48.呪いをかける(132/151)
長い間、うす暗い鏡窟の中にいたせいだろうか。 分厚い雲がかかっているせいで、外だって決して良い天気とは言えないのに、仮面を透過して目に飛び込んでくる光が眩しく感じられる。
「フィーネ、」 思わずシンクが目を細めた先、桟橋に腰をかけて足をぶらつかせていた彼女の後ろ姿は、ひどく所在なさそうに見えた。実際、特にやることもなかったのだろう。ぼうっと海を眺めていたらしいフィーネは、シンクの声にはっとしたように振り返る。
「用は済んだし、帰るよ」 「うん」 「血は止まった?」 「うん」
シンクの問いに、フィーネはいっそ大げさなくらいに頷いて。 額に大きなガーゼを張り付けた彼女の様子はなんとも滑稽でしかなかった。だがその怪我以上に滑稽なのは、表情から不安と緊張を隠しきれていないことだろう。
ディストと合流した後、結局フィーネは奥の研究施設までは着いてこず、船で待機することを選んだのだった。理由としては仮面が壊れたことや、怪我の手当てを挙げていたけれど、実際のところはまた怖気づいたのだと思う。勝手に自分のことを話されるのは嫌だけれど、かといって聞いた相手の反応を目の前で受け止める勇気もない。いかにもフィーネの考えそうなことだったから、それこそ彼女の好きにさせた。シンクとしてもフィーネがいないほうが、あれこれ言葉を選ばずに質問しやすかったというのもある。
――死産するはずの命だったんなら、それはそれで双子の片割れは死産だという預言が詠まれるはずなんじゃないの ――確かに、死産というのは胎児が子宮外で生存できる時期に達して死んだ場合のことです。表現が適切ではありませんでしたねぇ。預言に詠まれていないということは、彼女はヒトとして形成される以前に、誰にもその存在を知られず潰える命だったのかもしれません ――……もし、フィーネに本当に預言がないのなら、両親はすぐに双子のどちらを残すべきか判断できたんじゃないのか ――さぁ、私は預言を専門に研究している学者じゃありませんから。ですが預言は大筋の、『生まれた子が家を繁栄に導く』という結果を示したものです。まだどちらを捨てるか決まっていない段階に詠めば、どちらにも可能性があるとして双子に同じ預言が出たのかもしれません ――だとするとフィーネが預言から弾かれたのは…… ――ええ、そういう意味では生まれたときではなく、捨てられたときだと言えるでしょうね。今の彼女にはこの世界における定められた役割が存在しない。……おや、そう言えばあなただって似たようなものじゃないですか
ディストはそこまで語ると可笑しそうに笑った。それはたぶん、話しながら自分の仮説がしっくりきたことに対する喜びの表れだったのだろうが、シンクは腹の底がむかむかして仕方が無かった。と、同時に、やはりフィーネはこの場にいなくてよかったと思う。生まれてきたことそのものが間違いで、おまけに捨てられることで間違いだと確定した。その、どこにも希望を見いだすことができないやるせなさは、シンクだってよく知っている。 しかしながら話をすべて聞いたあとでも、シンクにはフィーネが何をそこまで恐れていたのかわからなかった。酷いのは預言を妄信する愚かな人間たちのほうで、フィーネ自身を不快に思う要素はどこにもない。 たっぷりと浮かない表情の彼女を眺めたあと、シンクは黙って彼女の目の前に手を突き出した。
「え」 「……」
フィーネは初め意味がわからなかったのか、きょとんとこちらを見上げるだけだった。だが、シンクが無言でもう一度突き出すと、ようやくおずおずとこちらの手を取った。遠慮がちに、指に指を引っ掛けるような掴まり方をしてきたので、やや強引に力を込めて引っ張り上げる。しかしそのせいで無理のある体勢になったのが良くなかったのか、フィーネが立ち上がろうとした瞬間、バキッと彼女の足元で嫌な音がした。
「わっ!?」 「!?」
潮風に浸食された桟橋はものの見事に一部崩れて、足場が不安定になったフィーネの身体がぐらりと傾ぐ。もちろんシンクにとっても予想外の出来事だったので、何かを考える余裕もなく反射的に動いていた。
「……び、びっくりした……」
背中に回ったフィーネの手が、ぎゅっとすがるように団服を掴んでいる。肩口のあたりで放心したように呟いた彼女の声が鼓膜を擽って、心臓がばくばくと早鐘を打った。 馬鹿みたいだった。戦いの中では平気で組み敷いていたくせに、今更この程度のことで動揺するなんて。
「ありがとう」
みっともないところを見せたとでも思ったのだろうか。少し気恥ずかしそうに礼を言った彼女は、すぐに身を離そうとした。だが、
「……シンク?」
早く離れなくてはいけない。 そう思うのに、まるで譜術にでもかかったみたいに身体が言うことを聞かない。腕の中のフィーネは温かく、シンクはまるで確かめるみたいに抱きすくめていた。生まれるはずがなかろうが、どれだけ世界に弾かれようが、フィーネは今確かにここに存在している。彼女のことを大事に想えば想うほど世界の理不尽さに腹が立ち、フィーネが怒れないというのなら、シンクが代わりに憎んで、喚き散らして、全部を滅茶苦茶にしてやりたいと思った。
「……一体、フィーネは何をそんなに怖がってたんだよ」 「え、」 「フィーネは何一つ悪くない、そうでしょ」
