アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


A(150/151)

 いつの間にか終業後に部屋に行くのが当たり前になって、報告書の指導だなんて七面倒くさい理由づけすらとうに要らなくなっていて。
 それはもしかすると習慣、あるいはただの惰性だったのかもしれないけれど、とにかくシンクがフィーネの部屋を訪ねるのを躊躇したのは随分と久しぶりのことだった。原因はもちろん昼間の、あの厚顔無恥な兵士の発言のせいであって、冷静に考えればこれ以上ないほどに馬鹿馬鹿しくてくだらない話である。もとより、他人の性事情なんて知ったことではないし、知りたくもないのだ。というか、普通そういう話は大っぴらにしないものだし、詮索するのもタブーではないだろうか。

(……何事も無かったって顔をしてればいいだけだ)

 シンクは自分にそう言い聞かせると、仮面を着けてそっと自室を出た。別に何の約束をしているわけでもないのだから『行かない』という選択肢もあったのだけれど、普段と違う行動をとるのはそれはそれで意識したみたいで癪である。昼間の流れを何度思い返して見てもこちらに非はないと思うし、気まずい思いをするのはむしろフィーネでないと納得がいかない。そんなふうに半ば意地みたいな感情で、シンクは彼女に割り当てられた個室の扉をノックした。とはいえ、どうせフィーネのことだから、昼間のことなんて綺麗さっぱり忘れてあっけらかんとしているかもしれなかったが。

「は、はい」

 ノックをしてから返事がかえってくるのは早かったが、足音がこちらにやってくるまで数十秒。
 ようやく鍵の音がして扉が開いたかと思えば、それもわずか数センチばかりでしかなく、おまけに隙間から見えたフィーネはご丁寧に仮面までつけていた。

「えっ、シンク?」

 そしてフィーネはこちらが立っているのを見るなり、ひどく驚いたように声をあげた。

「なんで驚くんだよ、いつも来てるでしょ」
「い、いや、いつもならノックとかしないで勝手に入ってくるから」

 合鍵で、と駄目押しのように言われて、シンクはちょっと返事に窮した。確かにフィーネの言った通り、フィーネの部屋の合鍵をシンクは長らく借りっぱなし――どころかもはや私物化している。勝手にとまで言われると人聞きが悪いけれど、自分で入るのだってわざわざ開けてもらうのを待つのが面倒だったからだ。
 
「……忘れたんだよ、部屋に」

 ぶっきらぼうにそう返したシンクはズボンのポケットに手を突っ込んで、そこに体温で生ぬるくなった鍵があるのをこっそりと確かめる。実際フィーネが驚くのも無理はない話だった。余計なことに気を回しすぎて、普段通りでない行動をしてしまったのはシンクのほうだった。

「あぁ、そういうこと」

 一度納得すれば、それ以上深く追及されることもなく。
 部屋に入るとフィーネは普段通りにあっさりと仮面を外し、その横顔からも特に特筆すべき感情は読み取れなかった。
 やはり気まずい思いをしていたのは自分だけだったのかと思うと、シンクは余計にむかむかする。ノックなんてミスをしてしまった気恥ずかしさもあったかもしれない。もはや定位置となった椅子に腰を下ろし、同じように仮面を外したシンクはついつい棘のある口調になった。
 
「だいたいノックだったからって、他に誰が来るって言うんだよ」
「っ、それは……わからないじゃない」
「そう? フィーネの部屋にいて誰かが訪ねてきた記憶なんてほっとんど無いけど。今、フィーネが反論しようと思い浮かべてるのだってせいぜいアリエッタかアニスくらいのものでしょ」
「……」

 まさしく図星だったのだろう。黙ったフィーネに追い打ちをかけるように、狭い交友関係だねと鼻で笑えば、彼女はややあってそうだよ、と小さな声で言った。それは開き直りにしては、あまりにも勢いを欠いていた。

「……私は、シンクとは違うもん」
「違うってなにが」
「……」

 シンクが聞いても、フィーネは返事をせずにふいと視線を逸らす。それだけでなく普段滅多に手に取らない本を持って、こちらを無視するみたいにベッドに転がった。

「ちょっと」
「なに」
「まだ話の途中だっただろ」
「私、人付き合い慣れてないからわかんない」

 いけしゃあしゃあとそんなことを言ってのけて、フィーネは本から顔をあげない。珍しいことにいつもの無自覚なものと違って、わかりやすく喧嘩を売られているようだった。こちらをちらりとも見ようとしないフィーネの態度に、シンクはぴくりと頬を引きつらせる。最初あれだけ気まずい思いをしていたのはどこへやら、気づけばごく単純に腹を立てていた。

