57.信条(141/151)
憎しみというのは、ぐらぐらと煮え立つような仄暗い緑色をしている――。
イオンがそんなふうに思うのは、その感情をまだ自分のものとして獲得したことがなく、自分の外側から一方的に向けられるものとしてしか知らないからだろう。ダアト式譜術の習得という名目だったため、実際にイオンが彼と接した期間はごくごく短いものだったし、常に第三者の監視がついていてやり取りだって最低限だった。けれどもイオンが他者の憎しみという感情を掴もうとしたとき、真っ先に思い浮かぶのはどうしても被験者イオンその人の瞳なのだった。
焼き尽くさんばかりの熱があって。突き刺さるような鋭さがあって。 あの瞳に正面から見つめられると、否が応でも一瞬息が止まりそうになる。彼から投げかけられる言葉も酷く棘のあるものばかりだったけれど、イオンに鮮烈な印象を残したのは言葉などではなかった。あの時既に自分はこの人の代わりを務めなければならないのだと教えられていたから、あまりに自分と違うことに途方にくれたのを覚えている。もちろん、向けられる感情の大きさに、ただ純粋に恐れ慄く気持ちもあった。
(ガイの瞳は、深く澄んだ青色をしているのに……)
だから実際には光の加減だろうに、イオンの強い思い込みがそうさせるのか、ルークに刃を向けたガイの瞳はあの底冷えのする緑色に見えた。焦点が定まっておらず、こちらの呼びかけにも応答しない彼が操られているのだということはわかっていたけれど、それでも彼を突き動かす感情は紛れもなく本物なのだとイオンはとてもよく知っていた。知っていたからこそ誤魔化したりなんてしないで、ルークにカースロットの説明をすることにしたのだ。
「手を貸してくださってありがとうございます」
グランコクマの城下町にある、宿屋の一室。 仕方のない事情があったとはいえ、今現在マルクト領に不法侵入したかどでイオンたちは捕虜という立場になっている。いくらジェイドの威光もあるとはいえ、不穏な動きをする神託の盾兵が目撃されていることを鑑みれば、フリングス将軍は随分と好意的に接してくれたことだろう。意識を失ったガイをベッドに寝かせてもらい、イオンはここまで案内をしてくれたマルクト兵たちに向き直る。もはや本当にお飾りとなってしまった導師という立場をかさに着るつもりは毛頭ないけれど、それでも教団の顔として常に落ち着いた態度でいることは、イオンに課せられた数少ない役割の一つであった。
「いえ、こちらこそ規則とはいえ、このような扱いになってしまい申し訳ありません。何か手当てに必要なものがあればお申し付けください」 「いいえ。今の情勢を思えば十分すぎるくらいです。ただ、一つお願いがありまして……解呪の際は僕一人にしていただけないでしょうか」
フリングス将軍の部下だけあって、兵士たちもとても実直で優しい人たちだった。ここまでのガイを運んでくれる手つきや、イオンやアニスに向けられる敬意の眼差しを見ればよくわかる。しかしだからこそ、忠実に命令を守るため室内で待機しようとしていたらしい彼らは、困ったように互いの顔を見合わせた。
「ですが……」 「その、我々としても導師様を疑っているわけではないのですが、お守りする意味もありまして……」 「ええ、わかっています」
しかしこれだけ堅牢に守りを固めているグランコクマにいる以上、そうそう危険なことは無いだろう。一応武器の類はすべて門のところで押収されているし、カースロットの性質上、ガイがイオンを攻撃するようなこともない。 イオンがもう一度丁寧に説得しようと口を開きかけると、すい、と横から割り込んだアニスが背伸びをするように胸を張った。
「イオン様の身は導師守護役である私がお守りしますから大丈夫です! もっちろん、妙な真似もしません。私たちは皇帝陛下にお会いしに来たんですから」
ダアトを出てから、どことなく固い雰囲気だった彼女。 イオンはまだはっきりと確信できていたわけではなかったが、彼女を苦しめている原因は自分にもあるのではないかと思い始めていた。導師守護役としての職責が、彼女に負担を強いているのではないか。 イオンはちょっと困りつつ、誤解を与えないといいと願いながらゆっくりと告げた。
「いえ、アニス。今回はあなたにも外で待機していてほしいのです」 「え……?」 「カースロットはダアト式譜術の一つです。ですから、その……たとえあなたであってもすべてをお見せするわけにはいかなくて」
たとえ目の前で見せたところで、誰にでもできる術ではない。それはそうなのだが、教団の秘密を守ることも導師の大事な職責だった。互いに嫌なものに縛られていると思いながらも、曲がったことをしたくないというのもイオンの本音だった。それに第七音素を使うと体力を消耗するから、あまり心配をかけたくもない。
「そ、そうですよね! 解呪ってなったら色々見せちゃいけない秘密もありますもんね! あ、でもでもぉ、私たちは扉の前で待機してますから、何かあったらすぐに呼んでくださいね!」
果たして、イオンの言葉はどのように伝わったのだろうか。
「はいじゃあそういうことですから、私たちは一緒に外で待ちましょう!」 「え、いやあの……」 「ほらほら行きますよっ」
半分捲し立てるような勢いで大きく頷いたアニスは、そのままマルクト兵も無理やり一緒に部屋の外へと押し出してしまう。結果的には彼らを説得する手間が省けたけれど、やはり彼女の様子はいつもどこか違って見えた。
「ありがとう」
イオンは自分で席を外してくれと頼んでおきながら、なぜかとても引き留めたいような気持ちに駆られた。だが、その理由をはっきりとさせられない以上、慌ただしく出て行ったアニスの後ろ姿を見送る。扉が完全に閉まり切ってしまうと、気分を切り替えるように小さく深呼吸をした。今は目の前のガイのことに集中しなければならなかった。カースロットを解呪するには、人体に隠されているフォンスロットに一気に第七音素を流し込む必要がある。理論自体はとてもシンプルだが、第七音素に適性のない者の身体に音素を注ぐのは非常にリスクが高く、きちんと体内で循環させて外に排出させる必要があるため、緻密なコントロールが求められるのだ。
(術をかけること自体は適切な知識とある程度の素養があればそれほど難しくない。もし、シンクが僕と同じなのだとしたら尚更だ)
あの仮面の下の瞳は、やはりぐらぐらと煮え立つような仄暗い緑色をしているのだろうか。 頭の中に過ったあの色の記憶は、イオンの胸を嫌でもざわめかせた。憎しみという感情を自分の物として今だ理解できないイオンには、あれほどの強い感情がとても恐ろしく、同時に悲しくも見える。亡くなってしまった被験者イオンとはついぞ分かり合う機会は得られなかったけれど、同じ立場の彼とならば――。
(僕たちは憎みあう必要なんてない。ガイとルークも、マルクトとキムラスカも、憎しみ以外の道が必ずあるはず)
イオンはガイの鎖骨の間あたりにそっと手をかざして、集中力を高めるように目を閉じる。カースロットの呪いそのものは、術を受けた彼の腕にあるのではない。呪いの根源たる憎しみも、外側から無理に与えられたものではない。 けれどもイオンは信じていた。ガイならばきっと乗り越えられる。今すぐにというのは難しいかもしれないし、もしかしたら一度ここで彼はルークの元を去ってしまうかもしれないけれど、それでもいつかきっと分かり合えるはずだ。 (そうであってほしいと、僕は思う)
たとえどれだけ頑固だと言われても、理想主義だと揶揄されても、それがイオンの譲れない信条なのだった。
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mokuji
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