アンチ・アンチナタリズム
- ナノ -


36.封咒(120/151)

 久しぶりに近くで見たナタリアは記憶のまま変わらずに、気高く、優雅で、芯の強さを感じさせる女性へと成長していた。まさか一国の姫君がこんな砂漠の遺跡にまでついてくるとは思わなかったけれど、彼女が行動力と正義感に溢れているのは昔からのことだ。
 弓の扱いもアッシュが知る頃からとても上手くなっていて、もはや彼女の婚約者ではないのに、まるで自分のことのように誇らしい。誘拐されて以来、何もかもが一変してしまった世界の中で、ナタリアだけは変わっていないように見えた。それがどれほどアッシュにとって嬉しいことだったか、言うまでもないことだろう。

 もしかしてナタリアならば自分に気づいてくれるのではないか。アッシュが、アッシュこそが本当の『ルーク・フォン・ファブレ』だとわかってくれるのではないか。

 一瞬、そんな淡い期待すら抱いてしまったが、同時にアッシュは今の自分を彼女に知られたくないと思った。『鮮血のアッシュ』などという灰色の人生で、彼女の中にあるかつての『ルーク』像を塗り替えてしまうのが恐ろしい。ましてや事情を話せない中で敵対してしまっている今、彼女に疑われたり、軽蔑されたりするようなことがあれば、アッシュはとても耐えられないと思ったのだった。


「……行ったか。思ったより手こずらされたね」

 足音が完全に遠ざかり、しばらく経っても奴らが引き返してくる気配はない。シンクがぽつりと呟いたのを聞いて、アッシュは無意識のうちに目をそらした。ザオ遺跡に奴らを誘導したときは、まさかここまで苦戦させられるとは思わなかったが、それでもシンクがあっさりと導師を解放したのは意外だった。今後もセフィロトの封印を解除するにあたって、どうしても導師の存在は必要になるだろう。

治療士ヒーラーが二人もいるのは厄介だな。ヴァンの妹と、あと地味にあのナタリアって女も使ってたね」
「ナタリア……」
「あぁそうか。たぶんあれが王女サマだよ。因縁だね、ラルゴ」

 だが、導師の件を問いただすより先に目の前で気になる会話が繰り広げられる。内容が内容なだけに、アッシュは完全に意識が引っ張られた。

「……おいラルゴ、おまえ、ナタリアと何か関係があるのか?」

 因縁という言葉が良い意味であるはずがないので、尚更気になって仕方がなかった。しかしながらラルゴまでもが、アッシュを一瞥するとふいと視線を外す。

「……さて、昔のことだ。忘れてしまった」
「六神将は互いの過去を知る必要はない。アンタだってそれが身に染みているだろ? 『聖なる焔』の燃えカスであるアンタならね……」
「チッ……」

 本当にこいつは何も話さないくせに、余計なところで口の回る奴だ。アッシュがシンクをきつく睨みつけると、シンクはわざとらしく肩を竦める。

「そんなことより、確認したかったんじゃないの?」
「なにがだ」
「なにってセフィロトの件に決まってるだろ。好きに入って調べれば? アンタの気が済むまで待っててあげるからさ」

 イオンが言っていた、ダアト式封咒だけ解いても無意味であるという話――。
 確かにシンクの言う通り、本当に無意味であればヴァンが命じるはずがないのだが、セフィロト内部を調べるにはちょうどいい機会である。むしろシンクはシュレーの丘で散々調べ尽くしたからか、封印が解けたセフィロトにはもう用がないみたいだった。

「そうだな、調べさせてもらう」

 どうやらラルゴもフィーネも、セフィロトの内部にまではついてくる気がないらしい。封印の解けた扉をぐくりぬけると、中は一転して明るかった。壁や床には一面に複雑な文様が描かれており、ここが特別な場所であるという雰囲気がひしひしと伝わってくる。幸いにして、目当てのセフィロトまではほとんど一本道で迷うことはなかった。道なりに最奥まで進むと、やがて巨大な音機関が目の前に現れる。

(これがパッセージリングなのか)

