アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


58.信用できるもの(142/151)

 失態だ。みっともない。よりにもよってフィーネの前で。
 目の端を流れていく景色がぼやけるほどに、シンクはただまっすぐ前を向いて駆けていく。既にテオルの森を抜けたことはわかっていたが、足を止めるタイミングがわからなかった。身体を動かすことで傷口が開こうが、そんなことは今どうだってよかった。
 
「ねぇ、シンク、」

 追手はもういない。目指す目的地もない。黙ってついてきたフィーネもラルゴも、いい加減妙に思っていることだろう。後ろからかけられた声はもちろん耳に届いていて、息が弾んでいることまでしっかりと認識できている。それでもシンクは自分自身への苛立ちと情けなさを持て余して、一度それを無視した。いや、少し前にも声をかけられたような気がするから、二、三回は聞き流していたのかもしれない。

「もう、シンク、待ってってば!」
「っ、ぐ!」

 その結果、痺れを切らしたフィーネにぐい、と腕のベルトを掴まれて、思わず上体が後ろにかしぐ。かろうじて踏ん張ったものの、走っている人間に対してなかなか無茶なことをする。衝撃に思わず眉をしかめたシンクは足を止め、勢いのままに振り返って苛立った声をあげた。

「なにするんだよ、危ないだろ」
「だって、シンクが無視するから」

 ようやく止まってくれたと言わんばかりに、フィーネは膝に軽く手をついて上がった息を整える。睨みつけてやっても、ベルトの端は相変わらず掴んだまま。彼女は同意を求めるように後ろのラルゴをちらりと見て、それからまたシンクに向き直った。

「シンクが無視するからいけないんだよ」
「だからって実力行使が認められるわけじゃないだろ」
「逆の立場だったらシンクだって強引に止めるくせに」
「……で? そうまでして人を無理やり引き止めた用はなんなのさ」

 正直に言えば、フィーネの言いたいことは検討がついているし、ついているからこそ構われたくなかった。フィーネが引っ張った腕のベルトは左側。右利きの彼女なら右のほうが掴みやすかっただろうが、矢傷を負った右腕を避けたのだろう。それはごくごく当たり前の配慮だったけれども、シンクはまさにこの失態に対する感情を持て余して、足を止めるタイミングを逸していたのである。

「なにじゃないよ、ここまで来たらもういいでしょう。早く止血しないと」
「別にこれくらいどうってことない」
「ちょうど良さそうだから、このよくわからない紐借りるね」

 言いながらフィーネはベルトを手繰り寄せると、こちらの了承も得ないまま勝手にしゅるしゅると解きにかかる。

「よくわからない紐じゃない、これはベルトだ」

 お節介だとは思いつつ、それを手酷く振り払うほどにはシンクも未熟ではなかったし、フィーネと浅い仲でもない。だからこそ口から出たシンクの抗議は精彩を欠いていて、フィーネも真面目に聞く気がないみたいだった。

「敵の拘束にも使えるし、高所に登るときだって役立つ」
「掴むところにもなるし、止血もできるね」

 フィーネにしては饒舌な返しだ。
 少し乱暴に上着を引っぺがされたことも相まって、シンクはおや、と思った。「言うじゃない」そうやって口先だけ嘯きながら、シンクは伺うようにフィーネの表情を見る。なんだかいつもの彼女らしくない。しかしシンクがフィーネの感情を読み取るよりも早く、彼女はそのまま、彼女の中でもまとまってないだろうそれを言葉にした。

「だって、私、怒ってるんだから」
「……」
「シンクが怪我して、腹が立ってる。敵だから仕方ないってわかってても、あのお姫様に腹が立ってるの。無理に引き抜いて傷口を広げたのもなんでって思うし、素直に手当させてくれないのもむかつくの」