「そこまでわかっているならもっと一生懸命努力したほうがいいんじゃない? 目の前の相手ともろくに話そうとしないから、いつまでたってもフィーネは一人なんだよ」 

 売り言葉に買い言葉。そんな調子で、フィーネが普段最も気にしているところを突いてやる。

「……っ、ちょっと自分のほうが進んでるからって……」

 案の定今のはよく効いたらしく、フィーネはやっとシンクのほうを向いたが、その表情に浮かんでいたのは怒りではなかった。情けなく傷ついた顔をして何やら口の中でモゴモゴ言っていたかと思うと、次の瞬間ばさりと頭からシーツを引っ被る。

「もういい。シンクもこんなとこにいないでさ、行ってあげなよ」

 ほら、またすぐ逃げる。
 そう言って馬鹿にしてやりたいところだったが、それよりもシンクはフィーネの発言が気にかかった。そっちから急に冷たくしておいて何が『もういい』だ。

「行くってどこにさ」
「……」
「ふーん、無視するなんていい度胸だね」

 そっちがその気なら、無理にだって引きずり出してやる。
 シンクが椅子から立ち上がると、気配を察したのかフィーネは潜ったままシーツの端をぎゅっと握りこむ。身を守るように丸くなってまるで亀みたいだった。残念ながらシーツの甲羅はぺらぺらで、中の彼女の位置まで丸わかりだったけれど。

「ほら、早く答えなよ」

 手っ取り早く防御を崩すために、シンクはシーツの上からフィーネの腕を掴む。もちろん彼女は抵抗したが、シンクが腕をあらぬ方向へ捻るとすぐに悲鳴が上がった。

「痛い痛い!」
「抵抗するし、黙ってるからでしょ」
「シンクの馬鹿」

 ゆっくりと身を起こしたフィーネは、頭にシーツを被ったまま恨めしそうにこちらを見上げる。気が弱くて、自分が悪くない時ですら謝ってばかりいる彼女にしては、随分と好戦的な態度だった。

「それで、どこへ行けって?」
「……」
「なに、曲げ足りなかったの?」
「……っ、だから……」

 フィーネは言いたくなさそうに、ぎゅっと眉をしかめる。だが、そうやって隠されるとますます暴きたくなるのが人のさがと言うものだろう。シンクが無言で圧をかけ続けると、とうとうフィーネは眉だけでなく目まで固く瞑った。

「……だからその、恋人のとこ!」
「はいはい恋人のとこね……って、」

 ようやく口を割らせることができてすっきりした。シンクは煽るようにフィーネの言葉を反復したが、自分で声に出してみて初めて、そのありえない単語を理解し固まった。

「……は? 恋人だって?」
「……うん」
「は、はぁ? なんでいきなりそんな話になるんだよ!」
「だって、昼間……し、したって、そういうことじゃん」
「何がそういうことだよ、アンタ人の話聞いてた!?」

 蒸し返されたくなかった話題を一番されたくない誤解つきで引っ張り出され、シンクの声は思わずひっくり返る。

「いるなんて言ってないだろ!」

 物分かりの悪いフィーネにでもわかるようはっきり言っても、彼女はちっとも納得していない様子だった。

「でも……じゃあ、恋人じゃなくてもできるってことなの?」
「まぁ……そうでしょ」

 婚前交渉禁止だなんて、それこそお貴族様の世界だけの話だろう。それだって実際のところどれだけ守られているかわからないし、平民ともなれば言わずもがなである。流石に宗教自治区であるダアトにこそ無いけれど、他の街へ行けば娼館だって存在するのだ。恋人でないと絶対にそういうことができないわけではない。
 シンクはあくまで一般論として返事をしたが、それを聞いたフィーネは何やらじっと考え込んでいた。掴んでいたシーツを離して、ぺたんと座り込んだ自分の膝の上でそわそわと指を組んで。そうやって落ち着きのない態度を取るのは、何か言いにくいことがあるときの彼女の癖だった。

「じゃあ……私とも、できる?」

 一瞬目が合って、すぐに逸らされる。しかしながら今度のそれは拒絶や無視をするためのものではなかった。言ったフィーネの顔は真っ赤だったし、目の縁は潤んで今にも泣きそうだった。シンクもまた意味を理解すると、沸騰したみたいにかっと顔に血が集まるのを感じた。

「な……なに言ってるんだよ」

 急に喧嘩を売って来たかと思えば、今度は一体何なんだ。
 心臓が物凄い速さでリズムを刻みはじめ、流石に動揺を押し隠せない。しかも今は仮面も外してしまっているので、シンクは口元を手で覆ってなに言ってるんだよ、と繰り返すしかなかった。ついさっきまで互いに腹を立てていたはずなのに、こんな展開予想もしてない。
 しかしながらシンクが固まっているとまたフィーネは的外れな解釈をし、しどろもどろに言葉を続ける。

「なにって……わ、私、したこと無いから……シンクに、私のはじめての人になってほしくて」
「!!」

(は、はじめてのひと……)

 もちろんフィーネに経験がないことくらいは、昼間の会話がなくともわかっていたことだったけれど。
 改めて言われてしまうとその単語の破壊力は凄まじく、シンクもつられるようにしどろもどろになった。
 
