32.全部忘れて(116/151)
早朝にバチカル城を抜け出したのは、旅の終わりを惜しんで、もう少しこのダアトとは違う景色を目に焼き付けておきたかったからかもしれない。親書も無事に届け終わり、マルクトが開戦の準備をしているなどというモースの発言も嘘である流れになった今、ここでイオンに危害を加えれば、モースが差し向けたのではないかと真っ先に嫌疑がかかるだろう。そういうわけで逆に手出しはされないと油断していたのだが、相手は既になりふり構わずの状態だったらしい。
――ご同行願えるかい? ――あなたたちは……
ケセドニアで出会った、サーカス団のような格好をした男女の三人組。彼らは道化た態度で、ノワール、ウルシー、ヨークとそれぞれ名乗り、久しぶりだねえと笑った。
――バチカルの入口でもお会いしましたね。神託の盾兵とお話されていましたが、僕を連れてくるようモースに頼まれたのですか?
街中でダアト式譜術を使うのはいくらなんでも被害が出すぎる。かといって、ダアト式本来の形である体術メインの技のほうは、イオンに体力がないため難しい。じりじりと後ずさりながら、イオンは大声で助けを求めるかどうか考えた。早朝とあって人通りはないが、騒ぎになれば誰かがキムラスカ兵を呼んでくれるかもしれない。 しかしそんなイオンの考えを読んだように、ノワールはするりと近づいて、イオンの鼻先に指を一本立てた。
――おっと、騒ぐの無しだよ。騒いで、あの導師守護役が来たら、困るのは坊やだって聞いてるんだからサ ――……アニスが来たら僕が困る? どういう意味です?
むしろキムラスカ兵よりアニスが来てくれれば、これ以上有難い話はない。 思わず怪訝な表情になって聞き返せば、ノワールは内緒話をするみたいに声を潜めた。
――抵抗するようなら、あのおチビちゃんに坊やの秘密を話していいって言われてるんだよ
言葉だけ聞けば、随分と月並みな脅し文句だ。だが、誰より清廉潔白に生きながらも、その出自に後ろ暗いところのあるイオンは息を呑んだ。
(まさか。彼らが導師のレプリカのことを知っているはずがない)
導師の入れ替わりの件は、それこそ秘預言よりも秘中の秘だろう。イオンを攫うためだけに、彼女のような外部の人間に教えるわけがない。冷静に考えればすぐに嘘だとわかる。こんなものはハッタリでしかない。そうは思いつつも、イオンは探りを入れずにはいられなかった。コーラル城で得た解析結果を六神将が執拗に狙ってきたこと、親書を届け終えたイオンに外部の人間を雇ってまで接触してきたこと。戦争を起こしたいだけにしては、あちこち引っかかる点がある。
――僕は元々ダアトに戻るつもりでした。一体どこへ連れて行くつもりなのですか ――さぁ、そんなことはあたしらに関係ないからねぇ。坊やがごねるようなら……そうだね、もうひとつ魔法の言葉を預かって来たんだったよ ――魔法の言葉……
ヨークとウルシーにも両側を固められているが、少なくとも彼らは手荒な真似をする気はないらしい。固唾をのんだイオンに、ノワールは勿体つけるようにゆっくりと唇を動かした。
――な、な、ば、ん、め ――っ! ――譜石の話かい? 生憎あたしらは意味までは知らされてないんだけどねぇ、それでもこれを言えば坊やは無視はできないはずだってサ ――……
ノワールの言う通り、それはかなり核心をついた単語で、イオンは表情を強張らせるしかなかった。タルタロスを強襲したくらいだ。今更力づくで攫うことも不可能ではなかっただろうに、あえてここで精神的な揺さぶりをかけてくるとは相手もなかなかに意地が悪い。
――……わかりました
結局、イオンは大人しく彼女らに従うことを決めた。どのみちこの状況を打開できるとは思えないし、敵の懐に飛び込むことで相手の狙いも掴めるかもしれない。 そうして覚悟して連れていかれた先は、やはり六神将の待つ陸艦だったのだが――。
「……ようやく、あなたとゆっくり話せるのですね、フィーネ」
イオンは嬉しいような、悲しいような、複雑な気分で目の前のフィーネに向かって微笑みかけた。この場で会うということは、彼女が単純に神託の盾としてイオンをダアトに連れ戻そうとしているわけではないということだからだ。
「イオン様、食事をとらないのは御体に障りますよ」
フィーネは特にこちらの言葉に反応を示さず、とても自然に軽食の乗ったプレートをイオンの前のテーブルに置く。ただ、イオンが要求した通りそれで終わりにせずに、彼女も対面の席に腰を下ろした。
「ありがとう。僕もまさか、自分がこんな手段をとることになるとは思いませんでした」
確かに友人一人を引っ張り出すのに、絶食による示威行動なんて大袈裟でしかない。しかしイオンがこうでもしなければ、フィーネは最初から会いに来る気は無かっただろう。その証拠にイオンの軟禁されている部屋に現れた彼女は、いつも通りに仮面をきっちりと着けていた。
