アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


59.美しき哉(143/151)

 ダアト式譜術は、歴代の導師にのみ継承されているというローレライ教団の秘術だ。一介の導師守護役フォンマスターガーディアンでしかないアニスにはそれがどういった類の術であるのかはわからなかったけれども、少なくともこれまでの教団の生活ではイオン様がダアト式譜術を積極的に使う機会はなかったように思う。

――どちらかといえば戦闘向きの譜術なので、あまり使う機会はないほうがいいのです

 実際、何かの折にイオン様がそうこぼしていたのを覚えている。そのときのイオン様はどこか遠くを見るような目をして、それから何か怖いものでも思い出したみたいにさっと俯いた。先代の導師エベノスは温厚な方として知られていたけれど、今よりずっと幼かったイオン様にとっては厳しい修行だったのかもしれない。

――安心してください、イオン様のことは私がしっかりお守りしますから
 
 アニスがそう言うと「ありがとう、頼りにしています」と彼はいつもの優しい表情に戻って微笑んだ。まっすぐで、温かくて、日向を思わせる柔らかな眼差し。アニスが普段他人に使うようなお愛想とは違って、イオン様の瞳には確かな信頼が見て取れた。だからこそイオン様に頼りにされるということは、アニスの胸にくすぐったい嬉しさを抱かせたものだった。

(私はイオン様の導師守護役フォンマスターガーディアン……ううん、一番の導師守護役フォンマスターガーディアンでいたい。いたいのに……)


 カースロットを解呪する間、アニスもマルクト兵と一緒に席を外すように言われた。ダアト式譜術は秘術だから、というイオン様の説明それ自体は筋が通っていたが、自身に後ろめたいところのあるアニスは身勝手なもやもやを抱えて閉ざされた扉を見つめる。

(流石にイオン様も私が怪しいって思い始めたのかな。やっぱり、私ってば警戒されてる?)

 ダアト式譜術は歴代の導師が使うだけあって、第七音素セブンスフォニムの素養が要る。ただでさえ希少な天賦の才に加えて、それを高度に使いこなす技量が必要とあっては、わざわざ秘匿しなくても多くの者にとっては使えない術だと思うのだ。しかも今となっては導師でもなんでもないシンクが使って、こちらを妨害している始末。事実上、六神将を始めとした神託の盾オラクルが実権を握っていて、もはや秘密でもなくなったそれを、使えないアニスに見せたところで大した問題にはならないのではないだろうか。

(六神将にダアト式譜術のことが漏れていても、イオン様は真面目だから規律を守ろうとするんだってわかるけど……わかるけどさ)

 不安が拭えない。裏切りがバレているのではと思わずにはいられない。テオルの森でフィーネと会ったことも、アニスの息苦しさに拍車をかけていた。これからアニスはフィーネと対峙するたびに暴露されることを恐れ、自分はフィーネを責めることのできる立場にはないという事実に苛まれ続けなければならないのだ。


「少し肩の力を抜いたらどうだ。傍にいられなくて導師が心配なのもわかるが、俺たちもこうして不審な人物がいないか見張っているんだし」
「……そうですねぇ〜」

 アニスが扉を見つめたまま、難しい顔ばかりしていたからだろう。一緒に待機することになったマルクト兵が気遣うような言葉をかけてきたが、アニスはそれにおざなりな返事をする。

「病のほうも、導師がきっとなんとかしてくださるさ。今代の導師は若いのにとても優秀な方だって、グランコクマでも有名だからな」
「えぇ、まぁ……」

 ガイのことももちろん心配だった。一癖も二癖もあるメンバーばかりの中で、彼はいっそ珍しいくらいに好青年だった。女性が異常に苦手、という難こそ抱えているものの、気の良い兄貴分のような親しみやすさと面倒見のよさがあって、アニスは素直にガイのことを頼りにしていた。ちょっとルークに対して過保護すぎるところもあったけれど、お互い主人のいる立場としては共感できるところでもある。何より、アクゼリュスの崩落を経た後でも、ルークがレプリカだと知った後でも、彼を支えることを選んだガイには尊敬の念も抱いた。

