アンチ・アンチナタリズム
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35.わるい学習(36/151)

 まさに『雨降って、地固まる』とでも言うべきなのだろうか。
 一度派手に喧嘩をして以来、シンクがフィーネにむやみやたらと突っかかってくることが無くなっていた。もちろん、皮肉屋な性格自体はそのままのため、慣れていない者にとってはキツい物言いであることに変わりはないが、説明も無しに機嫌が悪く、何を言っても怒らせるだけという手詰まりの状況は確実に無くなっていた。
 一体、あの喧嘩でシンクにどんな心境の変化があったというのだろう。正直なところフィーネにはまったく理解できなかったので、まるで殴って言うことを聞かせたみたいだな、とほんの少し罪悪感を覚えてもいた。

 それでもやっぱり人間関係というのは、悪いよりは良いに越したことがない。毎夜の野営にも慣れてきて、シンクもすっかり手際よくテントを立てられるようになった。火起こしも時間をかけずに行えるし、料理も一緒にやってみて、器用なくせに意外とセンスがないんだなという発見もあった。
 譜術や格闘の訓練についても、どちらも着実に進歩してきている。シンクはやや完璧主義的なきらいがあったけれど、指導しているフィーネとしては十分な結果だと思っていた。素直に喜んだりはしないものの、褒めてもご機嫌取りだとヘソを曲げられることもない。決まりの悪い思いをさせるだろうから言わなかったが、こっそり響律符キャパシティコアをつけてくれているのも見た。
 たった一度の喧嘩で、嘘みたいに全てが順調だった。だからフィーネはついつい、油断をしていたのだと思う。


 シンクがいない、ウンディーネの日。
 午後もそのまま師団の部下達と過ごして逆に色々なことを教わり、気づいたときには結構時間が経っていた。一応、シンクには朝から今日こそは歓迎会があるのだと伝えていたけれど、テントや食材の都合もあるし、一度部屋に戻る必要がある。
 フィーネが部下たちに断りを入れて戻ると、自室にはきちんと鍵がかかっていた。けれども時間的には、シンクはとっくに訓練を終えて帰っていることだろう。果たしてフィーネの予想通り、彼は既に部屋の中にいた。おかしいと思ったのは、もうすっかり暗くなりかけているのに部屋の明かりもつけないでいたからだ。

「……シンク?」

 部屋の主が不在のはずなのに明かりが漏れていたらおかしいから、なんてことは気にする必要がない。この辺りはもともと滅多に人が来ないのだし、実際にシンクの姿を見られさえしなければ、誰かがいるということ自体はフィーネのプライベートな問題である。
 フィーネが不審に思いながら明かりをつけると、シンクはすぐに見つかった。彼は、彼の寝床であるソファーベッドに横になって、頭からすっぽりシーツを被っていた。

「どうしたの?」

 まるで、異動初日の、歓迎会が開かれずに凹んでいた時のフィーネみたいだ。
 機嫌が悪いだけならともかくも、シンクがそんなあからさまな行動をしたのは初めてのことで、フィーネは戸惑いながらシーツの塊に近づいていく。こういう時はそっとしておくべきか、事情だけでも聞いた方がいいのだろうか。いざ逆の立場になってみると、正解の行動がわからない。

「シンク、寝てるの?」

 そんなわけはないだろうとは思いつつ、声だけかけてからそっとめくろうとすれば、ばっと手だけが中から飛び出してきてフィーネの腕を掴んだ。

「……起きてるよ」
「そう……」
「……」
「何かあったの?」

 シンクに入るウンディーネの日の予定は、きっと何か特殊な訓練なのだろう。イオン様も普通に導師として過ごすようになって手が離れたため、総長あたりが特別に時間を割いて指導しているのかもしれない。
 フィーネはシンクが答えるのをただじっと待った。話せない込み入った事情があるのかもしれないが、それならそれで彼の口から話せないのだと聞きたかった。

「……大したことじゃない。ただちょっと疲れて、微睡んでただけだから」
「わざわざ頭からシーツを被って?」
「……」

 前みたいに関係ない、と突っぱねられなかったのは、確かに大きな進歩だろう。だが、フィーネはその返事では満足できなかった。フィーネの感情には平気で踏み込んでくるくせに、なんだかとても水臭いと思った。最近仲良くやれていただけに、余計にそう思ってしまう。

「……ボクがどんな寝方をしようと勝手だろ。それにアンタ、今日は歓迎会だって言ってなかった? 早く行きなよ」
「行けないよ。シンクの様子がおかしいのに」
「だから……気を使わなくていいってば。そういうのやめてって言ったよね?」
「気を使ってるとかそういうのじゃなくて、私はただ心配して……」

 あぁ、駄目だ。また前みたいなことを繰り返している気がする。言ってしまってから、きっとシンクにとっては煩わしいだけなんだろうなと後悔したが、彼は意外にも落ち着いていた。
 怒りの滲んだ拒絶の代わりに、はぁ、と深いため息が聞こえてくる。

