アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


62.人望(146/151)

 彼女の実力を見くびっているわけではなかったが、フィーネに期待していたのはせいぜい足止め程度のことだった。たとえアッシュが本気を出さないにしたって、こちらにも生け捕りという条件がある以上どうしても加減が必要になる。ましてや神託の盾オラクル本部は構造上入り組んでおり大規模な譜術の使用が難しいともなれば、人数差でもって制圧するのが定石だろう。そういうふうに考えてシンクは挟撃を選んだのだったが、どうやらあの二人に常識は通じないらしい。

「ここが地下だってこと、忘れてるワケ……?」

 シンクが現場に辿り着くまでに少なくともあと二回、建物全体が派手に揺れた。これほど遠慮なく譜術を使っているようでは、一般の兵士たちは迂闊に近づくことができず、壁の役割すらも果たせないだろう。
 ザオ遺跡ほどではないにしろ、建物の基礎を破壊するようなことがあれば生き埋めだって十分ありえる話だ。シンクだって心情的には教団を破壊してやりたいところだが、今はまだ勝手なことをされては困る。アッシュを捕縛するのも本当ならなるべく秘密裏に済ませたかった。そうでなければまた査問会だのなんだのと、面倒な手続きが山のように増えてしまうだろうし、いざこちらの都合で連れだすというときにもいちいち手間がかかる。
 ひとまず情報統制のしやすい特務師団の面子で固めたが、最終的な捕縛は第五師団――いや、参謀本部預かりということにするか。

「アッシュ、フィーネ、そこまでだよ!」

 しかしながらそんなシンクの思惑は、どうやらことごとく挫かれる運命にあるようだった。

「なっ……!」
「アッシュ響士、神託の盾オラクル騎士団、ひいてはローレライ教団に対する背信のかどであなたを拘束させていただきます」

 シンクの目に飛び込んできたのは、うつ伏せ状態で地面に押し付けられるように拘束されているアッシュの姿。もちろん、背中に馬乗りになり中心となって自由を奪っているのはフィーネだったけれども、せいぜい行く手を阻む壁でしかなかったはずの特務師団の面々が、アッシュに向かって剣の切っ先を向け、ぐるりとその周りを取り囲んでいる。「参謀総長……」やがて、シンクの到着に気が付いた兵士の呟きで、ざわざわと徐々に道が開かれる。けれども誰一人として、剣を下ろそうとはしなかった。

「……チッ」

 アッシュはシンクを見るなり、酷く嫌そうに眉間に皺を寄せた。それもそうだろう。シンクの性格を知っていれば、嘲笑や侮蔑の言葉が飛んでくることは誰でも容易に想像できたからだ。しかし自分でも意外なことに、シンクはアッシュをいたぶるための言葉を見つけられないでいた。所詮、外野でしかないシンクが投げかける嘲りよりも、今この瞬間アッシュに向けられる視線のほうがよほど残酷で冷たいものだったからだ。

「牢に連れていけ」

 シンクは結局、短く指示だけを下して、それ以上のことは何も言わなかった。アッシュももちろん何も言わない。フィーネの拘束から解かれたあとも抵抗する素振りは見せず、ただ黙って元部下たちに連行されていった。さっきまでの爆発音が嘘みたいに、不気味なくらいの静けさが廊下を包んでいた。

「フィーネ、」

 一体、何があったのだ。
 報告を聞こうと二、三歩踏み出したシンクの鼻は、そこでふと嗅ぎなれた鉄錆の匂いを拾う。それが何の匂いなのか理解した瞬間、氷を呑んだように胃のあたりが冷たくなった。

「っ、フィーネ、」

 団服が黒いせいで気づかなかったけれど、立ち上がった彼女の脇腹部分はもっと濃い色をしていた。「クソッ、早く止血を――」声が震えそうになるのをぐっとこらえる。まさか、アッシュがここまでやるなんて。完全に誤算だった。だいたいフィーネもフィーネだ。有利なのはこちらなのだから、何も真っ向からやりあわなくたってよかった。

