アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


38.変化(122/151)

――イオンばっかりずるい、私にもダアト式譜術を教えてほしい

 遠い昔、フィーネがイオンに憧れて武の道に進んだ後、一度だけそうやってイオンにねだったことがある。今から考えれば歴代導師のみに継承される技を教えろなんて無茶を言ったと反省しているけれど、そのときのフィーネは単純に強くなりたくて、イオンがなにかすごい秘密の技を知っているくらいの認識だったのだ。だからこそ、ずるいなんていう短絡的な発言に結びついたわけだったが、もちろんそれを聞いたイオンはいい顔をしなかった。

――はぁ? 何言ってるの、無理に決まってるでしょ。それに、ずるいってなに?

 あからさまに気分を害した様子で睨まれて、フィーネは思わず首を竦めた。フィーネも預言スコアで人生を狂わされた被害者であるとわかって以来、イオンの態度は随分と変わったけれど、元々彼は性格に苛烈なところがある。

――だって……

 口ごもるフィーネに、イオンは片頬だけで笑って見せた。

――まさか僕が強いのは、ダアト式譜術のお陰だって思ってる? 自分の努力不足を棚に上げて、よくそんなこと思えるね
――……
――それに忘れたの? フィーネには第七音素セブンスフォニムの適性がないんだよ? 教えたところで、フィーネには使えっこないね
――……っ、まったく無いわけじゃないもん
――へぇ、そう。じゃあなんでお前は孤児院ここにいるんだろうね。今頃お前の片割れは、マルクトの屋敷で両親と一緒に過ごしてるだろうにさぁ

 ひどい。
 それと同時にまずい、と思った。親しくなってからもイオンの皮肉は相変わらずだったけれど、ここまで明確な悪意を向けられるのは久しぶりだった。ダアト式譜術をずるいと言ったのがそんなに気に障ったのだろうか。イオンの努力を無視したことに腹が立ったのだろうか。フィーネは傷つき、戸惑い、どうしたらいいかわからなくて咄嗟にその場から逃げようとした。だが、

――そんなに強くなりたいなら、今から稽古をつけてあげるよ

 顔は笑っていても、目の奥が笑っていない。
 結局、イオンは言葉で甚振るだけでは許してくれなかった。



(あの時のイオン、ほんとに容赦なかったな……)

 今になって思えば、あれでも一応手加減してくれていたのだとは思う。それでも当時のフィーネからすれば一方的にボコボコにされたわけであり、それ以来絶対ダアト式譜術のことを口にしないと心に誓った。イオンのほうも、実力差的に使うまでもないということだったのかもしれないが、フィーネ相手にダアト式譜術を使うことはなかった。
 だから、フィーネがそれをしっかり自分の目で見たのは、シンクにかけられたカースロットが初めて。そして今はそのシンクが、ガイに向かって容赦なく使用しているところだった。

「……思ったより抵抗が激しいな」

 ケセドニアにある、マルクト帝国の領事館。シンクとフィーネは外から動向を探っていたのだが、術者のシンク曰く、ガイは必死でカースロットの力に抗っているらしい。

「むしろ、ちゃんと効いたんだ」

 無理を言ってシンクに着いてきたものの、あちらの姿が見えない以上、フィーネには何が起こっているのかわからない。
 暇を持て余して半分独り言の気分で呟くと、シンクは気分を害したように鼻を鳴らした。

「……劣化品でもそれなりにね」
「いや、恨みとか復讐心のきっかけが必要だって言ってたから、誰にでも効くわけじゃないと思って……」

 シンクもまた使い方こそ教えてくれなかったが、聞けばカースロットの説明くらいはしてくれた。もっとも話を聞く限りでは、好き好んで使いたいと思うような術ではなかったけれど。

「人を恨むことくらい、誰にだってあるだろ。ましてやあのガイって男は、レプリカの使用人だったんだ。相当鬱憤も溜まってたことだろうさ」
「仲良さそうに見えるのに……」
「見えるだけ、ってことでしょ。フィーネだって、」

 言いかけて、シンクはそこでぱっと口を閉ざした。

「それで、この後どうする?」

 代わりに、フィーネが急いで口を開く。シンクの発言を遮りたかったのか、気まずい空気を回避したかったのか、自分でもよくわからない。仮面越しでもシンクに見られている、とはっきり感じた。探るような、伺うような雰囲気に、フィーネはまた慌てて言葉を続ける。

「このまま追いかける?」
「いや、いい……。陸艦でカイツールの港につけるのは目立ちすぎる。ちょうどリグレットがヴァンを迎えにアクゼリュスに向かっているから、そっちとぶつかるほうが早いだろう。もしそれが駄目でも、どうせ奴らは崩落に巻き込まれるだろうしね」
「……そう」

 崩落、という単語に、フィーネの心臓はぎゅっと竦んだ。ただ、それはほんの一瞬のことで、後からじわじわと脱力感が込み上げてくる。

「じゃあ……ザオ遺跡でちゃんとさよならを言えばよかった」

 フィーネがそう言うと、シンクはちょっと驚いたように口をすぼめた。

「らしくない皮肉だね」

 もしかしたら強がっているように聞こえたのかもしれない。しかし正直な話、フィーネには皮肉のつもりも強がりのつもりもなかった。信じられないことに、むしろどこかほっとすらしている。

(……崩落なら、私が直接アニスたちを殺すわけじゃない)