(だけど結局、ガイだってルークを殺したいくらい憎んでたってことなんだよね)

 謁見の間で、イオン様からカースロットの説明を聞いて衝撃だった。あんなにあれこれ世話を焼いていたのに。あんなに仲が良さそうだったのに。

(嘘つきなの、私だけじゃないじゃん)

 自分のことを棚に上げて騙されたと思ったし、同時にどこかほっとしてもいた。ガイのカースロットが無事に解けた後、このパーティは一体どうなってしまうのだろう。ずっと腹心だと思っていた相手に騙されていたルークは、一体ガイにどう接するのだろう。それほど深く憎まれていたと知って、これまでの楽しかった思い出を全部ひっくり返されて、どんな気持ちでいるのだろう。アニスはルークの心情を想像しようとして、胸が詰まっていくのを感じた。それはきっとこの先アニスがイオン様に味合わせる痛みと同じなのだろうと思うと、申し訳なくて、自分が情けなくて、今すぐにでも消えてしまいたくなった。思わず唇を噛み締めたのを見られたくなくて、アニスはつま先に視線を落とす。
 かちゃ、と扉が開く音がしたのは、それからいくらも経たないうちだった。

「……お待たせしました」
「イ、イオン様……! 大丈夫ですか?」

 ばっと勢いよく顔をあげたアニスは、慌てて彼に駆け寄る。ずっと頭の中を占めていた悪い想像が吹き飛んでしまうほど、部屋から出てきたイオン様の顔色は優れなかった。

「大丈夫です。僕はただ……少し疲れただけですから。それより、ガイのほうももう意識が戻っていますよ」
「それでは、お連れの方々にお伝えして参ります」
「はい、お願いします」

 マルクト兵たちに伝令を任せ、残ったアニスはイオン様と一緒に部屋の中に入る。別にアニスはこの問題の当事者ではないのに、どうしようもなく落ち着かない気持ちになっていた。ガイはなんて言うのだろう。自分はどんな反応をすればいいのだろう。もちろん、扉一枚隔てた距離だから、考え込んでいられるような余裕はない。
 ベッドから半身を起こしていたガイは、アニスと目が合うなり気まずそうに苦笑をした。

「その、なんていうか……色々迷惑かけちまったな」
 
 既にイオン様から状況を聞いたのか、ガイは意外なほど落ち着いて見えた。いや、顔つきも笑い方も、すっかり普段通りのガイと言ったほうが正しい。

「……びっくりしたよ」

 対して、アニスはそう返すのが精いっぱいだった。いつものアニスならわざと意地悪を言ってからかうところだったけれども、責めるでもなく、かといって心配したと言うでもなく、ただ毒にも薬にもならない感想を漏らすことしかできなかった。

「まぁ……そうだよな。うん……ルークもきっとびっくりしたろうし、酷く傷つけただろうな」
「……」

 言い方はガイらしくさっぱりしたものだったが、『傷つけた』と言う時だけガイは痛みを堪えるような表情になった。心底憎い相手に向けるにはあまりにも優しすぎる反応。それを見たアニスは、ガイも複雑なのだろうと思った。ただ憎いわけではない。ただ騙して、裏切って、腹の中であざ笑っていたわけではなく、ガイは今でもルークを思いやる心を持っているのだ。
 アニスはしばしの逡巡の末、ガイに何か言葉をかけようとした。彼を励ますような何か。詳しい事情はわからなかったけれど、彼の複雑な胸中に寄り添うような何かを。けれどもアニスが相応しい言葉を見つけきる前に、ばたばたと大きな足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。

「ガイ!」

 急いで駆けつけてきたというのがわかるくらい息を切らして、煩いくらい大きな声で名前を呼んで。
 勢いよく部屋になだれ込んできたルークはガイを見るなりほっとしたような顔をして、それからぐしゃりと表情を歪めた。