「馬鹿じゃないの、足止めだけで十分だったのにさ!」

 傷口を見るためにかがもうとすれば、不意に仮面の先を掴んで少し横にずらされる。せいぜい口元が見えるようになるくらいだったけれど、周りにはまだ他の人間がいる。これには流石にシンクもぎょっとして固まった。

「何を、」
「ごめん、さっきの爆発のせいで今あんまり耳が聞こえなくて。なに? なんて言ったの?」

 さっきからやけにうんともすんとも言わないと思ったらそういうことか。口ぶりからしてそれほど傷は深くないようだが、あまりに間の抜けた発言に安堵と苛立ちがないまぜになる。

「……フィーネが馬鹿だって言ったんだ」
「……」

 こちらの唇の動きを読んだのか、一拍置いて、あぁとフィーネは残念そうに息を吐いた。

「褒めてくれたのかと思ったのに。聞かなきゃよかった」
「褒めるわけないだろ、あれだけ人の怪我には文句を言ったくせに自分のほうが随分と酷い有様じゃないか」
「いいの、ダアトならすぐ治せるし」
「そういう問題じゃない」

 人の心配はするくせに、自分も心配されるのだということにはちっとも気が回っていない。立場的なことを言えば率先して救護なんかに回るべきではなかったが、シンクは現場の後処理を部下に任せ、フィーネに肩を貸した。自分以外の他の誰かにフィーネのことを任せるのがどうしても嫌だった。

「だいたいアッシュもアッシュだ。御大層に綺麗ごとを並べたって、結局は血なまぐさいやり方しかできないんだから」

 傷口に響かないよう、細心の注意を払いながら医務室へ向かった。シンクは今更になってアッシュへの怒りがこみあげてきて、一体これからどうしてやろうかと思考を巡らせる。

「……あのね、シンク、私の傷のことでアッシュをあんまり責めないでね」

 しかしフィーネはというと、あたりを憚るように声を落としてそう言った。その声の調子はどこか、懺悔のようにも聞こえた。

「は?」
「私が酷いことを言って怒らせたの。私じゃ到底、彼の人望に叶わないから」
「……」
「こうでもしないと、特務師団を味方につけられなかった」

 フィーネの発言を聞いて、シンクはあの場の異様な雰囲気を改めて思い出した。特務師団の団員たちが見せたあれはただ、敵に対する冷徹さじゃなかったように思う。あのとき彼らの心に渦巻いていたのは、きっと怒りと失望だった。ローレライ教団を裏切ったことよりも、特務師団長アッシュとしての期待を裏切られたことに対する失望のほうが凄まじかった。まさに今しがたシンクが毒づいたように、アッシュを真っ当な人間だと思っていればいるほど、憧れていればいるほど、元部下であるフィーネを傷つけることがどれほど信を損なうかは言うまでもない。

「ハ、なるほどね……」

――確かに特務の奴らはフィーネより、アッシュとの付き合いのほうが長いだろう。単純に人望で負けるなら、逆にその付き合いの長さを利用してやればいい

 以前にシンクはそうフィーネに助言したが、彼女はまさに上手くやってのけたというわけだ。アッシュ自身にとっても、フィーネに傷を負わせてしまったことは予想外だったのだろう。だから最後は無抵抗だった。腑に落ちてすっきりする反面、フィーネに余計な知恵をつけさせてしまったとも思う。

「事情はわかったよ。だけど、だからってアッシュの件は斟酌しない。フィーネなんかの挑発に乗った自分の愚かさを呪えばいい」
「……」
「それに、フィーネのことも褒めないからな」
 
 シンクはそこまで言うと、唇を隠すように仮面を深く被りなおした。
 作戦としては悪くなくても、変に誉めて同じことを繰り返されたくない。こんな思いをするのはもう懲り懲りだ。

「怒ってるんだよ、フィーネがボクに怒ったように」

 最悪聞こえていても別に構わない。けれどもフィーネの聴覚が戻ったのかどうかわからなかったから、“心配した”とまでは言わなかった。
 

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