アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


50.正常性バイアス(134/151)

 久しぶりに帰還したダアトの街は、皮肉なくらいに穏やかだった。もちろんアクゼリュスで大きな事故があったという知らせは遠いこの地にまで届いているだろうが、預言スコアを信じる人々の間には、『きっと大丈夫だろう』というような根拠のない安心が見て取れる。キムラスカ王族の訃報も流れており、順当に考えれば戦争が起きてもおかしくないはずなのに、皆まだ自分たちに差し迫った危機だとは考えられないようだった。

(なぁんも知らない人たちは、呑気でいいよね)

 秘密裏にダアトを出奔した手前、大々的に戻ったとも言えず、アニスはまだ自分の両親に会っていなかった。だが、善良で他人の悪意など想像したことのない彼らも、きっと今回の事態をそこまで深刻には受け止めてはいないだろう。世界で今何が起きているかなんてちっとも知らなくて、たとえ何があっても清く正しく生きていれば、最終的には悪いようにはならないと信じきっている。モースが戦争を起こそうとしているなんて欠片も考えたこともないに違いない。自分たちの娘であるアニスが、まさか導師を裏切っているなんてことも――。

「……ス、」
「……」
「アニス、聞いているのか?」
「へっ、は、はい」

 不機嫌さを隠そうともしないモースの声に、アニスはハッとして背筋を伸ばした。そして上の空だったことを誤魔化すように、神妙そうに頷いて見せる。しかしながら他人に敬われることに慣れているモースは、アニスが意識を飛ばしていたことに目ざとく気がついたみたいだった。

「なんだ、元はと言えばお前がきちんと導師を見張っていないからこんな面倒なことになったのだぞ。無事であったからよかったものの、主を諫めもせず、あのような障気にまみれた街に同行するなど導師守護役フォンマスターガーディアンとして失格ではないか」
「……申し訳ございません」
 
――何が危険だ。戦争を起こそうとしているくせに。

 アニスは喉まで出かかった言葉を呑み込み、表情を見られないように項垂れた。モースの態度を見るに、アクゼリュスの崩落も知っていたようだし、ヴァンとモースはやはり繋がっていたのだろう。平和を掲げる教団の大詠師と、その騎士団の主席総長が戦争を手引きしようとしているなんて悪夢みたいな話だ。ワイヨン鏡窟で得られた情報より、ヴァンのほうはまだ他にも何か企んでいそうだったけれど、どのみちこの組織は根っこから腐っている。ただ、組織に対して不満があるのは、どうやらモースも同じらしかった。

「まったく、職務に対して不真面目な者が多くて嘆かわしい限りだ。第七譜石も見つからず、ヴァンも六神将も好き勝手に動くばかりでろくに連絡がつかぬ。この大事なときに、みな何をやっておるのだ」
「……」

 モースの話では、今現在ダアトに残っているのはリグレットだけらしかった。査問会にかけられたはずのアリエッタもとうに解放されたようで、崩落を引き起こした真犯人であるヴァンも、次いで指揮権のあるシンクも今は不在。フィーネも同じく姿を見かけることはなかったが、アニスの知らないうちに彼女は特務師団の師団長に就任していた。ワイヨン鏡窟を出た後、アッシュがアニスたちと一緒に戻らなくて大正解だったというわけだ。

「ただまぁ、お前がこのタイミングで導師とナタリア王女を連れて帰ってきたことは褒めてやろう。おかげでひとつ、頭痛のタネが消えた」
「……お二人はこのまま、ダアトで身柄を保護・・すると考えていいんでしょうか」
「あぁ、そうだ。あの導師は預言スコアがどれほど大切かわかっておられぬようなのでな。未来の選択肢の一つなどと妄言にかぶれて……預言スコアに従っていれば何の心配もないというのに、余計な選択肢など増やしてどうするのだ」

