アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


19.制御不可能(20/151)

 煌々と明るいその穴からは、巨大なふいごを吹くような低い唸りが轟いていた。中は真っ赤でどろどろとしたものが煮えたぎり、唸りに合わせて吹き上げる熱風が肌を舐める。
 せーの、という掛け声とともに、目の前で自分と同じ姿形をしたものが空を飛んだ。その後、どぼんと落ちる音が聞こえたのかまでは定かでない。じゅっ、と溶ける音がしたのかもわからない。穴の周りはねずみ色のモヤが立ち込めていて視界も悪く、くさい臭いのせいで目や鼻、喉の奥までもが焼けるように痛かった。

 こいつで最後だな。
 そんな言葉が聞こえてきたかと思ったら、人の腕がにゅっと脇の下に通された。反対側は両足の脛を揃えて、抱えるようにして持ち上げられた。
 イヤだ。やめろ。
 シンクは思い切り暴れたが、男たちは歯牙にも掛けずに作業を続けた。腕を振り回して殴りつけても、足の関節が外れそうなくらい強く蹴り出しても、不気味なくらいに手応えがない。最初は人の形をしていた男たちは、いつの間にか赤黒い影となってべったりとシンクに纏わりついていた。この世の物とは思えない、尋常ならざる力だ。影の手がシンクの腹に伸びて、触れられた部分が焼きごてでも押し付けられたみたいに熱い。
 怖い。動けないシンクは必死になって譜術を唱えた。

(唸れ烈風! タービュランス!)

 ごうっと巻きあがる風は火の粉を帯び、シンクの身体ごと包み込む。影たちはあざ笑うようにゆらゆらと揺れた。馬鹿にして、蔑んで、そのくせどうでもいいと思っている笑い方だった。
 熱い。助けて。イヤだ。
 喉を焼かれて悲鳴も出ない。代わりにひゅーひゅーと喘鳴が聞こえた。シンクは必死で身を捩る。風は駄目だ。水を。氷でもいい。

(飛散せよ流転の泉! スプレッド!)

 しかし、救いとなる水は湧き出ることがなかった。被験者オリジナルなら、いや七番目ならできたかもしれないけれど、代用品にすらなれなかったシンクはまだ、得意な音素フォニムの術しか使えない。
 そうこうしているうちに、シンクの身体はとうとう宙に放りだされた。無駄な足掻きと知りつつも、必死で空をかき、手を伸ばす。

(イヤだ! イヤだ! イヤだ!)

「イヤだぁぁっ!!!」
「シンク! しっかりして、シンク!」
「っ……!」

 目を開けると、灼熱の火山はどこにも存在していなかった。明かりも消した暗い部屋の中、シンクはほとんどベッドに押さえ込まれるような格好で、フィーネに正面から抱きしめられている。しばらく状況が理解できず、引きつった呼吸を繰り返した。熱気が喉を焼くことも、酷い臭いが鼻を刺すこともなかったが、頭から水を被ったみたいに全身から汗が噴き出して止まらなかった。

「……落ち着いた?」
「……」
「ごめん、魘されてるなと思ったらシンクが突然暴れだして。身体は動いてるのに、声をかけたくらいじゃ全然反応しなくて」

 視線だけでゆっくりと辺りを見回せば、確かに彼女の言う通りなのだろう。部屋は竜巻でも通ったみたいにぐちゃぐちゃに荒れていた。夢の中で唱えたつもりが、実際に譜術を使ってしまったのかもしれない。
 シンクは自分がしでかした事を少しずつ理解する一方で、ようやくここは安全なのだと深く息を吐くことができた。常であればこんな醜態など許せるわけがないのに、抱きしめられたまま素直にだらりと脱力する。汗をかいてまだ身体が熱い気すらしたが、温かいフィーネの体温に包まれていると不思議と気持ちが落ち着くのを感じた。

「今日のシンク、戻ってきたときから変だった。やっぱり何かあったんじゃないの」

 シンクが落ち着いたのが伝わったのか、フィーネも力を抜くのがわかった。少し上体を起こし、正面からのぞき込まれる。シンクはフィーネの視線から逃れるように、自分の顔の前に右腕をやった。仮面のありがたみが、外した時になってやっとわかった。

「……何も無いよ」
「うそ。怪我も一人の訓練でできたものには見えなかった」
「魔物が出たんだ」
「あの辺りにシンクが遅れを取るような魔物はいないはずだよ」
「……」
「言いたくないんだね」

 それがわかったのなら、わざわざ言葉にしなくていいだろうに。
 イライラの虫が、腹の中で鎌首をもたげる。いや、正確には腹の、脇腹のところだろう。被験者オリジナルにかけられたカースロットが、シンクの理性の糸を焼いていく。フィーネが心配してくれているというのはわかるのに、それすらもなんだかムカムカした。フィーネだけじゃない。何もかもが許せなかった。シンクが憎んでいるのは、被験者オリジナルだけではなく、この世界のすべてだったのだとカースロットによって自覚させられた。

「いちいちうるさいな、放っておいてよ」
「これだけ暴れておいてよく言う」
「……手間をかけさせたのは認めるよ。でも、ちょっと夢見が悪かっただけでもう問題ないから」

 果たして本当にそうなのだろうか。
 言いながら、シンクは自分の中の不安から目を背けた。被験者オリジナルからの課題は、自力でこのカースロットを解呪してみろというものだった。術と言うのはある種数式のようなものだから、逆に紐解くことで学ぶことができると建前上はそういうことになっている。けれどもまだシンクには解除のための糸口すら掴めていなかったし、被験者オリジナルが本当にシンクにダアト式譜術を教える気があるのかどうかもわからない。あの被験者オリジナルの性格を思えば、ただ甚振られているだけのような気がしないでもなかった。

「本当にもう大丈夫なの?」
「……もういいから。いつまで人を下敷きにしてるのさ。重い、退いてよ」
「シンクのバカ」

 フィーネの顔をまっすぐ見る勇気はなかったけれど、彼女が重心をずらしたことでベッドがほんの少し沈むのがわかった。重みと温もりがゆっくりと離れていく。だがその途中でフィーネはぴたりと動きを止め、シンク、と再び呼びかけてきた。

「ねぇ、退けるから、シンクも手を放してよ」
「……」

 無意識のうちに左手が彼女の肩口を掴んでいて、そのままになっていたらしい。シンクは他人事みたいに自分の拳に白く浮きあがった関節を眺め、それからぱっと手を放した。


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