「こうなってしまってから、ずっとフィーネと話がしたいと思っていました。顔を見せてはくれないのですか?」 「……仮面がイオン様にいつも見せている顔です。あなたの知っているフィーネは仮面でしょう」 「……そうですね。僕はフィーネのことを何も知りませんでした。顔のことも、過去のことも……僕はあなたの本当の幼馴染ではありませんから」
イオンがそう言うと、フィーネは唇をきゅっと真横に結んだ。それからややあって、吐き出すようにため息をつく。 「……別に、幼馴染かどうかは関係ないんです。イオン様はイオン様だから。私はイオン様に幼馴染の代わりになってほしいわけじゃありません」 「あなたの前でなら、導師でいなくてもいいとも言ってくださいましたね。でもそれなら、フィーネは僕に何を望むのですか? 何か目的があるから、こうして僕を攫ったのでしょう」 「……」
知らない事情は多かったけれど、これでも彼女の本質的なところは理解しているつもりだった。フィーネはとても優しい。技術としての武に興味はあっても、基本的には人との不和を望まない平和主義者だ。黙り込んだ彼女に揺らぎを見て取って、イオンは言葉を重ねて畳みかける。
「あなたの過去は知りません。ですが、今から互いに知ることはできます。これから先の未来なら、共に歩むことができるのではないでしょうか」
フィーネに一体何があってモースの側につき、戦争を起こそうとしているのかはわからない。どちらが正しくてどちらが間違っているか、それは今の段階では言い切れないことなのかもしれない。それでもイオンは戦争を止め、預言とは別の形でオールドラントが繁栄する未来を望んでいるし、その未来にはフィーネも共にあってほしいと思っている。 しかしそんなイオンの思いとは裏腹に、フィーネの揺らぎは一瞬にして消えてしまった。どうやら選んだ言葉が悪かったらしい。今度は逆に、覚悟を決めたような落ち着いた声が返ってくる。
「いいえ、イオン様。残念ながら……未来は全員にあるものではないのです。選別されたあなたなら、よくご存じのはずでしょう」 「……」 「私の目的は言えません。でもそのためなら命を落としてもいいと思っています。だから、イオン様がおっしゃるような未来はたぶん……無いんだと思います」
選別という恐ろしい単語に、命を賭けるという発言。 フィーネの直球さは知っていたつもりだが、イオンは思わずごくりと唾をのむ。
「それほどの覚悟を……。どうしても相容れないと言うのですか。話し合いもせず、諦めてしまうのですか?」 「っ、話し合いで全部解決するなら、イオン様だってダアトを抜け出さなくてよかったはずです」 「それは……」
確かにモースを抑え込めなかったことは、イオンの過失である。本来教団内で収めるべきことを、ここまで大きくして多くの犠牲を出してしまった。
「……すみません。イオン様に意地悪を言いたいわけじゃないです」
イオンが言葉に詰まると、フィーネはフィーネで声を詰まらせた。仮面で隠されてこそいるが唇がわななくように震えていて、泣くのを我慢しているのかもしれない。
「でも、もう私に期待しないでください。友人だと思わないでください。今までのこと……全部忘れてください」 「嫌です。忘れることなんてできません。全部、僕には大切な思い出です」
レプリカは被験者の記憶を引き継がない。だからこそ、イオンにはたった二年ほどの記憶しかないけれど、逆に言えばこの短い間の思い出はイオンにとって唯一のものだ。それを無かったことにしてくれなんて、ひどく残酷な提案だと思う。
「……イオン様が覚えていても、私は忘れますよ。忘れないと、進めませんから」 「構いません。あなたが忘れてしまっても、僕がフィーネという友人を忘れることはありません」
イオンが言い切ると、フィーネはますます苦しそうな気配を漂わせた。小さく口を開いて、喘ぐように言葉をこぼす。今度は無理に取り繕ったとわかるくらい、声音だけがいやに明るかった。
「……イオン様って、ものすごく頑固だったんですね」 「頑固なのはフィーネもでしょう」 「……昔、私とイオン様は似てるなって思ったの、思い出しました。それも、忘れなきゃいけないことだけど……」
フィーネは俯くと、葛藤するようにしばらくそのまま黙り込んでいた。イオンも彼女の意思の固さを見て取って、これ以上の説得を思いつけなかった。色々聞きたいことは山のようにあるけれど、きっと彼女は口を割らないだろう。フィーネが意地悪をしたいわけじゃない、と言ったように、イオンもまた彼女を苦しませたいわけではない。
「……食事だけはちゃんととってくださいね」
最後にフィーネはそれだけ言うと、静かに席を立ったのだった。
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mokuji
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