「しつこいなぁ……」

 シンクは最後にそれだけ呟くと、観念したのかシーツから顔を出した。部屋にいるのだから当然仮面はつけていなかったけれど、その顔を見て、フィーネはあっと声をあげる。

「な、なにそれ! 酷いあざ……」

 訓練をしていれば、嫌でも多少は怪我をすることはある。だが、シンクの左目の周りは青紫に腫れあがり、口の端は切れていて、どうみてもただの訓練の域を超えていた。

「……はいはい、だから見せたくなかったんだよ」
「見せたくないって……部屋でずっと仮面をしてたらどのみち怪しむよ」
「別に今日だけでよかったんだ。怪我を見たアンタが、歓迎会に行かないなんて言いださなきゃそれで」
「……」

 それじゃあ、気を使っていたのはシンクのほうだ。シーツにくるまって隠しているだけで、顔以外の部分もきっと全身あざだらけなのだろう。
 フィーネはやっぱり歓迎会には行きたくない気持ちがこみあげてきて、けれどシンクの思いもわかるだけに何も言えず、黙り込んでしまった。

「さ、もう満足したでしょ。ボクになんか構ってないで早く行ってきなよ。今日は動けそうにないから野営もしない。お腹も空いてない。アンタの手を煩わせることは何も無いね」
「……私、治療術が使えたらよかったのに」
「奇遇だね、ボクもそう思ってるよ。でも、第七音素セブンスフォニムが使えるのと、治療士ヒーラーの素質があるのはまた別の問題だ」
「私が言いたいのはそういうことじゃないよ」
「フン……アンタがいつもズレた答えを返すから、こっちもやり返したってだけ」
「……」

 実際、フィーネがここにいたって、何の役にも立たないのはわかっている。だがぐずぐずとベッドの傍から動けないでいると、シンクは腫れていないほうの目でこちらを睨んだ。

「ここでアンタが行くのをやめたら、一生許さないからな」
「……一生許さなかったらどうなるの? ずっと不機嫌?」
「だろうね。アンタが泣いて謝ったって、毎日毎日嫌味をぶつけてやる」
「でも、あんまり理不尽だったら、私も怒っていいんだよね?」

 そう言うと、シンクはちょっと虚を突かれた表情になった。

「それは……いや、怒るのに良いも悪いもないだろ」
「そうだよね」

 シンクはむしろ、ちっとも怒らないフィーネに憤っていたのだから。感情をあらわにしてみっともなく泣いたって、それでフィーネのことを嫌いになるわけでもなかったのだから。
 フィーネが返ってきた答えに安心していると、一方シンクは急に焦ったように身体を起こしかけ、眉をしかめた。

っ……ちょっと待って。まさか本当に、後で喧嘩になってもいいから行かないなんて言うんじゃないだろうな?」
「だって、喧嘩もそう悪くないものだってわかったから」
「嘘でしょ、勘弁してよ! アンタ、最悪な学習の仕方してるよ、それ」
「?」

 怒るのに良いも悪いもないのなら、学習にだって良いも悪いもないだろう。フィーネが首を傾げると、シンクの口元がぴくぴくと引きつった。
 けれども次に彼は脱力すると、ぽすんと再び枕に頭を沈めた。

「……あぁもうわかった。アンタがどうしても心苦しくて行けないっていうのなら……代わりにひとつ協力して。それなら、ボクの役に立ててアンタも満足だろ」
「協力するのは構わないけど……なに? それってシンクが酷い怪我をしたことと関係あるの?」
「……それは後で話す」

 協力してとか、後でとは言え話すとか、シンクらしくない台詞をたくさん言われてフィーネはちょっと驚いた。悪いとは思いつつ、状況が状況なので念のために確認をする。

「えっと、私を歓迎会に行かせたくて、適当なこと言ってるわけじゃないよね……?」
「はぁ? そんな見え透いた嘘、つくわけないだろ。もしも嘘だった場合、それこそ後で好きなだけ殴らせてあげるよ」
「私、別に殴るのが好きってわけじゃ……」

 なんだか大きな誤解をされている気がする。
 それはともかく、どうにもこうにもシンクの決心が固そうなのを見て取って、フィーネは流石に引くことにした。ここでフィーネが強引に残ると言い張ったら、シンクの頼みが嘘であると決めつけているようなものだからだ。ようやくシンクから話すと言ってくれたのに、それはあんまりな対応だろう。

「……わかった、信じるよ。私、行ってくるね」
「はいはい。アンタが浮かれてやらかさないよう祈ってるよ」
「だけど、その前に医務室に行って氷とか痛み止めとか……あ、食堂にも寄って軽食くらい貰ってくる」
「……」

 フィーネがそう言うと、シンクはなぜかしかめっ面になって、また頭からシーツを引っ被ってしまった。

「好きにすれば」

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