02.歪な愛(3/151)
預言に選ばれ、幼い頃から導師になるための勉強をさせられていたイオンは、いつかこんなところ逃げ出してやると思いながら、結局八歳の若さで導師を継いだ。 仕事に関しては色々なことを教え込まれた甲斐あって、さほど苦もなくこなすことが出来たように思う。もちろん、政治的な面など子供の身には責任が重い内容も多かったが、重要な局面での判断はそれこそ預言に従っていれば誰も文句は言わない。 だから、導師になって本当に大変だったのは、常に信者たちに笑顔を向け、模範的な導師を演じなければならなかったということだろう。イオンが預言を詠めば人々は何の疑いもなくそれに従う。だがそのイオンもまた預言に従い、導師になっただけ。別に、この役は誰がやったってよかったのだ。預言さえあれば、誰にでも務まる仕事なのだ。
イオンがそのことに気づいたのは、正式に導師に就任して一か月も経たないうちだった。誰もかれもが、イオンをイオンとしてではなく“導師”として認識する。たまに敬い以外の感情を向けてくる者がいたとしても、それも結局子供の“導師”を侮って、上手く利用してやろうという魂胆の奴らばかりだ。そんな生活の中でイオンが心を許せる数少ない人物は、預言から逸脱した忌み子のフィーネと、預言どころか人間としてまともに育てられていなかった導師守護役のアリエッタくらいのものであった。 「……っ! イオン様、探した……です!」
イオンがフィーネの部屋から自室に戻ろうとする道中、名前を呼ばれたかと思うと、ぱたぱたと軽い足音が駆け寄ってくる。アリエッタが困ったように眉を八の字に下げているのはいつもの事だが、普段以上に慌てている様子からして本当に心配して探してくれていたのだろう。
(まるで飼い主とはぐれたペットだね)
つい、癖で浮かんだ皮肉を飲み込んで、イオンは彼女に向き直った。雛鳥のように自分を慕ってくれるアリエッタとも古い付き合いになるが、ダアトに保護された当初の彼女は言葉すらまともに話せない状態だったため、イオンにとっては対等な幼馴染というより庇護すべき対象であるという感覚が強い。もっとも役割で言えば、今現在イオンのほうが彼女に守られる立場だったが。
「イオン様、ひとりだめ……です! 何かあったら、困ります」 「ありがとう、でも大丈夫だよ」
小柄な彼女のために少し身をかがめ、イオンは安心させるように微笑む。
「ちょっとフィーネに話があっただけだから」 「フィーネに……」
その名を聞いた途端、複雑そうな表情になるアリエッタが愚かで愛おしい。一応、アリエッタとフィーネも昔馴染みということになるし、お互い社交的なたちではないものの仲だって決して悪くはないのだ。預言すら気にしないフィーネはその他のことにも無頓着で、魔物と懇意にしていることで忌避されがちなアリエッタを差別するようなことはなかったし、アリエッタもまたそんなフィーネを信頼しているようであった。 ただ、そこにイオンが絡むと話は別で、アリエッタは嫉妬の感情を隠しもしない。そこが愚かでいじらしかった。イオンにとってフィーネはあくまで腐れ縁の友人であり、同じ預言の被害者としての仲間意識が大半を占める。閉じられた狭いイオンの世界においてフィーネが特別な存在であることは否定しないが、決してアリエッタが思うような関係ではないのだ。
「あの、えと、お話って……」 「少し頼みたいことがあってね。でも、フィーネが訓練からなかなか戻ってこなくて、結局肝心なことは話せなかったな」 「た、頼みなら、アリエッタが」
必死に言い募るアリエッタには悪いが、イオンの頼みはアリエッタに託せるものではない。そもそもフィーネを巻き込むことですら、まだ迷っているのだ。だから話すつもりで彼女のところへ足を運んだのに、結局無駄話だけして帰ってきてしまった。意外だったのは、ぼんやりしているとばかり思っていたフィーネに体調の事を指摘され、できることがあったら言ってとこちらを見透かしたような台詞を言われたことだ。
「……ねぇ、アリエッタ。アリエッタはフィーネのこと、嫌いかい?」
イオンの問いに、アリエッタは驚いたように瞳を揺らす。
「っ、そんなこと……無い、です! フィーネはアリエッタにも、アリエッタのママにも優しくしてくれるし、嫌いなわけないです!」
ぶんぶんと首を横に振る彼女は、当然本気だ。アリエッタは魔物に育てられたからか、幼く純粋な性格をしている。
「でも、イオン様の導師守護役はアリエッタだから……」
イオンがフィーネのほうを頼り、優先すると言うのは面白くないのだろう。純粋な彼女は、自分の中の嫉妬の感情に戸惑ってもいる。アリエッタが自分のために醜い感情を抱いているのを見ると、綺麗な彼女を穢したみたいでイオンは酷く満ち足りた気分になった。
昔、アリエッタがこうして人間の生活に馴染む前、フィーネに打診して断られた導師守護役という仕事。フィーネは出自の関係で、目立つ役職は避けたいとのことだった。イオンに常に随伴するということは、貴族社会とも関わる確率が高くなる。 もしも、元はフィーネになってもらおうと思ってたんだと言ったら、アリエッタは一体どんな顔をするだろうか。
「そうだね、アリエッタは僕の大事な導師守護役だ」 「はいっ!」
イオンはすんでのところで薄暗い欲求を押し込めると、彼女を喜ばせるための言葉を口にした。もちろん、アリエッタが導師守護役で何の不満もないし、アリエッタの笑顔を見ていると今では彼女を選んでよかったと本心から思っている。フィーネではこうして、イオンに心まで捧げてくれるようなことは決してなかっただろう。
イオンの目には、フィーネは誰に対しても公平であるように見えた。最初はそれに“導師”として自分を特別扱いしないという意味で惹かれたが、今では少し物足りなくも思っている。フィーネはイオンを必要としてくれない。“導師”という特別扱いは嫌なくせに、イオンはそれでも誰かの特別になりたいと思うようになっていた。特に自分の空虚な人生が、残り僅かだということを知ってからは――。
(フィーネはフィーネ。僕は僕。でも、アリエッタは僕のものだ)
イオンは優しい笑みを浮かべると、アリエッタを促して自室に向かって歩き出した。それは信者に向けるような作り物の笑顔ではなかったが、かといってただ温かいだけの笑顔でもない。アリエッタと一緒にいると、いっそ傲慢なまでの支配欲がふつふつと湧き上がる。
(だからね、"その時"が来たら……)
アリエッタを導師守護役から外す。他の誰にも渡しはしない。
それは愛と呼ぶには歪だった。
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mokuji
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