アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


30.気持ちが悪い(31/151)

 フィーネが仕事に行っている間の、シンクの過ごし方は日によって違う。先に訓練場に向かって一人で譜術の練習をしていることもあれば、部屋で本を読み、生きていくために必要な知識を学ぶこともある。文字の読み書きや物の名前、数字の概念や簡単な計算……そういう最低限の知識は造られたときから備えつけられていたが、実際それだけで生きていけるほど世の中は甘くない。誰にでもできることができたって、そこに価値などありはしないのだ。

 シンクが学ぶべきことは、まだまだ山のようにあった。現実はただ覚えるだけでなく理解し、自分の頭で考えなければならないことだらけだ。被験者オリジナルから出されたカースロットの解呪という課題も、まさにそうやって自分で頭を悩ませなければならない類のものだろう。

(今わかっているのは、この術が理性を麻痺させて暴走させること。もともと本人にない衝動は引き出せないこと。そしておそらくだけど、発動には術者との距離が関係している……)

 シンクは今一度、自分の服をめくりあげて、術をかけられた箇所を確認した。が、そこには筋肉のつき始めた薄い腹があるばかりで、見た目には何も変わったところがない。あのとき、被験者オリジナルと対峙したときは、確かに赤紫色に光る奇怪な模様が浮かんでいたのに。
 いくらダアト式譜術が導師にのみ継承されるものとはいえ、譜術である以上は一定の法則や他の術との関連性があるに違いなかった。第七音素セブンスフォニムの素養が要るというのも一つのヒントだろう。あの模様をどうにかして、じっくり見ることができれば。

(だけど、術が発動してるときはこっちが冷静でいられない。それに、模様見たさにここで無理に発動させるのは危険すぎる……)

 あくまで体感でしかないけれど、教団の外にいるときは比較的身体が軽く、気分も悪くなかった。裏を返せば教団内の距離であれば、何か強い苛立ちや怒りなどの衝動をきっかけに発動しうる。あの忌々しい火山の夢は、きっとカースロットが記憶から引き出してきたものだ。あの日、初めて顔を合わせた被験者オリジナルへの憎しみをそのままに、眠りについてしまったから。

 そこまで考えたシンクはまた夜のことを、フィーネに抱きしめられたときのことを思い出してしまった。正確にはあれは拘束だったのかもしれないけれど、目覚めた瞬間のシンクの胸を満たしたのが屈辱や苛立ちでなかったことだけは確かだ。
 カースロットの焼け付くような、憎しみとは対極にあるもの。悔しいけれど、これまでの訓練で嫌と言うほど差を見せつけられているので、フィーネであれば物理的にもシンクの暴走を無力化できるに違いない。

(いっそのこと事情を話して……だけど、)

 だけど、なんて言えばいい。
 そもそもフィーネはどうせ被験者オリジナルの味方をするに決まってる。アイツが出した課題だと知れば、自分の力だけで対処するべきだと言うかもしれない。一人では満足に何もできない劣化品に、いよいよ愛想を尽かすかもしれない。今朝だって、フィーネはほとんど口をきかなかった。いい加減、シンクの面倒を見るのに嫌気がさしたというところだろうか。そうであっても不思議ではない。

 シンクは自分が良くない態度をとってしまっていることをきちんと自覚していた。そのくせ、嫌われないために他人の顔色を伺って、媚びへつらうのも違うと思っていた。それはある種、上手に生きることに対するシンクなりの抵抗だった。ただでさえ愚かしい生を受けたのに、さらに惨めな生き方をするなんてまっぴらごめんだった。

(最悪……。くだらないこと考えてたら、ホントに気分が悪くなってきた)

 教団の中はやはり、術の効果の及ぶ範囲ということだろう。シンクはろくに解呪方法を思いつけないまま、深く息を吐き出して立ち上がった。ここでじっと考え込んでいても仕方がない。少なくともこれ以上カースロットが疼き出す前に、早く教団を離れた方がいい。そう思ってシンクが出かける準備をしかけたところで、ドアノブががちゃりと音を立てた。それから一拍置いて、今度は鍵を開ける軽い金属音がする。

「感心感心。今日はちゃんと鍵をかけてたんだね」 

 鍵を持っているというからには当然部屋の主でしかないのだが、入ってきたフィーネは朝の無言が嘘みたいに機嫌が良さそうだった。シンクと違い、もともと負の感情をあまり表に出さない彼女だけれど、それは正の感情だって同じこと。こんなにわかりやすく嬉しそうにしているなんて珍しい。
 てっきり、朝の気まずさが続くとばかり思っていたシンクは、呆気に取られて言葉を発するまでに少し時間を要した。

「……なにそのテンション、頭でも打ったの?」
「頭を打ったら脳震盪を起こして、むしろ静かになるんだよ」
「じゃあ食い意地の張ったアンタのことだから、変なキノコでも食べたワケ?」
「違うよ。まったく、シンクは口を開けば意地悪ばっかだね」
「っ、」

 きっとフィーネは機嫌がいいと口がまわって、余計に失言が増えるタイプなのだろう。だが、今しがた自分の態度について振り返っていたばかりのシンクは、その言葉の直球さに息を呑む。

「……それだけ、アンタに粗が多いってことでしょ。言わされる方の身にもなってほしいね」
「うんまあいいよ、意地悪でも。それより訓練行こう」

 何がまあいいのか全然わからなかったが、やはりフィーネは特にシンクを糾弾する目的で言ったわけではないらしい。仮面越しでもそうとわかるくらい上機嫌な彼女に、シンクはなぜだか無性に面白くない気分になった。自分の知らないところで誰かがフィーネを喜ばせたのだと思うと、ただただ気に食わない。

「アンタ仕事は?」

 言いながら、部屋の時計に目をやって驚く。色々考え事をしているうちに、思いがけず時間が経っていたらしい。午後には戻るって言ったでしょ、とフィーネは笑った。それから、まだお腹いっぱい? とも。

「食堂でサンドイッチもらってきたから、せっかくだし外で食べよう」
「……気持ち悪い」
「まだ昨日のシチューが胃に残ってる?」
「そうじゃなくて、フィーネのその明るさが気持ち悪いんだよ」

 シンクの言葉に、とうとうフィーネは黙った。

「……ごめん」

 そのあと謝ったのは、なぜか彼女のほうだった。


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