アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


20.不機嫌のレパートリー(21/151)

 あの後、自分のベッドに戻ってしばらく様子を伺っていたけれど、シンクがもう一度魘されたり飛び起きたりするようなことはなかった。何度も寝返りを打つ気配がしたので流石にすぐには寝付けなかったみたいだが、一時間ほど経ったあたりで呼吸が深い寝息に変わったのを聞いた。フィーネもそれからすぐ微睡みに落ちたので絶対とは言えないけれど、少なくとも無意識に譜術を使うレベルで取り乱していないのは確かだろう。

 夜中のシンクは突然、まるで火でもついたかのように暴れだした。当然フィーネも寝ていたものだから、初めは何が起きたのかまったく理解できなかった。思わず夜襲かと構えたくらいだったが、何事かと聞いても、呼びかけてもシンクは手足をばたつかせるだけで反応しない。ただ尋常ならざる怯え方で、初めて人を殺した兵が夜中に魘されるのに似ていた。フィーネ自身、普通で言うならまだ騎士団の幼年学校にいてもおかしくない年齢だったが、既にそういった人間をたくさん目にしている。ホド戦争が停戦しても、それですべてが終わりというわけではなく、情勢は子供を特別扱いはしてくれなかった。逆に言えば、譜術を使える者であれば十分な戦力であり、年齢で出世が妨げられるようなこともなかった。

「シンク、起きて」

 うっかり殴られないように気を付けながら、ゆっくりと肩を揺すってみる。酷く汗をかいていて、とても苦しそうだった。

「シンク」

 もう一度揺すると、彼の唇がはくはくと動いた。ほとんど唸り声のような呼吸音のはざまに、意味のわかる言葉が途切れ途切れにやっと聞き取れる。

「う……なれ、れっぷ……タービュ、ランス」
「!?」

 え、と思ったときにはもう、激しい風が吹き荒れていた。下級譜術とはいえ、そもそも室内で使用していいものではない。幸い、狙いがめちゃくちゃでフィーネに直撃するようなことはなかったが、再びシンクの唇が動きかけたのを見て、フィーネは慌てて彼を押さえ込んだ。パニックにさせないように慎重に起こすだとか、そんな悠長なことは言っていられない。そうしてやっとのことで起こしたシンクは、初めここがどこなのかすらも理解していないようだった。

「今日のシンク、戻ってきたときから変だった。やっぱり何かあったんじゃないの」

 やっぱり、と言ったのは、シンクが今日帰宅したときにも一度聞いたことだったからだ。戻ってきたシンクは明らかに具合が悪そうだった。どこかを痛めたとか、風邪気味だとか、そういう物理的なものではなくて、ただひたすらに陰惨な雰囲気が漂っていた。機嫌が悪いのともまた違う。ぴりぴりではなくて、ぐつぐつぐらぐらしていた。何か仄暗い感情がシンクの中で煮えたぎっているような、そんな様子に見えた。

「……何も無いよ」

 けれども、シンクは二度目も同じ答えを返すばかりだった。フィーネが仕事に行っている間に絶対に何かあったに決まっているのに、シンクは決して口を割ろうとはしなかった。一夜明けて、翌朝になってもシンクは何も言わず、何事もなかったみたいに振舞っている。記憶がないというわけではなく、聞くなという無言の圧を感じた。だからフィーネもぐっちゃぐっちゃの部屋の中で、普通の顔をして朝食をとった。

「今日の午後はそっちに行くね」
「……別に、来てくれなくても勝手に一人でやってるけど」
「いいんだよ。午後まで私がみっちり指導すると、迷惑みたいだから」

 この前シンクは、フィーネが特務師団の皆に嫌われていると喜んだ。それにフィーネが訓練に付き合うことに関して、シンクが遠慮しなくてもいいようにと気を使った意図もあった。要するにフィーネなりにシンクを元気づけようと軽口を叩いたつもりだったのだが、彼はぴたりと朝食の手を止めて、なにそれ……と呟いた。

「そんなこと言われたわけ? 自分たちの不甲斐なさを棚に上げて上官を厄介者扱いするなんて、特務はとんだ甘ちゃん集団だね」
「え? いや、言われたわけじゃ、」
「そんな奴ら今すぐ第六に異動させて、とっとと前線にでも放り出せばいいよ。何のためにアンタが厳しくしてたか、いくら馬鹿でもわかるだろうからさ。まさかアンタも馬鹿を死なせないのが仕事だとまでは言わないでしょ」
「シンク……」

 彼の毒舌はいつものことと言えばそうだが、予想外の勢いにフィーネは戸惑った。フィーネはシンクを喜ばせようとしたつもりだったのだが、彼のスイッチはどこにあるのか全く掴めない。聞いたらまた怒られるのかな、と思いつつ、フィーネは素直に疑問を口にした。

「なんで、そんな怒ってるの?」
「はぁ? 何の話?」
「シンクの話。私が特務師団の皆に嫌われてたら嬉しいんじゃないの?」
「……一体どういう解釈してるわけ」
「だって、シンクが笑ったのそれくらいしか見たことなかったし」
「……」

 フィーネが喋れば喋るほど、シンクはますます仏頂面になる。ただ、これはぴりぴりではなく、もやもやという感じだ。これほど不機嫌のレパートリーがある人間もなかなかに珍しいと思う。

「あのときは別に……ただ、アンタが落ち込んでるのが面白かっただけで……」
「えっ、性格わる」
「……あのさ、思ったことそのまま言わないでくれる? 不快」

 いや、ほんとのことじゃん――というのは、流石に言わないでおいた。シンクがこちらを見て舌打ちをしたので、たぶん言わなくても顔に出ていたのだと思うけれど。
 フィーネはぺたぺたと自分の頬を触って、無愛想でわかりにくいはずの顔面を確かめていた。

「じゃあ、私は落ち込めばいいんだ。難しいね」
「意味わかんないんだけど。なんでわざわざ落ち込む必要があるわけ?」

 頭に浮かんだ答えはあったが、言わずに曖昧に笑う。すると聡い彼は本当に言わなくてもわかってしまったみたいで、またもやもやの不機嫌オーラを出した。結局伝わるのなら、口にしてもしなくても結果はあまり変わらなそうだ。が、これも言うまい。

「とにかく、アンタが部下に舐められてるようじゃこっちも困るんだよ」

 シンクはどこか拗ねたようにそれだけ言って、すっかり止まっていた朝食を再開した。

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