。料理の本ですらろくに読まなかったくせに」
「というわけで、おやすみ」
「?」
「そのまま寝ちゃいそうだから。先に言っとくね」

 シンクのからかいを意に介さず、大真面目な顔で本を手に取ったフィーネはそのままごろんとベッドに寝転がる。くつろいだ姿勢で本を読むのは悪いことではないが、寝てしまうのは体勢に問題があるのではないかと思った。

(ま、いいか……)

 彼女が読書をするというのなら、もうしばらくは灯りをつけていても構わないだろう。シンクもシンクで寝るのをやめにして、読みかけだった自分の本に手を伸ばす。
 その後はときおり紙をめくる音だけがするだけで、部屋の中はとても静かなものだった。


「……フィーネ?」

 いや、静かすぎるだろと思ったのは、それから十五分もしないうちだ。シンクは本から顔を上げ、彼女のほうを見る。案の定フィーネは本を開いたまま、物の見事に突っ伏していた。別にベッドの上の話なので彼女自体は放っておいても良かったが、本が借り物であることを考えると見過ごすのも良くない気がする。フィーネの扱いが雑なせいで、今後本が貸してもらえなくなるようなことになると困るのだ。

(面倒だなぁ……)

 シンクは立ち上がってフィーネに近づくと、そうっと抜き取るようにして本を救出する。そのときになってようやく彼女が何の本を読んでいたのかを知って、小さく嘆息を漏らした。
 
(できることはもう無いって言ったのに、馬鹿じゃないの)

 今更第七音素セブンスフォニムの本だなんていい物笑いの種でしかない。しかも、開かれていたページが治療術に関する内容だったから尚更。フィーネが起きていれば絶対に鼻で笑ってやったのにと思ったが、そんな思考とは裏腹に胸が苦しくなって、シンクはただ意味もなくページをめくることしかできなかった。

第七音素セブンスフォニム以外にも、他の音素やセフィロトの話まで……ほんとに教科書レベルの内容じゃないか」

 それこそ何も知らないレプリカが、この世界の仕組みを学ぶためにとりあえず読むような本だ。既に譜術を使えるフィーネにしてみたら、形だけの講釈ばかりで退屈のあまり眠くなってもおかしくはない。
 シンクはそう結論づけ、一気にページを進めたが、そこでたまたま目に飛び込んできたものにぴたりと手を止める。

「待てよ……この形……」

 そっくりそのままというわけではない。カースロットのことばかり考えているせいで、なんでも関係があるように見えてしまっているだけかもしれない。
 しかしながらシンクは本をフィーネの枕元に戻すことはせず、逸る気持ちを抑えながらテーブルに置かれたあの紙を取りに行ったのだった。

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