アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


17.拭えぬ違和が苦しくて(18/151)

「それでは、本日はここまでとします」
「「ありがとうございました!!」」

 訓練の終わりを告げると、昨日とは違うまだ元気のある礼が返ってきて、フィーネは内心でほっと胸を撫でおろした。どうやら今回はほどほどに切り上げることができたらしい。シンクとの訓練は一旦始めるとほとんどノンストップで際限なく続くが、それもこれも単にシンクが負けず嫌いだからだろう。彼に関してはフィーネがやりすぎたのだとは考えなくても良さそうだ。

 兵たちを解散させ、暇になったフィーネはもうひと仕事シンクの様子を伺いに行くかどうか考える。こちらの体力的にはまだまだ余裕だけれど、時計を見て少し早すぎるな、と思った。おそらく、今彼の元に戻れば、

―――おや、こんなに早いお帰りとはね。特務師団の奴らに愛想尽かされて逃げられたでもした? その調子だと、アッシュにも来なくていいって言われるんじゃない?

(うわ〜……)

 脳内のシンクがかなりの再現度を誇っていたため、フィーネはやはり秘密の訓練場に行くのは後回しにすることにした。とはいえ、あえて後回しにしたことがバレるとそれはそれで面倒なので、自室には戻らずローレライ教団の図書室へと向かう。借りてくるよう頼まれていた本があったのだ。もちろん誰に頼まれたかと言えば、結局のところはシンクしかいないので、フィーネの交友範囲も大概狭いと言わざるを得ないのだけれど。

(えーと、軍略の本なんて、うちにあるのかな)

一応ローレライ教団は、人々の規範となるようユリアの教えを説いている平和な宗教団体ということになっている。シンクが勤勉なのはとてもいいことだと思うけれど、一体どこを目指しているのやら。しょっちゅう虚無的なことをいう割に、実はあれで結構野心家だったりするのだろうか。フィーネはそんな益体もないことを考えながら、ふらふらと棚の間を渡り歩く。図書室にはあまり来ないので分類がわからず、本を探すのに手間取っていたのだ。
 そして、ついでに行軍のときに美味しいものを食べられたら嬉しいな、と迷い込んだ料理本コーナーの曲がり角。

「あっ、ごめんなさい」

 また人とぶつかりかけて、あわや今朝の繰り返しとなるところだった。今回のフィーネは寸でのところでぎりぎり半歩後ろに下がることに成功したが、棚に貼られた分類記号だけ見て歩いていたこちらに非がある。もう一度謝ろうと思って、フィーネは自分より低い位置にある相手の顔に視線を下げた。逆に、見上げる格好になった相手はといえば、元から大きな目をさらに大きく見開いて真ん丸にしていた。

「わ、フィーネ奏手!」
「きみ、今朝の……」
「ひぇえ、な、何度もすみません!」

 どこか小動物っぽい雰囲気を漂わせた少女が大げさに頭を下げると、その弾みでツインテールがぶんぶん揺れる。フィーネは声をあげた彼女に今朝の顛末を思い出して、咄嗟に少し身をかがめ、少女の唇の前に指を一本立てた。

「しーっ、静かに」
「っ……」

 目立って注目を浴びるのは避けたいし、ましてや図書室では静かにするのが大原則だ。彼女がこくこく、と緊張気味に頷いたのを見て、フィーネも少し肩の力を抜く。向こうは自分のことを知っているらしいが、フィーネのほうはこの少女の名を知らなかった。今朝はこちらも途中で逃げ出してしまったことだし、改めてきちんと自己紹介しようと口を開いたフィーネだったが、次の瞬間、譜術にでもかかったみたいにぴたりと動きを止めていた。

「アニス、何をしているのですか」

 不意にかけられた声が、フィーネにとってあまりにも異質なものだったから。

「あ! イオ……ン様」

 またも大声を出しかけて、それに気づいた少女――アニスが慌てて口を押さえる。けれども今のフィーネにはもう、静かにしなくてはだとか、そういうことは意識からすっぽりと抜けていた。こちらに向かってくる、白と淡い緑を基調としたワンピース姿の少年。姿かたちはよく知る幼馴染のものだった。声だって、さんざんシンクで聞いている。イオンのレプリカと接するのはこれが初めてというわけでもあるまいに、フィーネは彼を見て、聞いて、今更のように強烈な違和感を覚えていた。

「あなたは……」
「……」

 そしてイオン様のほうも、フィーネを認識して戸惑っているようだった。アリエッタは秘密のままに解任してしまったが、フィーネは事情を知る者だとヴァンから聞いていたのだろう。そうでなければ、こんなにも迷いのある表情をしない。
 フィーネが何も言うなとばかりに小さく首をふると、彼はアニスのほうをちらりと見て、それから目で頷いた。

「失礼しました。導師は彼女と同行されていたのですね」
「はい……紹介が遅れました。彼女が新しい導師守護役フォンマスターガーディアン、アニス・タトリン奏長です」

 そうか、彼女がアリエッタの代わりの――。
 赤子の時から教団で過ごすフィーネがあまり認識していないということは、アニスはまだ神託の盾オラクル騎士団に入って浅いのだろう。普通で言えばありえない人事だが、下手に長く在籍している者であればイオンの変化に気が付いてしまうかもしれない。

「えっとぉ……イオン様とフィーネ奏手ってお知り合いだったんですか?」

 もちろん、教団のトップと長く教団に仕える身であれば、互いに面識があってもそうおかしくない。ただ、まるでフィーネにアニスを紹介するのが当たり前であるかのような導師の口ぶりに、アニスはやや不思議そうな顔をした。

「ええまぁ、彼女とはその、幼馴染のようなものになるので……」
「ええっ! 知らなかった! そうだったんですかぁ!?」
「昔のことです」

 フィーネの口から咄嗟に出た言葉は、知らない者が聞けば頓珍漢で間の抜けた返しだった。実際、アニスは理解できないというように眉をひそめる。

「は? いや、幼馴染に昔も何も……」

 けれどもフィーネは今、本当に言葉通りに大きな喪失を味わっていた。どんなに見た目がそっくりでも、イオン様とフィーネは幼馴染ではない。シンクのときは平気だった。シンクは初めからシンクとして、イオンとは別の存在としてフィーネの元にやってきたからだ。彼はフィーネの幼馴染として振舞うことはない。そのくせ、耳に慣れた減らず口が親しみやすかった。
 だが一方で目の前のイオン様は、そう望まれたから仕方がないにしてもイオンをやろうとしている。彼がイオンであろうとすればするほど、フィーネにはそれが強烈な違和感となって受け入れることができなかった。

「……アニス奏長、改めて今日は何度もごめんなさい。導師のこと、よろしくお願いします」
「へ? あ、いや、私の方こそ前をよく見なかったんだし、っていうか奏手に畏まられると困るってゆーか……」
「では、私は戻らないといけないのでこれで。お騒がせしました、失礼いたします」

 フィーネは近くの棚から適当に二、三冊本を引っ掴み、ぺこりと頭をさげて貸出カウンターの方へ急いだ。
 背中に注がれる導師の視線を感じ、胸がぎゅっと締め付けられる。イオン様には何の罪も無いのだとわかっていても、フィーネはどうしてもまだまともに彼と向き合う自信がなかった。
 今ならわかる。アリエッタを解任したイオンは、意外とあれで正しかったのだ。


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