39.友達ならば(40/151)
訓練はしばらく中止。 それは元々フィーネから言い出したことだったが、まさかこんな形で無理に休養をとらせることになるとは思いもしなかった。拘束椅子のおかげでシンクが暴れだしても大きな被害はなかったけれど、それゆえ彼にできた唯一の傷は、フィーネが彼の腕に残した火傷のみ。
――これはボクが頼んだことなんだから、アンタは何も気にする必要ないだろ
(そうは言うけど……)
頭ではわかっていても、赤く爛れて水ぶくれのできた腕を見てしまうとなかなか割り切れるものではない。 フィーネが今度こそ、懇願に近い形で絶対安静を言いつけると、流石にシンクも文句は言わなかった。単にフィーネが写し取った模様を解析するのに忙しいだけかもしれないが、今は部屋で大人しくしている。火傷の手当てに関しても拒むことはなく、フィーネが包帯を巻くのを申し出ても素直に腕を出した。それはまるで、フィーネの気の済むようにさせておこうと言わんばかりの従順さだった。
(ああいう態度を取られたら、逆に怒るに怒れないじゃない……)
シンクも少しは酷い頼み事だったと罪悪感を抱いているのだろうか。それともフィーネが怒りづらいように、わざと殊勝に振舞っているのだろうか。仮面があってもなくても、その真意はわからない。 跡が残ったらどうしようと呟いたときだけ、シンクは別に構わないよと鼻で笑った。
――むしろその方がいいかもね ――なんでよ…… ――アンタが跡を見るたびに、浮かない顔になると思うと面白いからさ
このときのシンクの口調がいつもみたいに意地悪なものだったら、フィーネはきちんと怒っていただろう。けれどもわりと真面目なトーンで、どこか諦めた風にすら感じられる口調で言われて、フィーネは思わず戸惑ってしまった。 そして当のシンクですらも今のはらしくなかったと思ったのか、そのあと続けた言葉は大袈裟なくらい棘のある声音だった。
――……フン、面白がられるのが嫌なら、その辛気臭い顔をやめるんだね ――変なシンク……
せっかく最近距離が縮まったと思ったのに、やっぱり彼のことはちっともわからない。訓練しない分、空いた時間に一緒に部屋にいるのも気づまりで、ここ数日のフィーネは午後も特務師団に残ったり、図書室で時間を潰したりしていることが多かった。
フィーネは基本的に勉強よりも体を動かす方が好きだ。だから図書室なんて来ないでトレーニングをして過ごしても良かったのだが、今更のように手が伸びたのは、第七音素にまつわる研究が記された本だった。きっと素養もないし、今から治療士を目指すなんてありえない話だけれど、それでもつい目を引かれてしまった。
「こんにちは、フィーネ」 「あ、」
棚から手に取ってちょうどぱらぱらと中身をめくっていたフィーネは、咄嗟に本を閉じる。声の方へ視線をやれば、通路に立っていたのはイオン様とアニスだった。
「今日は公務は……」 「少し時間ができたもので。フィーネはお仕事中ですか?」
イオン様の言葉を受けてアニスに視線をやるが、彼女も頷いている。何かと忙しそうな彼だけれど、どうやら休憩中というのは本当のことらしい。
「私も今は手が空いていて」
フィーネがおずおずと答えると、それを聞いたイオン様は嬉しそうに笑った。
「そうなんですね、よかった。では少しお話できませんか? 先日、あなたが僕の元を訪ねてきてくださったと聞きました」 「あぁ……えっと、すみません」
とはいえ約束をしていたわけでも、ましてや大事な用があったわけでもない。友達になれたかもしれない彼らとの距離の詰め方がわからず、フィーネとしては駄目で元々くらいの感覚で訪ねてみただけだった。 「まったく、フィーネ奏手も来るときは来るって事前に言ってくださいよぅ。イオン様はお忙しいんですからね」 「ごめん。わざわざ時間を取ってもらうほどのことじゃないと思って」 「違う〜。こういうのは、わざわざ取るものなんですよ。そうじゃないとお仕事ばっかりになっちゃうんだから。ね、イオン様?」 「そうですね。今もアニスが休憩に連れ出してくれたおかげで、フィーネとも会えましたし」
