アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


◆心置きなく@(149/151)

 神託の盾オラクル騎士団という組織の実権を、ヴァンの理想に賛同する者で掌握する。
 そういう事情でもなければ参謀総長と第五師団長が兼務になるはずもなく、当然それぞれの役職ごとに執務室が別に存在していた。しかしながらシンクの身体はもちろん一つしかないわけで、わざわざあっちの仕事はこの部屋で、こっちの仕事はあの部屋でと無駄に行き来するのはナンセンスでしかない。そのためシンクは普段ほぼ第五の執務室しか使っておらず、参謀総長に用のある他の師団の人間が第五の区画に足を運ぶのも珍しくないことだった。


「報告書は確かに受けとった。……で、これをフィーネに持ってこさせて、アッシュは一体どこをほっつき歩いてるワケ?」

 シンクはぱらぱらと書類めくって目立つ不備が無いことを確かめると、ひとまず未処理の案件置き場に適当に突っ込む。書類そのものはアッシュが作成したようで内容に関する不安はないが、つい最近もシンクは彼が勝手に騎士団を離れがちなことに苦言を呈し、報告書くらい自分で持ってこいと言ったばかりなのである。

「ええと、特に聞いてはないけど……たぶん二、三日もすればひょっこり帰ってくると思う」
「はぁ? 放し飼いの犬じゃないんだからさ、そんな話がまかり通るとでも思ってるの?」
「でもそうなんだもん……」

 不在の師団長の代わりに、とばっちりで叱られるのもいつの間にか師団長補佐の役目になってしまっている。フィーネは小さく肩を竦めてこそいたが、こちらもシンクに叱られることにはすっかり慣れたようだった。歯切れの悪い口ぶりほど、申し訳ないと思っていないのが丸わかりである。

「仕事さえちゃんとやってれば文句ないだろって」
「……規律って言葉を知らないのか、あの馬鹿は」
「そうやって怒ってばっかだから、アッシュ師団長はシンクのことが嫌いみたい」
「あっそ、こっちだって嫌いだよ。だいたいまるでボクが悪いみたいに言わないでくれる?」

 確かにアッシュとそりが合わないことは自覚しているし、シンクも不必要な当てこすりをすることもあるが、そもそも怒られるような真似をするほうに問題があるに決まっている。責任転嫁するなよとこれまた第三者であるフィーネに言えば、彼女は呆れたようにため息をついた。

「お互い嫌いなら、やっぱり会わないほうが平和でいいよ」
「へぇ、それでフィーネが代わりに叱られてやるって? アッシュも健気な部下を持ったねぇ」
「アッシュ師団長のためっていうか、私はシンクに会いたいし」
「……なんだよそれ」
「いや、放っておくと食事も休憩も摂らずに仕事してそうだから、死んでないか時々様子を見に行かないと」
「……」

 フィーネのことだからわかっていたけど、返ってきた答えに思わず眉間に皺が寄る。
 まったくもって大きなお世話だった。というか、死んでないか様子を見るってなんだ。
 反論するにもどこから手をつけていいかわからない有様で、とにかくフィーネを部屋から追い出そうとシンクが口を開きかけたとき、

「いやだ、死にたくない!」

 突然、執務室の扉を貫通して、廊下から随分と大きな声が聞こえてくる。その物騒な内容にシンクは口を閉ざし、フィーネも弾かれたように後ろを振り返った。

「な、なに今の」
「さぁ、知らないけど」
「何か揉め事……?」
「さぁ」

 面倒だなと思ってシンクが適当な返事をしていると、よせばいいのにフィーネは扉をほんの少し開けて外の様子を伺う。すると余計に声が通って、執務机に向かうシンクのところまで廊下の喧騒がしっかりと届いた。

「絶対無理だって! こんなの報告したら殺される!」
「だからって黙ってるわけにはいかないだろ」
「だとしても、来週でいいだろ。俺、今週末やっとデートに漕ぎつけたんだよ! 経験ないまま死ぬとか絶っ対いやだ、死ぬなら来週がいい!」

 ほらみろ、やっぱりくだらない。
 シンクは胸の内で毒づいた。しかしながらそこまで報告を躊躇するほどの『爆弾』を抱えられているとなると、このまま捨て置くわけにもいかないだろう。ばんと机に両手をついて立ち上がり、シンクも扉の方へと近づいた。すると何を考えているのか、フィーネが行く手を阻むように前に出る。

「待って。なんか可哀想だし、叱るのは来週にしてあげたら……?」
「はぁ? 可哀想なもんか。何をやったか知らないけどさ、迷惑かけられるのはこっちなんだよね」
「で、でも来週は死んでもいいって言ってるし、きっとそれくらいデート楽しみにしてるんだよ」
「別に殺すとは決まってない、『まだ』ね」
「だけど――」