 今やもう、はるか昔に失われてしまった創世歴時代の技術。音機関にはさほど興味のないアッシュでも、この光景には圧倒される。下手にいじくるつもりはなかったが、恐る恐る操作盤へと近づいた。だが、それはただの石の置物のように沈黙したままで、まったく何の反応もない。
 結局アッシュは十分ほどパッセージリングの前で粘ったが、これと言ってめぼしい情報は得られなかった。強いて言えばこの無反応が、イオンが言った通り『意味がない』ということの証左ではないかということくらいだ。

「……何も起こらなかったぞ。こんなので本当にセフィロトを活性化させることができるのか?」

 アッシュはセフィロトを出るなり、早速シンクに向かって食ってかかった。シンクのほうは当然それを予期していたみたいで、面倒くさそうにため息をつく。

「何も起こらなくて当たり前でしょ。セフィロト程の重要な装置の守りが、たかだか弟子の一人に任せられるわけがない」
「それじゃあまだ他に何かあるのか」
「セフィロトには三重の守りがかけられてるんだよ。ユリアの弟子であるダアトとアルバートと、そしてユリア自身の術式によってね」

 ダアトはユリアの一番弟子で、アルバートもまた弟子であり後にユリアの伴侶となった人物だ。どちらも人選として妥当だったし、ユリア本人が封印を施すことにも納得できる。

「アルバート式封咒は、かつてホドが崩落した際に綻びが出てるそうだ。だからダアト式封咒さえどうにかしてしまえば、あとはヴァンがどうにでもできる」
「……どういうことだ、まだユリア式封咒が残っているだろう?」

 明かされる事実に引き込まれ、アッシュは思った疑問をそのまま口にする。するとそれを聞いたシンクは神妙な調子から一転、人を小馬鹿にするように鼻で笑った。

「ハ、それもヴァンから聞かされてないの? ヴァンは始祖ユリアの血を引いている。だからアンタでは何も起こらなくても、ヴァンならきちんとパッセージリングを操作できるんだよ」
「……! ヴァンはなぜそれを俺に言わなかった?」
「さぁね、なんでもボクに聞けば答えが出てくるとでも? 下の人間ってのは教えてもらうばっかで楽でいいね」

 おそらく先ほど参謀総長を馬鹿にした件を根に持たれているのだろう。しかしながらシンクがここまで説明してくれたのは珍しく、アッシュは反論の代わりに質問を続けた。

「……ヴァンは今、アクゼリュスに向かってるんだったよな?」
「そうだね。でもボクたちは向かわない。特にアンタは向かうわけにいかない、そうでしょ?」
「……」

(ヴァンは本当にあのレプリカを使って、預言スコアを実現させるつもりなんだな。まだ救えるかもしれない命を見殺しにして……)

 ヴァンの話では、『ルーク』はアクゼリュスで障気を吸った人間たちを巻き込んで死ぬ。キムラスカの武器となって、という言葉から、それは最終的にはキムラスカの益になるのかもしれないが、おそらく救出活動としては失敗に終わるということなのだろう。

 多数のために少数の犠牲を呑む。その考え方自体は理解できなくもないが、何か他に方法はないのだろうか。本当にヴァンにすべてを任せてしまってもいいのか。
 アッシュは一旦納得した風に口を閉ざしたが、その裏側でひそかにレプリカに交信を図っていた。

(意識の共有だけじゃない、もしも俺があいつの肉体を操作することができれば……)

 ヴァンは預言スコア通りにレプリカに超振動を使わせるつもりのようだったけれど、超振動はひどくコントロールが難しい。レプリカが介入することで、より甚大な被害を生むようなことがあれば目も当てられない。

(ナタリアもアクゼリュスに向かってるんだ。とにかくこのまま放っておくわけにいかない)

「……わかった」

 とはいえ単独行動すると宣言はできない。アッシュが頷くとシンクは疑うようにしばし黙りこんだが、やがて興味を失ったみたいに顔を背けた。

「ならいい」

 シンクの仮面の先を追えば、そこには張り詰めた雰囲気のフィーネがいる。
 どうやら彼には他にも気になければならないことが、山のようにあるらしかった。

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