アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


56.ずるいの感情(140/151)

 かくれんぼは昔から得意だった。
 絵に描いたようなお人好しであるアニスの両親は騙されて借金を背負うこともあったから、モースが肩代わりしてくれるまでは自宅に借金取りが訪ねてくることも珍しくなかったのだ。今のように両親が教団に住み込みで働く前で、アニス自身もまだ神託の盾オラクルに入るほどの実力が無かった頃。いくら人の善性を信じている両親でも流石に子供がこの場にいるべきでないと思ったのか、彼ら・・が来たときは隠れていなさい、と言ったものだ。だが、玄関を開けてそのまま部屋だという間取りで、他に寝室や子供部屋があるわけでもない家で、一体どこに隠れろというのだろう。狭いクローゼットの中で、アニスは両親が平謝りするのをただじっと聞いていた。相手もアニスの両親に払う意思があることはわかっているからそこまで酷いことはしなかったけれど、謝る両親の声を聞くのは心がガリガリと削られるような気分だった。

(悪いのは、私たちなんだ)

 人に親切にするのが当たり前なら、借りたものを返すのだって当たり前のことだ。そして借金に困っていたところを救われたのなら、恩を返すのだって当たり前だろう。個人的にいけ好かないとは思っていても、アニスは自分達一家がモースに助けられたということは理解している。家を差し押さえられて住むところが無くなっても教団内に部屋を与えられたおかげでなんとかなったし、家族そろって職を斡旋してもらった。何の実績もないアニスが導師守護役フォンマスターガーディアンになれたのだってモースの推薦があったからであるし、イオン様の動向を見張るのだって最初から全部織り込み済みだった。

(私は最初からモースの手先だったんだもん。何も変わってなんかない。騙してなんかない。私は……)

 悪くない、と言ってしまいたい。
 アクゼリュスでルークが同じことを言ったとき、強烈に腹が立ったのはなにも彼だけへ向けた感情ではなかったように思う。責任から、罪から、目をそらしているのはアニスも同じだった。だからルークに自分の弱さを重ねて酷いことを言ったし、自分が強くなれないから人は簡単に変われないはずだとまだ懐疑的でいる。それでもルークの言動が前とは変わっていることは認めざるを得なかったし、変わっていこうとしている彼が羨ましかった。
 そして、アニスが羨ましいと思ってしまう人物はもう一人いる。


「もうすぐ出口だぞ。神託の盾オラクルの奴、もう街に入っちまったのか?」
「マルクト兵が倒れていますわ」

 グランコクマの城壁も見え、あともう少しでテオルの森を抜けられるだろうというところで、ナタリアが前方に倒れている兵士の姿を見つける。結局アニスたちは一度もマルクト兵に見つかることなく上手くここまで辿り着いたが、目の前で人が倒れているとなれば無視もできない。けれどもそれは、善意を利用したお定まりの罠だった。治療のために駆け寄ったナタリアの頭上に、さっと黒い影がよぎる。

「ナタリアっ!」
「!」

 刃の煌めきに目を細めた彼女は、咄嗟に飛び退きすかさず弓を構える。姿を現したラルゴは攻撃をかわされたというのに、どこか満足そうに笑った。

「ふむ、お姫様にしてはいい反応だな」
「おまえは……」

 的は大きかった。襲ってきたのは向こうで、躊躇う理由もない。しかしナタリアが矢を放てなかったのは、すぐに別方向から二撃目があったからだ。

「危ない!」
「っ」

 貫流のようにまっすぐに繰り出された蹴りを、寸でのところで割り込んだルークが剣で受け止める。弾かれたフィーネはくるりと空中で一回転すると、こちらは悔しそうに唇を歪めた。

「侵入者はおまえたちだったのか、ラルゴ、フィーネ! グランコクマに何の用だ!」

 彼らに会うのはザオ遺跡以来だった。アニスはそこでフィーネに一方的に、友人と思わなくていいと告げられたのだ。そしてその宣言通り、今回も彼女は明らかな敵として立ちはだかっていた。アニスのことも、イオン様のことだって視界に入っているはずなのに、彼女は少しも揺らいでいないように見えた。

(ずるい……)

 そんなことを思ってしまうのはどうかしている。けれどもアニスは今、フィーネが羨ましくて仕方が無かった。堂々と敵になれる彼女が、後ろめたさを抱えずに『悪』でいられる彼女がずるく思えてどうしようもなかった。

「前ばかり気にしていてはいかんな、坊主」
「え?」

 だが、そうやって心をかき乱されている場合ではない。ラルゴの言葉にルークが振り返ったとき、既にガイは剣を振りかぶっていた。反応できたのはティアだけで、間一髪彼女がルークを突き飛ばさなければ、きっと恐ろしいことが起こっていただろう。

「う、うわっ、ガイ!?」
「ちょっとちょっとどうしちゃったの!?」
「いけません、カースロットです! どこかにシンクがいるはず……!」

 確かにイオン様の言う通り、ガイは正気を失っているようだった。普段は優し気な瞳が険しく眇められ、そのくせどこか虚ろである。ガイは再びルークに斬りかかり、ルークが避けても彼のみを執拗に狙って攻撃した。