「そういうのはもっとちゃんと……だいたいなんでボクと……」
「だって、いくら仮面をつけたままできるって言ってもうっかり顔を見られないとも限らないし……。シンクが恋人じゃなくてもできるってタイプなら、お、教えてくれないかなって……」
「お、教えるだって?」
「うん。シンクなら教えるの上手だし」

(教えるったって、報告書の書き方とはワケが違うだろ)

 そもそもフィーネが勘違いをしているだけで、シンクにだって経験はない。そもそも生まれて二年ちょっとのシンクになんでもかんでも教わろうとするほうがどうかしている。フィーネから告げられた理由になぜかちょっとがっかりしてしまった自分に気づかないふりをして、シンクはなんとか彼女を説得する方向に頭を切り替えようとした。こんな形で事に及んでしまうのは騙したみたいだし、なによりフィーネの為にならないと思ったからだ。

「そ、そんなくだらない理由なら、なにも無理に焦ることない……だろ。それこそ、好きな奴ができたときにでも貰ってもらえば」
「だから、その……」

 シンクがせっかく抗いがたい誘惑に打ち勝って真っ当なことを言ったのに、フィーネは引っ込みがつかないのかいやに食い下がる。相変わらず顔は真っ赤で小さく震えていたけれど、逃げ癖のある彼女にしては随分と頑張っていた。
 いや、努力しろとは言ったものの、まさかこんなところで頑張られるとは思ってもみなかった。

「えっと、そう言われても時間は限られてるし……。私だって……誰とも深い関係を築けないまま死ぬのは嫌だよ」
「……」
「こ、心残りがあると、計画も頑張れないかもだし……!」
「……」
「シンク以外に……こんなこと頼める人いないの、お願い」
「……それはそうでしょ」

 何を馬鹿なことを言ってるんだと思って聞いていたが、最後の発言には思わず口を挟まずにはいられない。他の奴に頼むなんて絶対許せなかった。フィーネ自身もいないと言ったけれど、前に彼女は預言スコアの件で、そう言った舌の根も乾かないうちにディストに頼むと言い出している。今回の件は流石に『無い』とは思うけれど、思いつめたフィーネが何をやらかすかはわかったものではなかった。

(他の奴に取られるくらいなら……)

 シンクの理性だってギリギリなのだ。さっさと処女を捨てたくて血迷った彼女が、もしも特務の奴らにそんなお願いを持ちかけたら、一体どれだけの人間が良心的な対応をするだろうか。はっきり言ってシンクだって、他人事ならさっさと抱けばいいと言うと思う。鴨が葱を背負って来るどころか、自分で鍋に入って火までかけている――彼女の頼み事はまさしくそんな内容だからだ。
 だが、そんなシンクの葛藤もいざ知らず、フィーネはもう一度震える声でお願い、と言った。

「………………そ、そこまで言うなら」

 結局ぐっ、とか、がっ、とか言葉にならない声を発して、最終的にシンクは陥落した。その頭の中では不可抗力だとか、これが考えられうる中で一番マシな結果だとか、今の返事を正当化する言葉が矢継ぎ早に浮かんでは消えていく。

「ほ、ほんと!? いいの!?」

 一方で、自分から頼み込んだくせに、いざシンクが承諾するとフィーネは飛び上がって驚いた。

「いいのって……フィーネこそ……」

 それはこっちの台詞だろう。ベッドの上に座り込んだままの彼女とばっちりと目があって、シンクは今更ながらごくりと唾をのむ。フィーネもまた悟ったかのように、一気に表情に焦りを浮かべた。

「ま、待って! 今日はまだ心の準備が……」
「あぁ、うん……」
「あ、明日の夜、部屋に来て」
「明日……」

(心の準備ができるの、早すぎるだろ)

 しかしながらこんな勢いでもないと、事は成せないのかもしれない。シンクはぎこちなく頷き、思いだしたように仮面を手に取った。

「じゃあ、今日はもう、戻るから……」
「お、おやすみ」

 半ば逃げるようにしてフィーネの部屋を出たシンクは、今しがたしたばかりの約束にまったく実感の湧かないまま、なんとか自分の部屋にまで帰り着いた。無意識にしっかりと鍵を施錠し、仮面を適当にそのあたりに投げ捨ててベッドに倒れこむ。一人になれば少しは落ち着くかと思ったのに、ずっと心臓はどくどくと煩いままだった。

「どうするんだよ、これ……」

 神経が高ぶって寝つけそうにないし、寝たら『明日』が来てしまうし。
 シンクは枕に顔を埋めて、言葉にならない苦悩の声を漏らす。

(絶対、こっちもシたことないってバレないようにしないと……)

 第三者から見れば、早くはじめてを捨てたいフィーネも、はじめてだとバレたくないシンクもどっちもどっちな悩みなのかもしれない。けれども十代前半の彼らにとっては、一晩中悩むのに十分すぎるほど深刻な問題なのであった。

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