 セフィロトの封印解除を手伝っている以上、間接的には死に導いているのかもしれない。そうでなくてもこの先起こることを知って黙っているのだから、見殺しには変わりないのかもしれない。それでもやはり直接戦って命を奪うのと、崩落に巻き込まれて死んでしまうのでは気分が違う。卑怯だとはわかっていても、どうしてもそう思ってしまう。

「別に、皮肉ってわけじゃないよ」

 否定したものの、不思議そうにしているシンクに本当のことを言うかどうか迷った。けれどもやっぱりそんな卑怯なことを言って、シンクに軽蔑されたり嫌われたりするのは嫌だと思った。

「……ただ、ここまで計画外のことばっかりだったから、ようやくこの時が来たんだって思っただけ」
「確かにあの赤毛たちのせいで、こっちは散々だったからな。そもそも軟禁されてるはずのレプリカが、タルタロスに乗っていたのがおかしい。あそこから全部狂い始めたんだ」
「その前に私は、イオン様がダアトを抜け出すなんて思いもしなかったよ」

 こんなに敵対することになるとも思っていなかった。フィーネの目指すレプリカ世界には、彼もそのまま存在するはずだった。
 俯いたフィーネの視線の先で、シンクの靴がざり、と砂を引っかく。

「……結局、レプリカはちゃんと歪みを生み出しているってワケか。それもかなり迷惑な形で」

 シンクの嘲笑の中には、明らかな自嘲も含まれている。できればこれが同情と受け取られませんようにと願いながら、フィーネは彼の横顔を見つめた。

「確かに計画においては迷惑なことが多いけど、悪い歪みばっかりじゃないと思うよ」
「残念だけど、歪みって時点でろくでもないんだよ。ヴァンの理想だってはっきり言って正気じゃない。ただ、預言スコアとこの世界をめちゃくちゃにしてやるってところで、利害が一致しているだけだ」
「じゃあ……歪みじゃなくて変化って言いたい。少なくとも、私はシンクのお陰で変わったよ」
「……」

 表現を変えたところで、所詮は詭弁だと言われると思っていた。だが意外にもシンクはすぐに言い返してこず、何かを躊躇うようにしばらく黙り込む。そしてようやく口を開いたかと思えば、

「でも……フィーネはその変化のせいで、苦しそうじゃないか」

 彼にしては随分と歯切れの悪い反論をするものだから、フィーネはちょっと呆気に取られてしまった。シンクの口ぶりはまるで、フィーネの苦しみが自分のせいであると言わんばかりのものだった。

「いや、私が苦しいのは私の問題だから……」

 確かにコーラル城で突きつけられた選択は苦しいものだったけれど、元を正せばフィーネの甘さや優柔不断さが招いたことである。そもそもレプリカ計画に乗ると決めたのも自分だし、この先どんな辛いことがあってもシンクのせいにしようなんて思わない。
 
「だから、別にシンクは関係ないよ」

 本当にシンクのせいではないから、責任を感じる必要はない。気にしなくていい。
 フィーネは純粋にそういう思いから発言したのだったけれど、自分の言葉選びがあまり良くないということをすっかり失念していた。

「……アンタはいつもそうだ」
 
 返ってきたシンクの声が一段低くなっていて、咄嗟にまずい、と思う。名前で呼ばれなかったのも、彼がかなり怒っている証拠だろう。流石に逃げ出そうとまでは思わなかったけれど、既にフィーネの頭の中はどうしようでいっぱいになっていた。

「人にはずかずかと踏み込んでくるくせに、自分のこととなったら全部それだ。いつも大丈夫って言うばっかりで……挙句に今度は関係ないだって?」
「……えっと、その、」
「いいよ、ボクの思い上がりだったってことでしょ」

 シンクはそう言うと、一人で歩きだしていってしまった。確かにルーク達を追わないと言っていたし、もうここに残っている理由もないだろう。
 領事館からどんどんと離れていくシンクの後を、フィーネもまた慌てて追いかける。

「ま、待って。思い上がりって何のこと?」
「ボクのことなんてどうでもいいんでしょ」
「私、そんなこと言ってないよ。シンクのお陰で変わったけど、確かに変わったことで苦しいこともあったけど……それをシンクのせいだと思ってないって言いたかっただけなの」
「……」
「……もしかして、シンクのせいのほうが、よかった?」
 
 フィーネが落ち込むと機嫌がよくなるシンクのことだ。落ち込ませた原因が自分であれば、尚更愉快だったのにということなのだろうか。

「……どうせならね」

 シンクはフィーネの問いにぴたりと足を止めたけれど、返事は背中越しだった。

「同じ苦しむなら、ボクのせいで苦しんでるほうがいい」
「……わ、わかった」
「何が? きっとわかってないよ、フィーネは」

 それはせせら笑うような口調だった。それでも、名前を呼ばれてフィーネは少しほっとした。

「あのね、シンクって難しいんだよ。わかりたくても、全然わからないの」

 つくづく自分とは正反対だと思う。似たような痛みを抱えていても、考え方や感じ方があまりに違いすぎる。一方で、二人が違っていたからこそ、フィーネは変わることができたのだと思う。

「そうだ、私、シンクの理解に一番苦しめられてるよ」
「……まるで朗報みたいに言わないでくれない? 喧嘩売ってるだろ、それ」
「えっ、なんで」
「はぁ……もういい」

 いつのまにか、シンクは普段の調子に戻っていた。呆れてどうでもよくなってしまったのだろうか。もう怒ってはいないのだろうか。

「いいなら、いいけど……」

 しかしながら流石にフィーネも学習して、機嫌が直ったかどうかを本人に確認するのは、やめておくことにしたのだった。


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