アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


49.焔が混ざって(133/151)

 見慣れた壁紙に、もはや足音の響き方すらよく知っている床。
 ダアトに戻ればこうなることはある程度予想していたものの、軟禁されてようやく、ゆっくりと考える時間ができたというのは皮肉なものだった。イオンは深くソファーに腰かけ、もう既に飽きるほど読んだ本のページをめくる。物思いにふけっていたから、視線は文字列をぼんやりとなぞるだけだった。

(消したい過去、か……)

 記憶粒子セルパーティクルの噴出する勢いを利用し、タルタロスで外殻大地へと戻ったイオンたちは、アッシュに協力する形でヴァンが通っていたというベルケンドの第一音機関研究所に向かった。協力関係になったからと言ってアッシュは何もかもを話してくれるわけではなかったけれど、彼は難しい顔をして、ただ一言、預言スコアを成就させることがヴァンの目的ではないはずだ、と言った。相手は曲がりなりにも神託の盾オラクルの主席総長だというのに、ヴァンが預言スコアを信奉するはずがないと確信しているようだった。
 そしてアッシュの疑念通りに、イオンたちはベルケンドで新たな事実を知ることになる。しかしながらその事実は敵のものというより、仲間の過去に関する衝撃的な内容だった。

――フォミクリーの研究者なら一度は試したいと思うはずじゃ! あんただってそうじゃろう、ジェイド・カーティス。いや、ジェイド・バルフォア博士! あんたはフォミクリーの生みの親じゃ! 何十体ものレプリカを造ったじゃろう!
 
 アッシュの誘拐に関与したという研究者――スピノザの捲し立てた言葉に、当の本人とアッシュを除いてその場にいた全員が驚いた。イオンだって、まさかこれほど身近にすべての始まりがいるなんて予想だにしていなかった。ルークという、自分以外の生きたレプリカの存在がいたことにも驚いたくらいなのに、これまで一緒に旅をしてきたジェイドが考案者だとは夢にも思うまい。しかしながら今になって思い返してみれば、彼はやたらと同位体研究に詳しい様子だった。ルークのことにもいち早く勘づいていたようだったし、彼の類まれな優秀さを思えば、レプリカ技術を編み出していたとしてもどことなく腹落ちする。

――すみませんねぇ。自分が同じ罪を犯したからといって、相手を庇ってやるような傷の舐めあいは趣味ではないんですよ

 そして糾弾――いや研究者同士の理解を求められたジェイドは、はっきりとフォミクリー研究を自分の罪だと認めた。動揺することもなく、眉一つ動かさないで、技術的にも道義的にも問題があったと言い切った。あのとき、イオンは思わず青ざめてしまったけれど、ジェイドは気づいただろうか。技術上、劣化の避けられなかったこの肉体の虚弱さに、疑念を抱かれてはいないだろうか。被験者オリジナルの人生を乗っ取り、多くの人を騙して生き続けるしかないのは、十分に人の道から外れた行いだろう。
 所詮は代わりに過ぎないという自分の立場を、イオンはきちんと弁えているつもりだった。だが、それでも目の前ではっきりと問題があったと言われて、急に足場がぐらつくような不安を覚えてしまったのだった。このままヴァンの目的を洗っていけば、いつか皆が導師の秘密にも辿り着いてしまうのではないか。

(だめだ、自分のことばかり考えている場合ではない……)

 イオンは小さく気づかれないようにため息をついて、形だけ開いていた本をぱたりと閉じる。残念なことに、レプリカの件はイオンとルークの二人だけで終わりそうにはなかった。ベルケンドを出た後、一行はフォミクリーの原料がとれるというワイヨン鏡窟に向かったのだが、奥にあった演算機からオールドラントの十分の一に相当する巨大なレプリカを造ろうとしている形跡を掴んだのだ。これだけではまだヴァンが何を考えているのか判然としなかったけれど、状況は既に戦争どうこうの域を超えていると考えていいだろう。
 頻発する地震に嫌な予感は募るばかりだった。特にイオンはアクゼリュス以外のセフィロトもいくつか開けてしまっている。ジェイドもアッシュも、ヴァンは他の外殻大地を落とす気なのだろう、と結論づけた。

――場所的に、ルークが消滅させたセフィロトツリーは南ルグニカ地方を支えていたはずだ。アクゼリュス近くだと……セントビナーもそろそろまずいかもしれない
――今すぐにでも陛下に報告して、住民を避難させる必要がありますね

 他の封咒があるから大丈夫だというイオンの考えは甘かった。アクゼリュス崩落で責められたのはルークばかりだったけれど、誰にも責められないイオンもまたそれはそれで苦しい。
 しかしながら、結局イオンにできることなどそう多くはないのだった。もう一度セフィロトの扉を封印したところで手遅れだろうし、いくら後悔しても消えてしまったセフィロトツリーを復活させることができるわけでもない。
 イオンにできるのはただ、この借り物の身分をかざして戦争回避の為に尽力することだった。今更国家同士の争い事などしている場合ではないと訴え、不戦のための導師詔勅を発令すること。それと合わせて中立のダアトからナタリア姫の無事を伝える必要もあって、イオンは彼女と共にダアトに戻った。ダアトに戻ったところで、再び己の無力さを思い知ることになったのだけれど。

「……やはりモースは、わたくし達を解放する気など欠片も無いのではないでしょうか」

 イオンが本を閉じたせいだろう。一緒に身柄を拘束されることとなったナタリアが、いい加減しびれを切らしたように口火を切る。一応、セフィロトに関する情報を集めるという建前で彼女にもいくつか書物を渡していたけれど、そろそろ誤魔化すのも限界だった。