「お、おい、ガイ! しっかりしろって!」

 ガイ相手に攻撃できないルークは、防戦一方で後ずさるしかない。だが、そうなれば当然背中はがら空きだ。ラルゴが挟み撃ちにしようとしたところをナタリアが素早く牽制する。頬を掠めた矢に、ラルゴはやはり愉快そうに笑った。

「ふははははっ! やってくれるな、姫!」
「仕方ない、ガイを眠らせるわ」
「だめ、させない」

 ルークはガイの攻撃を受け止めるだけで精いっぱいだし、ナタリアはラルゴの挟撃を止めている。フィーネの妨害のせいでティアが譜歌を歌う余裕はなさそうで、シンクが近くに潜んでいる以上、アニスもイオン様の傍を離れるわけにはいかなかった。しかし仮にこの場にシンクがいなかったり、逆にジェイドがいてくれたりしたとして、アニスはザオ遺跡のときのように立ち向かえただろうか。フィーネに向かって本気なの? どうしちゃったの? と叫んでぶつかっていくことができただろうか。

――どうしちゃったのって、アニスがグランコクマに行くことを教えてくれたんじゃない

 裏表のない物言いをするフィーネの口から、そんな言葉が出るかもしれないのが怖かった。だからアニスは何もできずに、譜術すら唱えることもできずに、ただ戦況を見守るしかなかった。「きゃっ、地震!」突然、唸るようにぐらぐらと地面が揺れなければ、ずっとそうやって突っ立っていることしかできなかっただろう。

「ナタリア、上!」

 大きな揺れに、敵も味方も踏ん張って動きを止める。ただ、ティアは何かに気づいたように顔を上げ、意を汲んだナタリアは素早くその方向へ矢を放った。

「っ、シンク!」

 フィーネが小さく悲鳴を上げるのと、がさと木々を揺らして黒い影が落下するのはほぼ同時だった。ナタリアの腕は揺れのさなかでも確かだったらしく、地面に降り立ったシンクの右腕には矢が突き刺さっている。

「……地震で気配を消しきれなかったか」
「っ、このっ!」
「待て、フィーネ。これ以上の騒ぎはこっちも本意じゃない。残念ながらハズレのほうの赤毛だ」

 シンクは言いながら矢を引き抜くと、矢柄をぼきりと折って地面へ打ち捨てる。諫められたフィーネは不服そうだったが、それは心配からくるもののようだった。『悪』のくせにそうやって、当たり前のように仲間の身を案じられる『普通さ』が、これまたずるいという感情をアニスに抱かせた。

「しかし、アクゼリュスと一緒に消滅したと思っていたが……大した生命力だな」
「ぬけぬけと! 街ひとつ消滅させておいて、よくもそんな……!」
「はき違えるな。消滅させたのはそこのレプリカだ」

 シンクは馬鹿にしたように鼻で笑う。それに対してルークは以前のように否定も言い訳もしなかった。カースロットの支配から解放されて意識を失ったガイを支えながら、まっすぐにシンクを睨んだ。

「おまえら、アッシュを探してるのか! あいつに何の用なんだ!」
「言ってるだろ、劣化品はお呼びじゃないよ」
「っ、確かに俺はレプリカだけど……でも、おまえらがやってることはおかしいよ、戦争とか、大地の崩落とか、こんなの滅茶苦茶じゃないか……!」
「フン、おかしいだって? おかしいのは世界のほうさ。死ぬために生まれてきたアンタなら、いい加減気づいてもいいんじゃない?」

 シンクのそれは物分かりの悪い子供に苛立つような、冷たい口調だった。馬鹿にするでも嘲笑うでもない。本気で目を覚ませと言わんばかりの物言いに、一瞬虚を突かれてルークが黙り込む。そのときだった。

「何の騒ぎだ!」

 生まれた静寂のお陰で、こちらに向かってくる複数の足音や鎧の音がよく聞こえる。シンクはかぶりを振ると、これ見よがしにため息をついた。

「フィーネ、ラルゴ。一旦退くよ」
「やむをえんな……」

 とうとうマルクト兵も侵入者に気がついたのだろう。シンク達はさっと身を翻し、テオルの森の奥へと消えていく。元よりグランコクマに用のある一行は、ここで身を隠すのは悪手でしかなかった。すぐにこちらにやってきたマルクト兵に囲まれ、抵抗の意思がないことを示すために両手を上げる。

「なんだ、お前たちは!」
「カーティス大佐をお待ちしていましたが、不審な人影を発見しここまで追ってきました」
「不審な人影? 先ほど逃げた連中のことか?」
「はい、神託の盾オラクル騎士団の者です。彼らと戦闘になって仲間が倒れました」

 ティアの説明に、兵士たちは今だ意識を失ったままのガイに視線をやる。それからぐるりと見まわし、真偽を確かめるように全員の顔を確認した。

「だが……おまえたちの中にも神託の盾オラクルの者がいるな。……怪しい奴らだ。連行するぞ」

 もはや神託の盾オラクルは一枚岩ではないのだが、説明できるはずもない。アニスがちらりと見上げると、イオン様も申し訳なさそうに小さく頷いた。


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