 同情なんてしてやる義理もない。シンクがフィーネを避けて進もうとした瞬間、これまた恥も外聞もない大きな声が廊下に木霊した。

「絶対無理、死ぬ前にセックスしてみたいもん!」
「「!?」」

 騎士団は基本的に男所帯なので、その手の話題が上がること自体は珍しくない。だが不意打ちだったのと向かい合っている相手が相手なだけに気まずすぎて、シンクは思わず固まってしまった。そしてそれはどうやらフィーネのほうも同じらしく、話途中だった言葉を続けられずに絶句している。

「考えてみろよ、童貞とか恥ずかしいだろ! 死んでも死にきれねぇよ」
「そんな馬鹿でかい声で触れ回れるお前に恥とかないだろ。諦めろ、今の時点で無いならそう変わんねーから」
「いやだ、ホントに来週まで待ってくれ」

 シンクは少し迷ったのち、何も言わずにそっと扉を閉めた。今ここでヤツを引っ捕まえると、今度はこの部屋であの醜態が繰り広げられると思ったからだ。あの無神経でなりふり構わない態度を見るに、フィーネがいようが平気でこちらに同意を求めてくる可能性が高い。

「……」
「……」
「……特務のとこに戻れば?」
「えぇ、今出るのはちょっと勇気が要るというか……」

 フィーネはちらちらと扉の方へ視線をやって、小さく肩を竦めた。まだ気まずそうにしているものの、思っていたより普通の態度だ。やはり彼女も騎士団での生活が長いから、ある程度こういう話には免疫があるものなのだろうか。ほんの少し面白くない気持ちを抱えつつ、シンクは再び自分の仕事に向き合う。

「……あの、」
「わかった、居てもいいよ。ただし、さっきのヤツがもし入ってきたら出てって」
「う、うん……」

 居てもいいと言ったが、他に座るところがあるわけでもない。フィーネはしばらく所在なさげにその場に突っ立っていたが、しばらくして再度、あの……と控えめに口を開いた。

「……やっぱり、無いと恥ずかしいのかな」
「は?」
「だからその…………経験」
「……は?」
「だ、だから、えっちなこと」

 シンクの手の中で、ベキッとペンが嫌な音を立てた。
 こちらは何も経験が指す意味がわからなくて聞き返したわけではない。先ほどのヤツも大概直球だったが、フィーネもまた似たり寄ったりなものだった。そんな質問をできる神経が理解できないし、するにしたって相手を考えろよとも思う。だが、動揺したことを悟られるのも嫌で、シンクは文句を言う代わりに平静を装った。

「……ま、そうなんじゃない。要は誰とも深い関係を築けてないってことだからね」
「……」
「心配しなくても、友達すらまともにいないフィーネには関係ない話だよ」

 だからこの話はもう終わり。シンクはフィーネのほうを見もしないで引き出しから替えのペンを取り出したが、どうやらそれが彼女の気に障ったらしかった。喧嘩腰ではないけれど、少し恨めしそうな声が聞こえてくる。

「……シンクだって、無いくせに」
「っ、あのさ、フィーネと一緒にしないでくれる?」

 『無い』と認めたくなくて、咄嗟にそんな返しをした。だが、それを聞いたフィーネは、ぽかんと馬鹿みたいに口を開ける。

「え、じゃあ……」
「……」
「う、うそ!? シンク、恋人いたの!?」

 今更嘘だと言うのも格好悪く、かといってそういう相手がいると誤解されるのも嫌で。

「……別に、するのに恋人である必要はないでしょ」

 どんどんとドツボにハマっていく気がしたが、シンクは苦し紛れにそう言った。

「う……で、でも、顔とか譜陣とかも見せたってことだよね……」
「それだって別に見せなくたって――」
「わ、わかった。うん、大丈夫。あの……言ってくれなくても、うん、大丈夫」

 自分から吹っかけてきたくせに、フィーネは耳を手で塞いで聞きたくない、の意思表示をした。実際のところシンクだって語る内容を持たないので、話が終わってくれるに越したことは無い。ただ、フィーネの言う『大丈夫』が一体全体どう『大丈夫』なのかは相変わらず謎だった。

「わ、私、仕事に戻る」
「あぁ……」

 フィーネはおもむろにそう宣言すると、足早に部屋を出て行く。開いた扉の先はまだ煩かったけれど、それでも彼女はお構いなしの様子だった。

(なんなんだよ……)

 急にとんでもない話題をぶつけられたかと思えば、あんな拒否するような態度をとられて。
 ひとりぽつんと取り残されたシンクはしばし呆然としていたが、やがて今度はじわじわと腹が立ってくる。当然だがこの手の話題をフィーネとしたことなんてないから、もしかすると引かれてしまったのかもしれなかった。
 だが、それにしたって一体どうしろと。今回ばかりは後で『訂正』するのも難しい。
 シンクはもやもやとした気持ちを抱えたまま、手の中でおろしたての新しいペンを弄ぶ。

(あんな質問してくるほうが悪いだろ……いや、そもそもこんな話になったのは外の馬鹿どものせいで……)

 シンクは大きなため息をついて席を立つ。
 とにかくいまだにうるさい馬鹿の始末は、今週中に終えようと思ったのだった。

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