アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


60.期待の末路(144/151)

 今となってはもう随分昔のことのような気がするが、アッシュがまだ“ルーク・フォン・ファブレ”だった頃。
 ただでさえ暑い夏の時期にどこからか当時流行っていた風邪をもらってしまって、三日くらいひどい高熱を出したことがある。心配性なところのある母はもちろん、普段は厳しい父までもが頻繁に寝室まで様子を見に来てくれていたらしいのだが、頭が割れるように痛かったのと熱で意識が朦朧としていたせいで、残念ながらアッシュはあまりはっきりとしたことを覚えていなかった。しっかりと記憶にあるのはナタリアとヴァンが見舞いに来てくれたことと、いつ目を覚ましてもガイが傍にいてくれたこと。おまえにもうつるからと部屋を追い出そうとしたのに、ガイは具合が悪いときって心細くなるだろ、と笑うだけでちっとも言うことを聞かなかった。

――心細くなんて、ない
――そうかい、さすが小さくても公爵子息サマだ
――……あたりまえだろ

 口を動かすのも億劫だったけれど、アッシュはそう嘯いた。受けてきた教育とプライドの高さのせいで、当時から素直になるのが得意ではなかった気がする。主従という関係ながらも、少ししか年の違わないガイにかっこ悪いところを見せたくなかったというのもある。それでも、本心はガイがそうやって傍にいてくれることに安心していた。彼のことを信頼していたし、大切な幼馴染の一人だと思っていた。だから離れ離れになったとしても、ヴァンからガイの生い立ちを知らされても、完全に期待を捨てきれていなかった。アクゼリュス崩落の後、冷たい態度を取られても、彼がレプリカを迎えに行ったとしても、自分との思い出までが否定されるわけではないと思っていたから――。

『……おまえのせいじゃないよ。俺がおまえのことを殺したいほど憎んでいたのは、おまえのせいじゃない』

『言っただろ、おまえのせいじゃないって。別におまえに対しては・・・・・・・・、恨むとかそういうのはない』

 望んでもないのに、ぐわんぐわんと頭の中でガイの声が響く。これは今、面と向かって彼に言われた言葉でも、記憶の中にある過去のやり取りでもなんでもない。割れるような頭痛と意識が朦朧としているのは同じなのに、今のアッシュの傍にガイはおらず、労わるような言葉もアッシュに向けられたものではない。

(クソッ……勝手に流れ込んできやがる……)

 痛みのせいで額に浮いた汗が、そこだけひんやりと冷たく感じた。以前はこちらからルークの意識に介入していたが、最近はアッシュが望まなくてもこの調子だ。突発的に起こる頭痛と、常に体に熱がこもっているような倦怠感。頭の中で他の人間から『ルーク』と呼びかけられて、一体自分が誰なのかわからなくなる。もちろん、本物の“ルーク”は自分だ。けれども受け入れられているのはレプリカのほうで、ガイに憎まれているのは本物の自分のほうで――。

(今はもっと、他に考えるべきことがあるってのに……)

 一刻も早くヴァンの無茶苦茶な復讐を止め、これ以上人命が失われるのを阻止しなくてはならないのだ。実際のところ、それほど猶予はないはずだった。アクゼリュスほど一気に落ちることはなくても、ルグニカ平野を支えていたセフィロトツリーの消失により、セントビナーの崩落は着々と進行しているだろう。
 だが、頭の中から聞きたくもない声を払おうとすればするほど、そうやって焦れば焦るほど、今度は別の不安が次々と脳裏によぎっていく。

――レプリカ情報採取の時、被験体オリジナルに悪影響が出ることも皆無ではありません。最悪の場合、死にます。完全同位体なら、別の事象が起きる、という研究結果もありますが……

 ワイヨン鏡窟に取り残されていた、二体のチーグル。ジェイドは七年も影響が出ていないのなら大丈夫だと言ったが、一方で完全同位体での事例に関してははっきりと言葉にしなかった。それはフォミクリー技術の生みの親である彼自身、十分な知見をもっていなかったからなのか、口にするのが憚られる結果だからなのか判然としない。
 ただ、あの場にいたチーグルのように、アッシュには自分がゆるやかに消耗していっている実感があった。まるで複雑な譜術を使った後みたいに、自分と世界の輪郭がおぼろげになるような脱力感がある。これが一時的なものなのか、それとも更に進行していくものなのかはわからない。

(時間が、ないのかもしれない……)

 このオールドラントだけでなく、自分自身にも。その可能性に思い至るとひどく恐ろしかったが、アッシュには自分自身よりも守りたい相手と守りたい約束があった。だから心細さをねじ伏せて、恐れを抑え込んで、できる限りのことをする。そのために、アッシュは今再びダアトへと戻ってきていたのだった。

(ヴァンのいそうなところは当たったが、すべて徒労に終わってしまった。こうなったら先にモースのほうを抑えてしまうか、陸艦を奪って南ルグニカの人間を救助するかのどちらかだ)

 アクゼリュス崩落の後、自分が神託の盾オラクル騎士団内でどのような扱いになっているかは不明だが、正直あまりいい想像はできない。いくら上層部が腐っているにせよ、アッシュが単独行動を起こして軍紀を乱したのは客観的な事実であるし、師団長としての肩書を振りかざすことはもう難しいだろう。けれども、陸艦を動かすには人手がいる。そう多くなくていいが数人でいいから、アッシュに手を貸してくれる人間が必要だ。
 そう考えたときに、真っ先に思い浮かぶのはやはりアッシュとして・・・・・・・時間を共に過ごした特務師団の面々だった。あまり慣れ合うタイプではなかったアッシュだったけれども、今起きていることを説明して人助けに力を貸してほしいと伝えれば、ついて来てくれる者もいるのではないか。このままだと多くの命が失われることを知れば、考えを変える者もいるのではないか。

 アッシュは通り慣れた秘密の抜け道を使って、神託の盾オラクル騎士団本部へと戻る。人目を避けるように特務師団長の執務室へ滑り込めば、ちょうどそこにはよく知った部下の姿があった。

「っ、アッシュ師団長……!」

 仮面をつけているのは相変わらずだったけれども、彼女の驚きは伝わってくる。師団長、と呼ばれたただそれだけのことなのに、アッシュはひどく懐かしいような気分になった。

「フィーネ……」

 彼女にもきちんと預言スコアを憎む動機があって、この戦いにおいてヴァンの側として動いていることはわかっている。だがそれでも自分のように計画の全貌を知らされないまま、うまく利用されている可能性は残っていた。いや、むしろその可能性のほうが高いのではないかとアッシュは以前から思っていた。今こうして偶然二人きりになったのは、説得する絶好の機会ではないだろうか。

「フィーネ、聞いてくれ。単刀直入に言う、ヴァンの奴は――」
「光よ、フォトン!」
「っ!」

 しかし、説得のための言葉を続けるよりも早く、周囲が眩い光に包まれる。アッシュはしばらく顔を合わせないうちにすっかり忘れてしまっていたのだ。
 この年下の少女が、気短なアッシュよりもはるかに単刀直入な性質だということを――。

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