 見下すような気配を滲ませながらも、モースは心底憂いている口ぶりだった。預言スコアの遵守を妨げるような考えや行動を、彼はどうしても理解することができないらしい。
 アニスは視線を床に落としたまま、ぐっと唇を噛みしめた。

「……従うだけでは、救われない者もいるからじゃないですか」

 預言スコアに未来が詠まれているなら、その通りに生きたほうが安心だ。信心深い両親の元で生まれ育ったアニスはその考えにも同意するし、実際これまでは何の疑いもなく預言スコアのある生活を享受してきた。だが、モースの思想は行き過ぎていると思うし、アニス自身こんな状況になって、預言スコアさえ信じていればどうにかなると思えるほど楽観的でもない。楽観的でいたくとも、いられなかった。

「……今回の件、既に大勢の人が亡くなっています」

 モースにとっては街ひとつ落ちた程度のことかもしれないが、アニスは実際にこの目で障気の泥に沈んでいく人々を目にしている。いい加減感情を押し殺すのも限界だった。堪えきれずにアニスが声にあからさまな非難を滲ませると、モースは馬鹿にしたように鼻で笑う。
 
「そうだな。だが、おそらくそういう運命さだめの者たちだったのだろう」
「そんな……」
運命さだめでないというのなら、誰かのせいということになる。はて、それではタルタロスの兵が死ぬことになったのは誰のせいであろうか」
「……」

 知っている。そんなことはわかっている。預言スコアのせいにしたほうが楽だって。
 あらゆる選択の責任から逃げることができるから、人は預言スコアに縋りたくなるんだって。
 思わず黙り込んだアニスに釘を刺すように、モースはさらに言葉を続けた。

「心配せずとも、信じる者は救われるのだ。お前の両親だって敬虔な信者であったからこそ、私が救いの手を差し伸べたであろう?」
「……」
「お前も両親を見習って、正しく生きていれば何の心配も要らない。これから先も導師守護役フォンマスターガーディアンとして、あの導師が危険な真似をせぬようお守りしておればよいのだ」

 結局、アニスは消え入りそうな声で返事をした。

「……かしこまりました」

 預言スコアを妄信していればそれでいいなんて、モースが間違っていると思う。けれども両親のことを持ち出されると、アニスは彼に面と向かって楯突く勇気がなかった。戦争になればどのみち両親も危険に晒されるかもしれないが、中立のダアトであれば、ヴァンやモースのいるダアトであれば、滅多なことは起きないだろうと心のどこかで思っている自分がいる。戦争なんて漠然とした大きな話より、今目の前にいるこの男が両親に危害を加えることのほうが、よほど現実味があって恐ろしかった。

(イオン様……今頃、私の助けを待ってるんだろうな)

 モースの部屋を辞したアニスは、肩を落として長い廊下をとぼとぼと歩いた。
 一応、イオン様とナタリアが軟禁されたことについては大佐に連絡をしたし、六神将の動向含め、アニスだって自分なりに教団の様子は探っている。戦争を回避したい気持ちもあるし、そのためにイオン様をここからどうやって逃がすかについても頭を悩ませていた。

(要は私が逃がしたんだってバレなきゃいいよね。前みたいにイオン様を追いかけてダアトを出たってことにすれば一応モースを裏切ったことにはならないし、それで……)

――それでまた、情報を流すの? 

 モースを裏切らないということは、イオン様や他の皆を裏切るということだ。問題を先送りにしているだけで、結局のところは何の解決にもなっていない。両親に事情を話してダアトを出てもらうことも考えたが、もはや今となっては世界のどこにも安全な場所は無いように思えた。第一、モースが悪い奴だなんて、二人は絶対に信じないだろう。

「あーあ、助けてほしいのは私だよ」

 アニスは周囲に誰もいないことを確認すると、わざと声に出してよくある愚痴のように明るい調子で呟いてみた。そうやって自分をも騙さないと、うまく呼吸すらできないような気がしたのだった。

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