「そう、ですね……。実質的には軟禁ということなのでしょう」

 イオンは小さく頷いて、ナタリアの言葉を肯定する。そうなればイオンの予想通り、彼女はすぐさま色めき立った。

「でしたら一刻も早くここを出ませんと! お父様にアクゼリュスで起きたことを報告して、戦争などしている場合ではないとわかっていただかなければなりませんわ!」
「待ってください、いくらなんでも二人だけで強行突破するのは危険です。おそらくアニスがジェイドに助けを求めてくれているはずですから、援軍が来るのを待ちましょう」
「ですが、それではいつになるか……むしろ、二人だけのほうが上手く紛れてしまえるかもしれませんわ。イオン様のことはわたくしがお守りします。ご安心なさって」
「ナタリア、どうか落ち着いてください」
 
 彼女が勇敢で民思いの姫であることを、イオンはこの旅で十分に知っている。実力だって決して軽んじているわけではない。しかしだからこそ彼女の強引な行動を危惧して、導師詔勅には準備がかかるのだと誤魔化し続けてきたのだ。

「……二人だからこそ、まずいのです。世間的にあなたは今、亡くなっていることになっています。下手に行動すれば、僕もあなたもこのまま秘密裏に消されてしまう可能性がある。預言スコア通りに戦争を起こすためなら、モースは手段を選んではくれません」
「そんな……わたくしだけでなく、導師まで亡き者にすると仰いますの……?」
「ええ。むしろ、導師こそ飾りのようなものですから。あなたにはあなたを慕っている民がいます。自国の為にも早まるべきではありません」
「……」

 イオンの心を尽くした説得に、ナタリアはしばし黙り込んだ。彼女はまだ焦りがあるようだったが、やがて何かを決心したように胸の前でぎゅっと拳を握りしめる。

「わかりました……。ここで無茶をしても仕方ありませんものね。ルークとの約束も、守れなくなってしまいますし……」
「ええ、それがいいと思います」

 ひとまず彼女を説き伏せることに成功して、イオンは内心ほっと胸を撫でおろす。ナタリアはソファーに深く座り直すと、物思いにふけるように遠くに視線をやった。

「ルークは……ヴァンの動向を引き続き探ると仰ってましたわね。モースとヴァンは今はもう繋がっていないと考えるべきなのかしら……」
「……六神将が僕を連れ出す許可をとろうとしていたようなので、完全に協力体制というわけでもなさそうです。ヴァンはモースのことも利用しているのかもしれません」
「ヴァンには本当に騙されましたわ。ルークだってあれほどヴァンを慕っていましたのに……あんまりです」
「……」

 ぽつりぽつりと語られるナタリアの話は、ルークとアッシュの件が混在しているように思えた。彼女が約束をした相手は、おそらく幼き日のアッシュだ。イオンの知るルークは魔界クリフォトにいるはずだから、ヴァンの動向を追っているルークというのもアッシュのことだ。幼馴染であるナタリアにしてみれば、『ルーク』とは当然本物のほうを指すのだろう。そう思ったから、イオンはアッシュの話としてそのまま会話を続けていたのに、最後の『ルーク』はアッシュでない人物を指しているように聞こえた。

「……今更ですけど、わたくし、薄情でしたわ。弱っているときに支え、間違ったときに正すというのも婚約者の務めですのに」

 そう言って俯いた彼女は、ひどく後悔しているように見えた。アッシュのことではない。ルークの、レプリカだったルークのことを思い浮かべているようだった。

「ナタリアも動揺していたのです。あれだけのことがあったのですから……それに、ルークはきっと戻ってきますよ。彼は責任感の強いひとです」

 イオンは戸惑いながらも、なんとか慰めの言葉を見つけようとする。ルークのことが気がかりなのはイオンも同じだった。唯一彼の気持ちを理解できると言っても過言ではない立場のくせに、彼が目覚めるまで待つことができず外殻大地へと来てしまった。

「そうですわね……。昔から、ルークはとても責任感が強くて……」

 ナタリアはそこまで言って、はっとしたように瞳を揺らす。ようやく二人を混ぜて話してしまっていることに気がついたのだろう。

「ごめんなさい、ややこしい言い方をして……」

 イオンは頷くしかなかった。気丈に振舞ってこそいるけれど、ナタリアもまだ混乱し続けているのだろう。いきなり幼馴染が偽物だったと聞かされて、はいそうですかと気持ちを切り替えられるわけがない。崩落、戦争という危機迫った事態に直面しているから余裕がないだけで、本当はこうしてゆっくりと気持ちを整理する時間が必要なのだ。

「本物の『ルーク』はアッシュでしたわ……。でも、わたくしは記憶がないなか、一から懸命に努力していたルークも知っていて……でも、その間アッシュはずっと一人で……」
「……」

 どちらかを選ぶことなどできない。
 吐露されたナタリアの苦悩はもっともだった。本来ならばイオンだって選ぶ必要はない、というところだったろう。自分自身がレプリカでなければどちらも本物のルークだと言っていたはずだし、実際イオンは二人に対して優劣をつける気など毛頭ない。
 ただ、その問題をひとたび自分と被験者オリジナルイオンに置き換えたとき、それでも自分が対等な存在であるとは言える気がしなかった。特にナタリアと同じように、昔から被験者オリジナルを知るアリエッタの前では、胸を張ってそう言い切れる自信がなかった。

「……ルークはガイが迎えに行きました。今のあなたは、アッシュを支えるのでもいいのではありませんか」

 イオンは逡巡したのち、ぽつりと的を外した慰めを吐いた。イオンが偉そうに彼女に説けることは何もない。ただ少しでもナタリアの気持ちが軽くなればいいと、そう願うことしかできないのだった。

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