「ガイ、ごめん……」
「……ルーク?」
「俺……きっとおまえに嫌な思いさせてたんだろ。だから……」

 不安と罪悪感で瞳を揺らしながら、ルークはたどたどしく言葉を紡いだ。騙された側なのに、命を狙われていた側なのに、誠心誠意謝るルークの姿にはアニスも思わず呆気に取られてしまったくらいだ。

「……ははははっ、なんだよそれ」

 ガイも同じく驚いたのだろう。しばしの間があって、ガイは呆れたように笑った。そのくせ、まるで泣くのを我慢しているみたいにその声はほんの少し震えていた。

「……おまえのせいじゃないよ。俺がおまえのことを殺したいほど憎んでいたのは、おまえのせいじゃない」

 そう言って、彼はぽつぽつと自分の身の上話を始めた。ガイがマルクト出身であること。ホド戦争の際に、彼の一族はファブレ公爵に皆殺しにされたこと。だからファブレ家に入り込み、公爵子息であるルークを殺すことで復讐を果たそうとしたこと。ルーク本人に責はないとはいえ、動機としては十分理解できるものだろう。
 黙って話を聞き終えたルークは、苦しそうに眉根を寄せた。

「……そう、だったのか。……なら、やっぱガイは俺の傍なんて嫌なんじゃねぇか? 俺はレプリカとはいえ、ファブレ家の……」
「そんなことねーよ。そりゃ、まったくわだかまりがないと言えば嘘になるがな」
「だ、だけどよ」

 実際、筋で言えば、レプリカである彼にはファブレ家の罪は無関係だろう。それでも厄介なのがレプリカはオリジナルと同じ姿形をしているということで、ルークはしっかりと公爵の血筋を引いた顔立ちをしている。自分の存在自体がガイが不快にさせるのではないかとルークが思うのは当然だったし、彼には散々これまでガイを振り回してきた自覚もあるようだった。

「俺、なんにも知らないで、ガイがどんな気持ちで今まで一緒にいたかも知らないでさ――」
「言っただろ、おまえのせいじゃないって。別におまえに対しては、恨むとかそういうのはない。ただ、おまえが俺についてこられるのが嫌だってんなら、すっぱり離れるさ。そうでないなら……もう少し一緒に旅をさせてもらえないか? まだ、確認したいことがあるんだ」

 ルークがどんどん暗い顔をするからか、反対にガイは湿っぽさを吹き飛ばすような口調で言った。復讐のことを話して、どこか肩の荷が下りた気持ちもあったのかもしれない。そんなガイの態度につられるように、ルークも次第に表情の強張りをといていった。

「……わかった。ガイを信じる。いや……ガイ、信じてくれ、かな」
「はは、いいじゃねぇか、どっちだって」

 二人がうっすらと笑ったことで、部屋の空気が緩んだのを感じる。アニスも他の皆と同じように安堵していた。二人が憎しみあって決別する終わりにならなくてよかったと心底思う。ルークとガイの絆が見せかけだけのものではなくて本当によかったと思っている。だが――

(そんな簡単に赦しちゃって、いいの?)

 目の前で繰り広げられた美談に、じくりと胸が痛むのも本当だった。どうしようもない羨ましさがこみ上げてくるのを止められない。

「さて、いい感じに落ち着いたようですし、そろそろセントビナーに向かいましょうか」

 どうやら皆はこれから、住民救出のために崩落しかかっているセントビナーに向かうらしい。イオン様も参加を希望したため、もちろん導師守護役フォンマスターガーディアンであるアニスも彼らと一緒にセントビナーに行くことで話がついた。

(結局、後ろめたいのは私だけか……)

 もちろん人命のかかった大事な任務だということはわかっている。アニスだってアクゼリュスの悲劇を繰り返したくない。それなのに『らしい』と他人事のようにしか思えないのは、アニスがこのパーティーの一員である自信を持てないからに他ならなかった。

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