確かに、やることが山のようにあれば、休みというのは意識しないとうまく取れないものかもしれない。そのあたりアニスはしっかりとイオン様をサポートしているらしく、イオン様のほうも彼女を頼れているようだった。 「なんかフィーネ奏手もほっとくと仕事ばっかしてそうですよね。仕事っていうか、訓練? 脳みそ筋肉でできてるって言われても笑ってたくらいだしぃ〜」 「やだな、アニス。まだ合同訓練のこと根に持ってるの?」 「当たり前です! あんなのでアリエッタと仲良くなれるの、フィーネ奏手くらいですよ!」
アニスは語気を強めたが、あれはあれで意味があったとフィーネは思っている。少なくともアリエッタと後で話した感じでは、彼女もアニスの守護役としての実力だけは認めたようだった。それはそれとして、アニスがイオンの傍にいることは相変わらず許せないようだったけれども。
「アニス、なるべくアリエッタには優しくしてあげてくださいね」 「ええ!? イオン様、アリエッタの味方するんですか?」 「そういうわけではありませんが……彼女も色々複雑でしょうから」
事情を知る者にとっては、本当にそうとしか言いようがない。ただ何も知らないアニスにしてみれば納得できないだろうなと思っていたところ、意外にも彼女は勢いを失くした。
「まぁ……あの子が異動になったことに私もまったく無関係ってわけじゃないし……」 「?」 「ううん、なんでもありません! それより、図書室で騒いでたら怒られますから、お部屋に戻りましょう。フィーネ奏手も時間あるんですよね?」 「え、うん」
アニスに促されるまま歩き出して、途中で本を持ったままだったことに気づいた。今更こんなものを読んだって、どうにもならないことはわかっている。まずそもそもの話、理解できるかもわからない。しかしながら急いで戻してこようか、と逡巡したフィーネの背中を押したのは、ちゃんと手続きしないと駄目ですよ! というアニスの一声だった。
△▼
導師本人とその守護役がいれば、その私室に入るのは少しも難しいことではない。ようやく腰を落ち着けた三人は、紅茶を片手に一息ついていた。
「フィーネも読書が好きなんですね」
そう言ったイオン様の視線は、フィーネの膝の上に向けられている。勢いで借りてしまった本なだけにテーブルの上に置くのも憚られて、フィーネは既にそれを持て余していたのだった。
「いや、そんなことは……むしろどちらかといえば苦手なほうです」 「そうなのですか? あなたと会うのはいつも図書室だったので、てっきり好きなのかと」 「すみません。私が読んでるんじゃなくて、人に頼まれて……」 「……え? でも、第七音素の本を、今更ですか?」
それはまさにフィーネ自身が思っていたことなだけに、一瞬ぐさりと胸に刺さる。だがイオン様の反応を見て、すぐに早とちりだとわかった。おそらく彼は、フィーネが病床のイオンに頼まれて、図書室に通っていたと勘違いしたのだろう。 イオン様はシンクのことを知らないのだ。伝えていいのかもわからなかったし、仮に伝えたとしても他の同胞の扱いに心を痛め、無駄に罪悪感を感じるだけだろう。 フィーネは本の背表紙を掴んで、ぎゅっと自分のほうへ引き寄せた。
「これは……自分用なんです。私も影響されて、ちょっと勉強しようかなって」 「そうだったんですね。ぜひ頑張ってください」 「でも、ちょっとこれはいきなり本格的過ぎたかもなぁって……ほんとに軽く知れたらなって思っただけなので……」 「でしたら、僕の本をお貸ししましょうか?」
随分とあっさり言われて、いいんですか? とフィーネは戸惑う。確かに、イオン様なら第七音素に関する書籍をたくさん持っていそうではあるが、借りてしまってもいいのだろうか。
「もちろんお貸しできない物もありますが、基本的な教科書のようなものであれば」 「ありがとうございます、むしろそういうのが欲しいです」
イオン様がフィーネに差し出してくれたのは、図書室で借りた本より厚みが控え目である。読書が苦手なフィーネにとってはこちらもなかなかのように思ったが、それでも彼が勧めてくれた本なら信頼できるというものだろう。