シンクがはき捨てるようにそう言うと、フィーネは小さく息を呑み、身を固くした。このままシンクが何も言いださなければ、自分から過去の話に触れるつもりはなかったのだろう。戸惑い、躊躇い、恐れるような間があった。だが、それでも離してやらずにいれば、次第に彼女の身体からゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
「……うん」
抱き合っているからフィーネの表情は見えなかった。ただ、ぽつり、ぽつりと呟くように、彼女は静かな声で話し始めた。
「……うん、ごめん……。私、シンクに気持ち悪いって思われるのが怖かったの」 「はぁ? 一体、なにをどう考えたらそうなるのさ」 「だって、私……本当なら赤ちゃんの時に死んでて……死体が蘇って動いてるようなものだと思ったら……」 「助かっただけだろ、別に死んで蘇ったわけじゃない」
結果的に生の苦しみを受けることになったのなら、助かったという表現は相応しくないのかもしれない。けれども、少なくともフィーネの解釈は間違っていると思うし、心配は的外れもいいところだ。 シンクはやっぱり馬鹿馬鹿しい理由だったと、呆れて深く息を吐いた。フィーネとは性格が違いすぎて、直接聞かなければ何を考えているのかわからない。そして逆にこちらからも、言わないと伝わらないのだろう。
「……あのさ、なんでも一つ言うことを聞くって話だけど、」
フィーネに対して望みを告げるのは、こんな機会でも無ければ無理だった。 ある種の呪いにも似たそれを、シンクは大きな自己矛盾を抱えたまま口にする。
「……何があっても、ボクより先に死ぬな」 「……」 「生憎だけど、フィーネは今生きてるんだよ。生きている以上、勝手に楽になるのは許さない。たとえそれが、預言を滅ぼしたあとだとしても」 「それは……」
どう考えても、たった一回の敗北との引き換えにしては重すぎる命令だった。フィーネが驚いたように少し身を引き、ようやく正面から向かい合う形になる。彼女は明らかに動揺しており、命令の内容に困り果てている様子だった。
「それは……約束できない、かも」 「しろ」 「でも……それこそ何があるかわからないし……」
フィーネは元々、預言のことを恨んではいなかったのだ。計画に関わったのも被験者の為で、奴が死んだことをきっかけに預言に対する憎しみを深めたと言っても過言ではない。彼女の目的はずっと被験者のための復讐だった。ゴールが預言の破壊だからこそ、レプリカ計画で命を落としていいと思えてしまうのだろうが、シンクはそれを許したくなかった。
「だったら――」
少し表現を変えてやろう。そう考えてもなお、素直に生きてくれとは言えない自分の頑迷さに、シンクは薄っすらと自嘲の笑みをこぼした。
「だったら、ボクが死ねって言ったときに死ね」 「それならまぁ……」
フィーネはまたもや驚いた顔をしたが、今度はすんなり頷いた。シンクにちっとも言う気がないことに――死ぬ許しが与えられる気配がないことにはまるで気がついてないみたいだった。
「いいよ、そういうのが必要な作戦もあると思うし」 「フィーネの使い道はボクが決める。いいな?」 「うん」
フィーネがはっきり承諾したのを聞いて、シンクはようやくそっと回していた腕をほどいた。生ぬるい潮風が吹きつけてきて、桟橋がみしみしと音を立てる。
「……ありがとう。私、シンクに救われてばっかりだ」 「大袈裟だ、こんなちょっと落ちかけたくらいで」 「ううん……いや、うん……」
何かを言いかけたフィーネは、途中で目を伏せ、頷いた。それから次に視線を上げたとき、はっとしたような表情になって慌てて後ろを向いた。
「?」 「もーー! 今度はなーにをイチャついてるんですか! 音譜盤を運ぶの、手伝ってくださいよ!」
(……またディストか)
騒々しい声に振り返れば、施設の情報をかき集めてきたらしいディストが大量の音譜盤とともに浮遊してくる。
「フィーネ、あなた何しに来たんですか。ほら、さっさと手伝って!」 「す、すみません! 私今、仮面が……」 「あなたの顔なんて私にはどうでもいいですし、親を知ってる以上だいたい予想がつきます。データのほうが大事に決まってるんですから、ごちゃごちゃ言ってないで、ほら!」 「は、はい」
ディストに怒鳴られて、仕方なさそうにフィーネは向き直った。実際、ディストはフィーネの顔を見ても何の反応も示さなかったけれど、よくもまぁズケズケと酷いことを言うものだ。フィーネの背景を知っていて、少なからず関わってもいて、それで何の気遣いもないというディストの神経を少し疑いたくもなる。
「……あんな奴でもまだ、『様』付けする気?」
思わず普段の自分の言動を棚に上げて、シンクはフィーネに問いかけた。聞かれた彼女はというとぱちぱちと瞬きをし、困ったように苦笑する。
「まぁ、悪い人ってわけではないし……」 「……」
案の定、彼女から返ってきた言葉はいつも通りの甘さだった。
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mokuji
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