 矛先が取っ散らかった拙い怒りとは対照的に、フィーネの手際はよかった。傷口の様子にこそ一瞬眉をひそめていたものの、強すぎも弱すぎもしない加減で上腕をぎゅっと縛られて、シンクも思わず口を噤む。失態に囚われているのは自分だけだと頭ではわかっていたが、フィーネの直球な言葉はまさにそれを証明していた。いや、彼女ならば失態を詰らないだろうという信用があったからこそ、余計に情けない気持ちになるのだ。

「心配したの」
「……ま、上官がこの体たらくじゃ、先が心配になるのも当然だろうね」
「先のことじゃなくて、シンクのこと!」

 わかっている。わかっているが、シンクは思い切り口をへの字に曲げた。口を開けばまた心にもないことを言ってしまいそうだから、ある意味これが正解なのだった。
 
「はい、もういいよ。でもこれはあくまで応急処置だからね」
「……わかってるよ、ダアトに戻れば治療士ヒーラーに治させる」
「導師のことはもういいのか?」

 ひと段落着いたのを見てとってか、ラルゴが静かに口を開いた。お目当てのアッシュはいなかったものの、もう一つの目的である導師イオンをこのままにしておくのかと聞きたいようだった。

「導師は最悪替えがきく。先に開戦を進めたほうがアッシュも炙りだせるだろう」
「しかし、今頃奴らはマルクト皇帝に謁見しているんじゃないのか」
「心配しなくていいよ。モースがキムラスカの戦闘正当性証明をでっちあげるから、そうなればすぐにでも開戦さ。そもそもお姫サマがいくら直訴して熱弁しようと、本当に正当性証明が必要なのはご本人のほうだしね」
「……」

 それを聞いたラルゴは目を伏せたが、そこにシンクに対する怒りや不満の色は感じられなかった。彼の場合は年の功で抑えているというのもあるだろうが、どうにも感情表現に乏しい男である。いや、表現の問題というよりも、ラルゴが自分の娘に対して一体どういう感情を抱いているのかシンクは量りかねていた。ラルゴが世界と預言スコアに復讐心を抱いているのは理解しているが、何も知らない娘本人に対して怒りや憎しみがあるかは別の話に違いない。
 正式に王女ではないと証明されればナタリア本人は傷つくだろう。が、その代わりいずれ本当の父親としてラルゴに向き合う時が来る。今更だと思う気持ちの中に、ひと欠けらの望みもないことなんてあるのだろうか。幸せから無理に引きずり降ろしてでも、ようやく自分を見てくれたと仄暗い喜びを抱くことはないのだろうか。そんなふうにシンクは自分の物差しでしか、ラルゴの感情を想像することができない。推し量るために小さな石を投げこんでみても、いつも彼は呑み込んでしまうだけで何も跳ね返ってこないからだ。

「戦争のほうはいいとして、イオン様にセントビナーの崩落を邪魔されたりしない?」

 手当も済んだことだし、治療を受けるとシンクが言ったことで、幾分気持ちが落ち着いたらしい。良く言えばいつもの穏やかさを取り戻して、悪く言えば空気の読めないところを発揮して、黙り込んだラルゴの代わりにフィーネが会話を続ける。
 
「その、セフィロトツリーって逆に作り出せないのかなって。前にダアト式封咒だけ解いても意味ないって言ってたけど、セントビナーが落ちるってことは総長が弄れるようにしたってことでしょう?」
「へぇ、フィーネにしては冴えてるね。でも、そっちはヴァンが既に手を打ってる。シュレーの丘のパッセージリングには細工済みだそうだ」
「そう……それなら安心だね」

 実際のところ、セントビナーの崩落は必須のものではない。両国の軍を一気に片付けられるという点で効率的ではあるものの、ありがたいことにこの崩落がなくともキムラスカとマルクトが戦争を行い、殺し合って、いずれオールドラントごと障気に包まれて滅びるのは決定事項なのである。だからただ世界に復讐をしたいだけのシンクにとってはどちらでも構わないのだけれど、ヴァンならば必ず外殻大地の崩落を成し遂げるだろうと確信していた。

「まぁ、復讐心ほど信用できるものはないからね」



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mokuji