「よかったですね、フィーネ奏手。それにしても、フィーネ奏手も第七音素を使えるんですか?」 「その……使えるような、使えないような……」 「いや、どっちなんですか」 「まぁまぁ。学ぶこと自体は悪いことではありませんから」
イオンが取りなしてくれたおかげで、フィーネはアニスの追及を逃れることができた。ように思ったが、どうやらアニスの興味がそもそも別の所にあっただけらしい。 彼女はふーん、と頬杖をつくと、今度は意味ありげにニヤニヤと笑った。
「で、そのフィーネ奏手に影響を与えてるのって、やっぱカレシさんなんですか〜?」 「っ、またその話? だから違うよ。誤解だってば」 「アニス、あまり人のプライベートを詮索するのは感心しませんね」 「でもでもぉ、イオン様も気になりませんか? 私たち友達なんだし、教えてくれたっていいのに〜」 「友達なら尚更、相手の嫌がることをするものではありませんよ」 「ちぇ〜」 「すみません、フィーネ」
やや気づかわし気にイオン様がこちらを見たが、フィーネは彼らの口から出た『友達』という言葉にじーんときてしまって、もはや『カレシ』などという単語はどうでもよくなっていた。 「いえ、いいんです。その、ありがとうございます」 「?」 「……友達だって言ってもらえたの、嬉しくて」 「ほぇ!? ちょっと待って。フィーネ奏手、そこからなの?」
フィーネがまだ感動に浸りながらぼそっと言うと、アニスは丸い目をさらに丸くさせて驚いた顔になる。それからすぐさま呆れたように半眼になって、こりゃほんとにカレシの話は誤解っぽいわ……と呟いた。
「だってアニスは私のこと、ずっと階級つけて呼んでたから……」 「そりゃまぁ一応、私にだって体裁ってモンがありますからね」 「……アリエッタやディストは呼び捨てしてたのに」 「アリエッタは見た目がアレでしょ、中身も年上に思えないからいいの! ディストは変人だし、だいたいディスト希望の呼び方してたら薔薇のってつけなきゃなんなくなるんだもん!」 「……」 「……うう、無言の圧力かけないでくださいよ。わ、わかりました。フィーネって呼んでもいいんですか?」 「うん。そっちがいい。敬語も要らないよ」
やった。やっと言えた。 フィーネは口元が緩むのを感じて、にやけないよう努めてぎゅっと引き締める。 先ほどからニコニコとこちらを見守っていたイオン様も、笑顔のまま口を開いた。
「では僕のことも――」 「流石にイオン様は駄目です。私、クビになっちゃいますから!」 「それは……僕としても困りますね」
間髪入れずアニスに却下されていて少し可哀想に思ったが、流石にフィーネも表立って導師を呼び捨てにするのは気が引ける。なにより、彼を『イオン』と呼ぶには抵抗があった。他の名前ならまだ呼べたかもしれないが、生憎選ばれてしまった彼を指す言葉は『イオン』か『七番目』という番号しかない。 フィーネはなんとか慰めようとして、少し前のめりになった。
「イオン様、あの……敬語使ったり様付けしてますけど、別に私たちイオン様のこと全然敬ってませんから……」
そうして勢いのまま言ってしまってから、あれ? これってまずくないか? と自分で思った。
「ちょ、ちょっとフィーネってば、なんてこと言ってくれちゃってんの!?」
(またやらかした、考えないで喋っちゃった……!)
フィーネは弁明のために口を開こうとしたが、肝心な時にはうまく言葉が出てこない。どうしようと内心焦っていると、今の今までぽかんとしていたイオン様がぱっと晴れやかに破顔した。
「ふふっ、あはははは!」 「……す、すみません!」 「いえ、嬉しいです。そのまま敬わないでください」 「?」 「ったく、イオン様もフィーネも天然っていうか変わってるっていうか……」
イオン様がなおも笑い続けて、アニスが脱力したようにテーブルに突っ伏す。 フィーネはまだ少し事態が呑み込めないでいたけれど、二人の様子を見て大事にはいたらなかったみたいだと、一人胸を撫でおろしたのだった。
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mokuji
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